第三十一話
2
最初に、龍門海上人が現れた。ぼろぼろの着物のままで、にこやかに笑いながら戸を開けて歩いてきた。
エミリーが、膝を崩していたのに、いきなり正座して拝むように敬礼した。
やはり、聖者の尊さが、直感的に分かるらしい。
次いで、グレートヒェンが、息を切らして入ってきた。エミリーの目が、キッときつく、険しくなった。
グレートヒェンは、そんなエミリーの視線を上手く受け流して、僕からは少し離れたところに座った。
エミリーは、グレートヒェンを睨みながら、僕にすーっと身を寄せてきた。
次いで、聖ジェズアルドが、悠揚迫らぬ態度で入ってきた。聖ジェズアルドにも、エミリーは礼拝をするようにお辞儀をした。
次いで、バイラヴァ老師がやってきた。相も変わらず、灰に塗れ、男性のシンボルも丸出しの丸裸である。
エミリーは、目を剥いて驚いたが、やはり拝んだ。
それから、アル・ビスターミー師が入ってきた。
頭に巻いたターバンから、明らかにイスラム教徒と分かるのに、それでもエミリーはアル・ビスターミー師を拝んだ。
やはり、最後に、パンチェン・フトクト師が現れた。あの洞窟の時とは違い、どこか厳粛な表情を作っている。
当然、エミリーは、伏し拝むように敬礼した。
そして、叡愼さんが入ってきて、扉をそっと閉めた。それを機に、聖者たちはみんな腰を下ろした。叡愼さんだけは、合掌したまま立っている。
「さて、愛の人よ」
聖ジェズアルドが口を開いた。
「今度の事件の、真相がお分かりになったとか」
「はい、どうやら分かったと思います」
「ふむ、小僧っ子、聞かせてもらおうか、真相とやらを」
パンチェン・フトクト師が、目に狂的な光を宿しながら言った。
僕は、立ち上がり、唇を舐めた。
「確認しておかなければいけないことがあります。一つは、この事件に関する証言には、ラームチャンドラ・バクティ老師の呪縛がかかっていて、誰も偽証はできない、という点です。これは正しいのでしょうか?」
僕は、聖者たちの顔を見回した。
一人一人が、厳かに頷いた。
龍門海上人が、みんなを代表して言った。
「うむ、人の子よ、それは確かじゃ。儂らの誰も、この事件に関しては、偽証はできん」
僕は、頷いた。
そして、両手を腰の後ろで組んで、歩き始めた。
「キーポイントの一つは、『スピノザの首を持ってこい』、という言葉です。それで、今日は、スピノザを連れてきました」
僕は、エミリーに抱かれていたスピノザを取り上げた。文句も言わずに、大人しく抱かれたままになっている。
「禅に『無門関』という語録があります。その第十四則に、とても有名な〝{ルビ なんせんざんみょう}南泉斬猫{/ルビ}〟という公案があります」
僕は、みんなを見渡す。メフィストとエミリー、それにグレートヒェンは、なんのことだか分からない、という顔をしている。それに対して、五人の聖者は、一様に面白そうな顔をしている。
「その公案に沿って、『スピノザの首を持ってこい』という命令に対して、僕はこう答えます」
僕は、ちょっとかがんで右足の靴を脱ぐと、それを頭の上に置いて、合掌しながら歩いた。メフィストたちは、狐につままれたような顔をしている。一方、聖者たちは、顔色一つ変えずに、僕を見守っている。
「さて、まず僕が引っかかった、最初の証言は、バイラヴァ老師のおっしゃった、ラームチャンドラ・バクティ老師の死が『大宇宙の摂理で、既に予定されていたこと』という証言でした。その後に、バイラヴァ老師は『あの不信心者がこの現象世界から姿を消したことで、宇宙の法輪も、また一つ巡った』ともおっしゃっています」
「ふむ、それは確かじゃ。法輪は、一つ巡った。お前の答え次第では、もう一つ巡るかも知れん」
顎髭をしごきながら、バイラヴァ老師が言った。今聞くと、意外なほどに深いバリトンだった。
「さらに、聖ジェズアルドは、こうも言いました。『ヴィシュヌと言うも、キリストと言うも、もしかすると同じ神を讃えているのかも知れない』と」
聖ジェズアルドが、大きく頷いた。
「そして、聖ジェズアルドは、こうも言いました。神の〝恩寵〟によって、朱鷺子が〝死んだ〟と」
僕は、挑戦的な目で聖ジェズアルドを睨み付けた。
ところが、聖ジェズアルドだけではなく、五人の聖者が、みんな頷いたのだ。
「そうじゃよ。人の子よ。朱鷺子は、まさに神の恩寵によって死んだのじゃ」
龍門海上人が、朗らかに笑いながら言った。
「その恩寵を授ける神が、生ける光なのですね」
僕が言うと、聖者たちは、一様に、「そうだ」という風に頷いた。
「また、聖ジェズアルドは、こうも言いました。神は無能だ、と。絶対に善で、無能な嬰児だと」
今度も、聖者たちは一斉に頷いた。
僕は、だんだん緊張してきた。少しずつ少しずつ、問題の核心に近づいていく。
「それから、聖ジェズアルドは、こんなことも言いました。〝愛の奇跡〟と」
聖者たちは、やはりにこにこと笑っている。何かを、祝福するかのように。
「その後で、パンチェン・フトクト師は言いました。『お前の両親の首を切って、ここに持ってこい』と。それからこうも言いました。『真っ赤な血の滴る、フェルミ博士の首を、銀の盆に乗せて儂の目の前に持ってくるのじゃ。さすれば、儂もラームチャンドラ・バクティの首を切って進ぜよう』と」
メフィストと、グレートヒェン、エミリーは、きょとんとした顔をして僕の言うことを聞いている。
僕は、唇を舐める。
いよいよ本番だ。
「そして、僕が両親の首を切れないと言ったときに、パンチェン・フトクト師はこう言いました。『そんな心がけでは、真理への道を歩むことは出来ん』と」
パンチェン・フトクト師が、にたり、と笑った。
胃の辺りに、重たい水銀が溜まる。でも、僕は話を続ける。
「パンチェン・フトクト師は、こうも言いました。『ラームチャンドラなら、わしが殺したかったものよ。修行の完成に一歩近づくでな』と」
僕は、聖者たちを見回した。聖者たちも、謹厳な表情をしている。
「これは、一つの道標だと思いました」
誰も、笑わない。
静寂。
ゴータマ・シッダールタが、達した究極のニルヴァーナの静けさ。その静寂に、今宇宙は満ちている。
「それから、奇怪なことがありました。グレートヒェンが、自分の正体を知らなかったことです。おまけに、メフィストもグレートヒェンの正体を知らなかった。しかも、グレートヒェンも、メフィストも、そのことに気が付いていなかったんです。これは、おかしい」
グレートヒェンの顔が、蒼褪めている。
「その後、アル・ビスターミー師も、『ラームチャンドラ・バクティ老師も、ついに大宇宙の摂理の中に呑み込まれたようだねえ。素晴らしいことだ』、と言っていました。ラームチャンドラ・バクティ老師が亡くなったのが、素晴らしいことだと」




