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メフィスト・フェレスの狼狽  作者: ヒデヨシ
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第三十二話


「さて、そのアル・ビスターミー師が、僕に、『神が下した奇跡の愛と、〈人間〉の愛と、どちらを選ぶのか』と訊いています。さらに、『グレートヒェンが生まれた奇跡』とも言っています」

 グレートヒェンと、メフィストが、困惑したような顔をしている。エミリーは、何が何だか分からないような表情をしている。

「そうして、不可解なのは、聖者たちが僕を〈人の子〉と呼ぶことです」

 今度は、全ての聖者たちが、パンチェン・フトクト師みたいに、にたり、と笑った。

「決定的なのは、龍門海上人が、『悟りを開いたものは、なんの教えに帰依するものであろうと、みな仏だ』と言ったことです」

 聖者たちを見回す。どうやら、今のところ道は踏み外していないようだ。

「そして、龍門海上人は、『要諦は、スピノザの首じゃ』と言いました」

「お父さん、僕には、なんのことだかさっぱり分かりません」

 メフィストが、当惑したような顔で言う。僕は、それに小さく頷いた。

「さて、ここで思い出して欲しいのは、〝南泉斬猫〟という公案です」

 僕は、また歩き始めた。

「南泉斬猫、という公案は、こんな公案です。

 南泉和尚、因東西両堂争猫児、泉乃提起云、

 大衆道得即救、道不得即斬却也。

 衆無対。泉遂斬之。

 晩趙州外帰。泉挙似州。

 州乃脱履安頭上而出。

 泉云、子若在即救得猫児。

 読み下すとこうなります。

 南泉和尚、東西の両堂が猫児を争うにちなみ泉、すなわち提起していわく、

『大衆、いい得ば即ち救わん、いい得ずんば即ち斬却せん』

 衆、こたうる無し。泉、遂に之を斬る。

 晩に趙州、外より帰る。泉、州に挙似す。

 州乃ち履を脱して頭上に安じて出づ。

 泉、云く『子もし在りしなば、即ち猫児を救い得たらん』

 要約するとこうなります。

 東西のお堂の僧侶たちが、子猫のことで争っていたので、南泉和尚が、問いかけます、お前たち、答えられたら子猫を救ってやろう。答えられなければ子猫を切るぞ。と。

 僧侶たちが答えられずにいたので、南泉和尚は子猫を切ってしまいます。

 しばらくして、趙州和尚が帰ってきたので、南泉和尚は同じ問いを発します。その時の、趙州和尚の答えが、靴を頭に乗せて歩くことだったのです。

 ここで、南泉和尚は、何について言い得たら子猫を救うのか、何も『問題』を明示していません。普通は答えられるはずがない。しかし趙州は、履いていた靴を頭に乗せることによって、その問いかけへの答えとしています」

 もう一度、僕はみんなを見渡す。特に、ある一人の人物に、視線を投げかける。やはり、その人物は動揺したりはしていない。

「『スピノザの首を持ってこい』という問いかけは、僕には、この南泉斬猫の公案を想起させました」

 僕は、その一人をじっと見詰めた。平静なものだ。なんの動揺も見せていない。しかし、そのことが、かえって僕の確信を深める。

「さて、もう一度、基本の基に立ち返りましょう。この事件に関しては、ラームチャンドラ・バクティ老師の呪縛が有効で、たとえ神でも、仏でも、この件に関する限り嘘はつけない。そういうことでしたね?」

 聖者たちが頷いた。

「そうすると、まずバイラヴァ老師は、容疑者から外されます。マールカンデーヤ少年の証言があるからです」

 僕は、右手の親指を折った。

「次ぎに、聖ジェズアルド。彼も、容疑者から外されます。自分で、アリバイがあると主張しているからです。同じように、パンチェン・フトクト師も容疑者ではありません。アル・ビスターミー師も、ホームレスたちの証言がありますから、容疑者ではありません。龍門海上人は、問題の時間、自分は死んでいたと証言していますから、やはり容疑者ではありません」

「お、お父さん。それでは、容疑者がいなくなってしまいますよ」

 メフィストが、真っ青な顔で慌てたように言った。

「そう、容疑者を、聖者たちに限ってしまえば、そうなるね。でも、メフィスト、僕たちは、まだ一人、肝心な人物の証言を得ていないよ」

「え? そ、それは誰ですか?」

 メフィストが、本当に混乱した顔をした。グレートヒェンも、何が何だか分からない、という顔をしている。

 僕は、問題の人物に向き直った。

 今が、その時だ。

「叡愼さん、ラームチャンドラ・バクティ老師が殺害された時、あなたはどこで、何をしていましたか?」

「それは、我が師父がまだ生きておられた時点から、ということでよろしいでしょうか?」

 叡愼さんが、穏やかな声で言った。

「ええ、そうおねがいします」

 いつの間にか、月が昇っていた。明るい三日月だった。その月の光の下で、叡愼さんはとても涼やかに立っていた。

「あの日、真夜中の三時ちょうど、私は師父が断食行をしておられる、この僧坊に参りました。師父は蓮華座に足を組まれて、瞑想をしておられました。私が、僧坊に入りますと、師父は『来たか』とおっしゃいました。そこで、私は、カーリー女神の像を取り上げ、礼拝し、それを」

