第三十三話
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「ラームチャンドラ・バクティ老師は、完璧な未来予知能力を持っていたから、あの晩、自分が完全な悟りを得ることが出来ることを、予知できた。それで、その時刻の少し後に、叡愼さんに僧坊を訪れるように告げていたんだよ。メフィスト」
「そ、それは……、それは、確かに机上の論理としては成立するかも知れませんが……。そんなことって……」
メフィストは、言葉を失っている。グレートヒェンの顔も、真っ青だ。
「人間の倫理や、論理を完全に超越した、修行者の論理と、倫理の上での犯行なのさ。だから、ラームチャンドラ・バクティ老師は、大宇宙の摂理に呑み込まれ、法輪が、また一つ回転したというわけだ」
「う、ううむ。混乱してしまいますが、納得せざるをえないんでしょうね。悪魔には、到底理解不可能な事態ですが」
メフィストが、呻くように言った。
「まあ、取り敢えず、お父さんのお陰で、悪魔族にかけられた疑いは晴れそうですが……」
「ふむ、土台、悪魔ごときが、儂らを殺すことなど、到底できんわい」
にやにや笑いながら、バイラヴァ老師が言った。聖者たちが、朗らかに笑いながら、頷き合っている。
「しかし、叡愼さんの修行としては、不殺生戒を破ることに問題はないんですか?」
メフィストが、もっともな疑問を発した。
「ふむ、そもそも、厳密に解釈すれば、我々は不殺生戒を破らずには生きてはいけない」
アル・ビスターミー師が言った。
「イスラム教的に考えてさえ、人間は、と言うより生き物は、他の生き物を殺すことによってのみ生存できる。まして、山川草木悉有仏性と教える仏教では、何ものかの犠牲なしでは、我々は生存できないのだよ。メフィスト。不殺生戒を、人間に限定するのは、人間の思い上がりというものなのだよ」
「う、うーむ」
メフィストが、考え込んでしまった。
「さて、人の子よ。叡愼は、選択した。その選択により、宇宙の法輪はまた一つ巡った。お前は、どういう選択をするのだ?」
龍門海上人が、歯の抜けた口で朗らかに笑いながら訊いてきた。
「おお、そうです、愛の人よ、あなたの選択は、どうなのですか?」
聖ジェズアルドが言った。
僕は、舌で唇を湿した。少し緊張する。
僕は、グレートヒェンの方へと向き直った。
「グレートヒェン、君は、融合体なんだね。そのことを自覚しているかどうかはともかく」
え? グレートヒェンが、怪訝そうな顔をした。
「多分、君は君で、謎の存在として天に生まれていたんだと思う。しかし、朱鷺子が亡くなってから、朱鷺子の魂が生きている君の中に転生した。それで、君の意識は、グレートヒェンとしての意識と、朱鷺子の意識との融合体となった。違いますか、バイラヴァ老師、パンチェン・フトクト師」
「ふむ、いい点を突いてきおったな」
バイラヴァ老師が、顎髭をしごきながら、愉快そうに言った。
「元来のグレートヒェンが、天上でどういう存在だったのかは、僕は知りません。でも、現在のグレートヒェンは、朱鷺子の生まれ変わりではなく、グレートヒェンという自我を備えながら、合わせて朱鷺子の自我も吸収している状態なんだと思います」
「ええ! じゃあ、朱鷺子は、この少女の中で生きているって言うの? リョウ」
エミリーが小さく叫んだ。
「ふむ。その通りじゃ」
パンチェン・フトクト師が、目に狂熱的な光を浮かべながら言った。
「多分、僕は、エミリーとの人間的な愛と、グレートヒェンとの人間の道から逸脱した愛の、どちらかを選ばなければいけないのだと思います」
「おお、そうです。その通りです」
アル・ビスターミー師が、いささか興奮したような表情を目に浮かべて言った。
「でも、僕の選択の結果は、皆さんのような聖者にはとっくにお見通しなんじゃありませんか」
「いや、そんなことはない」
龍門海上人が、即座に否定した。
「ラームチャンドラ・バクティ老師にさえ、その未来は見通せなかったじゃろう。儂らは、ただお主の選択を、興味深く見守っておるだけじゃ」
龍門海上人の言葉に、僕の緊張はいやが上にも増した。
ふと見ると、エミリーが、真っ青になった顔で僕を見詰めている。グレートヒェンもそうだ。グレートヒェンは、唇を噛みながら、僕の表情を見詰めている。
僕は言った。
「グレートヒェン、朱鷺子の生まれ変わりという意味でではなく、グレートヒェンという個人として、摩耶のお母さんになってはもらえないだろうか」
エミリーが、叫んだ。
「リョウ!」
「エミリー、すまない。僕は、やはりグレートヒェンを選択するよ。グレートヒェンが、どう思うかは分からないけど」
エミリーが、唇を噛みながら俯いた。
「どうかな、グレートヒェン、僕のお嫁さんになってはくれないだろうか」
「ええ、喜んで、涼。でも、私は、未だに私が何者なのか知らないのよ。それでもいいの」
