第三十話
第七章 こうしてゴルディアスの結び目はほどかれる
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アンデスの家に帰った。
「ただいまー」
声を上げると、ナーニ小母さんとスピノザが迎えに出てきた。
「摩耶とエミリーは?」
ナーニ小母さんに聞くと、
「エミリーは、摩耶を寝かせているうちに、自分も寝てしまったの」
とナーニ小母さんが愉快そうに言った。
「ああ、寝不足みたいなことを言っていましたからねえ」
僕とメフィストは、居間に上がった。
「今、摩耶とエミリーを起こしてきますからね」
ナーニ小母さんは、こう言うと、ちょっと重量感のある音を立てて二階への階段を昇っていった。
スピノザが、僕の膝に上ってきた。その首を撫でながら、僕は呟いた。
「スピノザの首を持ってこい、か」
ふと、何か引っかかりを感じた。
「メフィスト。僕は、少し書斎にこもって考え事をしてくるから、エミリーと摩耶の相手をしていてくれないかな」
「ええ、いいですけど」
ぼそ、っとメフィストが言う。
「何か、思いつかれたんですか?」
「うん、下手人が、分かるかも知れない」
「え?」
メフィストが、驚いたような顔をした。
「今までの手がかりでですか?」
「うん」
僕は、頷いた。
「もちろん、まだまだ仮説段階だ。少し、検討してみたい」
「分かりました。腹話術でも、なんでもしますよ」
メフィストが、渋い声で言った。
僕は、チャオ、と手を振った。
エミリーと摩耶が降りてきた。
「エミリー、僕は、ちょっと仕事で書斎にこもるから、メフィストと二人で、摩耶のお守りを頼むよ」
「あら、家でまで仕事なんて、珍しいわね。分かったわ。大丈夫、摩耶は任せておいて」
エミリーが、にこやかに首を縦に振った。
僕は、二階への階段を昇った。書庫は一階にあるが、書斎は二階にある。
考え事や読書に集中すると、僕はまったく動かなくなるので、少し強制的に動いた方がいい。そう言うわけで、朱鷺子が、書庫は一階、書斎は二階と分離することに決めたのだ。
僕は、書斎に入った。
デスクの前の椅子に腰掛け、深呼吸をしてから、胸のロケットを開いた。
封印された朱鷺子の笑顔があった。
そのロケットをデスクの上に置いて、両肘をデスクに突き、両手の親指で顎を支えて考え事をする態勢に入った。
スピノザの首、スピノザの首と。
なにか、これがどうしても引っかかるんだ。
そのまま、僕は、無我の境地になった。
何時間経っただろう。
閃いた!
まさに、エウレカ! だった。
全てのピースが嵌り、全ての謎が解けた。
なんだか、身震いするような真相だった。
寒気と、のぼせが同時に来るような感じだった。
よし。
僕は、階段を下りた。
「ナーニ小母さん、ちょっとお願いがあるんですが」
「あら、リョウ、なにかしら?」
「僕とスピノザとエミリーは、これからメフィストと出かけなくっちゃならないんです。少しの間、摩耶の面倒を見ていただけませんか? 臨時手当は、はずみますから」
「あら、リョウ。水くさいわね。お手当なんていただかなくても、摩耶のお相手ぐらいするわよ」
ナーニ小母さんは、快活に笑った。
「摩耶、お父さんは、ちょっとお仕事で出かけなくっちゃいけないんだ。お利口に、お留守番できるね」
「うん、大丈夫でしゅ」
ませた口調でこう言う。僕は、その頭を撫でてやる。
「さて、じゃあメフィスト、ラームチャンドラ・バクティ老師のドッキネーショル寺院に行こう。そして、そこに全ての聖者に集まってもらうんだ」
「え、聖者全員にですか?」
「うん」
「自分の結界に引きこもっている、パンチェン・フトクト老師や、龍門海上人が出てきてくださいますかどうか……」
「うん、でもきっと出てきてくれると思うよ」
「分かりました。念を送ってみます」
「それから、この謎解きには、エミリーにも立ち会ってもらった方がいい。エミリーも一緒に頼むよ」
「ええ、それはお安いご用ですが」
メフィストが、少し躊躇いを見せる。
それはそうだろう。エミリーに、聖者たちを見せていいものかどうか、悪魔としては迷うところだろう。
「それから、グレートヒェンも呼んでくれ」
「え?」
メフィストが、エミリーの様子を窺いながら、驚いたような声を出した。
僕は、笑って頷いた。
「では、そうします」
こう言ってから、メフィストは、指を、パチンと鳴らした。
エミリーが、息を呑んで驚いている。初夏のアンデスの高原から、ここ灼熱のインドまで飛んだのだから、当然だ。
少し歩く。エミリーは、信じられない、という顔をしてきょろきょろと辺りを見回している。
真っ白な塀で区切られたドッキネーショル寺院に入る。
叡愼さんが、庭を竹箒で清めていた。
僕たちを見ると、手を合わせて礼をした。女人禁制、などと堅苦しいことは言わないようだ。
僕とメフィストとエミリーとスピノザは、ラームチャンドラ・バクティ老師の僧坊に入った。清潔に整えられ、血痕なども綺麗に始末されていて、跡形もなかった。ここで殺人事件が起こったなどとは、誰にも分からないだろう。
椅子が、二つしかなかったので、僕たちは、みんな床に座った。僕は、瞑目した。
やっぱり、緊張していた。