 叡愼さんが、一瞬言葉を切った。

「振り上げ、師父の頭に振り下ろしました」

「な、なんですって!」

 メフィストが、腰を浮かした。グレートヒェンも、真っ青な顔をして叡愼さんを見詰めている。エミリーは、何が何だか分からずに、呆然としている。

 しかし、聖者たちは、こともなげに座ったままだ。

「しばらくして、師父の脈を取りましたところ、師父は既に事切れておられました。そこで、私は、師父を、仰向けの寝姿に整え、紫色の菫の花を胸に置かせていただき、合掌してその場を立ち去りました。そして、兼ねてのお言いつけ通りに、早朝四時に断食開けのヨーグルトをお持ちいたしました」

「い、いや、いや、待ってください。納得できません」

 メフィストが叫んだ。

「では、ラームチャンドラ・バクティ老師の未来予知能力はどうなるのですか?」

「どうもなりませんよ」

 僕は、少し冷たく答えた。

「ちょ、ちょっと待ってください。私も納得できません」

 グレートヒェンが震える声で言う。

「ラームチャンドラ・バクティ老師の未来予知能力は、完璧だったというお話は、どうなるのですか?」

「ですから、どうもなりません。ラームチャンドラ・バクティ老師は、完璧な未来予知能力を持っていました」

「で、では、どうして! どうしてラームチャンドラ・バクティ老師は、むざむざと殺されてしまったのですか?」

 メフィストの叫び声は、悲痛にさえ聞こえる。

「禅の語録に『臨済録』という語録があります」

 僕は、落ち着いた声で言う。こんな時に、大学での講義の時よりも冷静でいられる自分が、不思議だ。

「その臨済録に、こんな謎のような言葉があります。

 爾欲得如法見解、但莫受人惑。

 向裏向外、逢著便殺。

 逢佛殺佛、

 逢祖殺祖、

 逢羅漢殺羅漢、

 逢父母殺父母、

 逢親眷殺親眷、

 始得解脱。不與物拘、透脱自在。

 こんな言葉です。読み下すと、次のようになります。

 爾如法に見解を得んと欲せば,但人惑を受くることなかれ。

 裏に向かい外に向かいて逢著すれば便ち殺せ。

 仏に逢うては仏を殺し、

 祖に逢うては祖を殺し、

 父母に逢うては父母を殺し、

 羅漢に逢うては羅漢を殺し、

 親眷に逢うては親眷を殺して、

 始めて解脱を得ん。物と拘らず透脱自在なり。

 と、まあこんな言葉です。

 何とも不思議な言葉です」

 僕は、メフィストとグレートヒェンの顔を見る。聖者たちは、満足そうに頷いている。

「この言葉は、普通は〝父母〟とか、〝仏〟と言った、自分の中の概念に執着せずに、そういう概念を自分の心から消し去って、そういう〝概念〟の束縛から自由になることが、解脱への道だ、という風に、常識的には解釈されています」

 叡愼さんの方に、向き直る。

 叡愼さんは、どこまでも涼しい顔を崩していない。

「仏に逢うては仏を殺し。この謎のような言葉を、あなたは文字通り解釈したのですね、叡愼さん」

 若い修行僧は、と言っても、多分輪廻しているから、僕よりずっと年上なのだろうが、静かに合掌して立っているだけだ。

「ど、どういうことです、お父さん? ラームチャンドラ・バクティ老師は、ヒンドゥー教の修行者ですよ。仏と一体何の関係があるのですか?」

「ラームチャンドラ・バクティ老師は、悟っておられたのですね」

 問いかけると、初めて若い僧は答えた。

「はい、悟っておられました。完全な、悟りの境地に達しておいででした。それが、私のような修行浅き身にも、はっきりと分かりました。それで」

「それで、殺したのですね。〝仏〟を」

「はい」

 若い修行僧は、涼しげな眼差しのまま、答えた。

「メフィスト、龍門海上人は、こう言っていただろう。『悟りを開いたものは、なんの教えに帰依するものであろうと、みな仏だ』と。さらに、バイラヴァ老師は。こうも言っている。『偉大なるシヴァの踊りにつれて、真理の法輪は巡り巡る。山に登るとば口は幾つあっても、解脱の末の山頂には、常に踊るシヴァがおわします』、とね。要するに、登り口はどこだろうが、解脱という最終目的に達してしまえば、みんな〝仏〟なのさ。だから、ヒンドゥー教の教えの下で解脱したラームチャンドラ・バクティ老師も、仏教で言えば仏なんだよ」

「あ!」

 メフィストは、小さく叫んだ。

 僕は、もう一度叡愼さんの方に振り返った。

「あなたは、覚然和尚も、殺したのですね」

「はい、殺させていただきました。祖に逢うては祖を殺し、でございますから」

「ご両親は?」

「はい、私は、今生では孤児でございますので、殺そうにも両親がそもそもおりません」

 涼しげに笑う。


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