「ああ、たとえ、君が悪魔の眷属でも構わない」
「ふむ、宇宙の法輪が、また一回り巡ったな」
龍門海上人が言った。聖者たちが、みんな頷いた。
「え? 僕の選択で、法輪が回るのですか?」
「ふむ」
バイラヴァ老師が答えた。
「グレートヒェンの存在は、宇宙に内在する一つの躓きの石なのじゃよ。グレートヒェン自身は、神でも、仏でもなく、ましてや天使でも悪魔でもない。永遠に女性なるものの象徴なんじゃ」
「永遠に女性なるもの……」
僕は、言葉を失って考え込んだ。
「じゃから、そのグレートヒェンの魂の中に、片々たる個人の人間意識が転生してきたときには、みんな驚いたものじゃ。あの、ラームチャンドラ・バクティでさえ、予見できなかったと言っておった」
「片々たる個人の意識というのは、朱鷺子の魂ということですか?」
「ふむ、その通りじゃ」
バイラヴァ老師は、考え込みながら言った。
「グレートヒェンは、ある意味では、神よりも、神的な存在なんじゃよ」
龍門海上人が、歯の抜けた口を開けて笑った。
「お主が、グレートヒェンとの愛を受け入れて、サンサーラの次の段階に進む道を選ぶか、エミリーとの人間的な愛を受け入れて、六道輪廻の道に再び迷い込むかは、誰にも予測がつかなんだ。ラームチャンドラ・バクティ老師が生きておっても、無理だったじゃろう」
僕は、エミリーを見た。エミリーが、声を出さずに、泣いていた。哀切な泣き方だった。
メフィストが、そんなエミリーを優しくかき抱きながら慰めている。
「メフィスト、君は……」
「ええ」
メフィストが、ふっ、と口を歪めて笑いながら言った。
「私も、この肉感的な少女を気に入ってしまいましてね。まあ、お父さんの気持ちがはっきりするまでは、言い寄れなかったんですが」
こう言ってから、エミリーの顎に右手をかけて、その顔を上向かせながら言った。
「どうです、エミリー、僕と、結婚を前提に付き合ってくれませんか?」
「え?」
エミリーの目が、ますます潤んだ。
「でも、あたしは、まだリョウのことが好きよ」
「ああ、時間をかけて、私のことを好きになってもらいましょう」
「メフィスト、でも、君、年齢は……」
「ええ、エミリーと一緒に年老いていくのも、悪くないと思います」
「ほっほっほ」
バイラヴァ老師が笑った。
「どうする、少女よ」
「ええ、待ってもらえるなら、リョウのことを忘れるように努力してみるけど……」
「メフィストよ。当分の間、魔力を失って不便になるぞ」
「ええ」
メフィストは、また、ふっ、と笑った。
「仕方ありませんね。覚悟はしています」
「ふん。これで決まったな」
パンチェン・フトクト師が、何やら謎めいた光を目に浮かべながら言った。
ん、何が決まったと言うのだろう?
「若者よ」
龍門海上人が、僕に呼びかけた。
「お前は、これから長い長い旅に出なければならぬ。サンサーラという旅じゃ。その旅の間中、お前はずっと修行を積まねばならぬ。儂らのようになあ。長い長い、解脱を求めての旅じゃ」
「え、と、おっしゃっている意味が、良く分かりませんが……」
「なに、ことは簡単じゃよ」
バイラヴァ老師が言った。
「ラームチャンドラ・バクティという不信心者がいなくなった。その分、宇宙に魂の席が一つ空いた。その席を、今度はお前が埋めて、解脱への道をずっと歩む、とまあ、平たく言えばそういうことじゃよ」
「え!」
僕は思わず叫んだ。
「すると、なんですか。僕は、これから宇宙が終わるまで、サンサーラし続けて修行をするんですか?」
「いや、人の子よ。多分、この宇宙の終わりまででは間に合うまい。この宇宙が終わり、次のヴァーユ・風が吹いて、新しい宇宙が始まり、それが終わっても、お前は修行を続けるのじゃ」
龍門海上人が、こともなげに言った。
「え、で、では、今の、この世での僕の生活はどうなってしまうのですか?」
「なに、どうもなりはせんよ」
パンチェン・フトクト師が言った。
「儂らの修行は、別に出家しなければならん、などという狭いものではない。今生では、お前は天体物理学者として生き、グレートヒェンという妻を持ち、摩耶という娘を持つ。それだけじゃ。そして、転生してもグレートヒェンと摩耶との縁はずっと続く。それが、宇宙の理じゃ」
パンチェン・フトクト師がこう言うと、残りの聖者たちも一様に頷いた。
はあ、まあ、なんだか途方もない話だが、まあいいとしよう。今生では摩耶とグレートヒェン=朱鷺子と共にいることができるのなら、贅沢は言うまい。
「さあ、それではメフィスト、君もアンデスに行きなさい。さようなら。君は、当分の間私たちの結界には、入ってくることができないはずだからね。それからグレートヒェン、君も愛の人との愛を選択したことで、今生では普通の人間となる。それでいいね」
グレートヒェンが、晴れやかな顔をして頷いた。
「では、グレートヒェン、メフィスト、当分の間ごきげんよう」
聖ジェズアルドが、こう言ってウィンクをした。




