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メフィスト・フェレスの狼狽  作者: ヒデヨシ
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第二十九話


「さて、では龍門海上人の修行の場所、日本は湯殿山に飛びます」

「それにしても、アル・ビスターミー師と言い、龍門海上人と言い、二人も日本で修行しているというのも、なかなか奇妙な暗合だね」

「あ、それは理由があります」

 メフィストが言った。

「龍門海上人は日本人ですから当然ですが、アル・ビスターミー師は、わざわざ市井の俗人に混じって修行をしようとしています。そんな場合、キリスト教国なら迫害されますし、イスラム教国なら、逆に奇跡を望む人々に付きまとわれます。宗教的にニュートラルな日本というのは、アル・ビスターミー師のような立場の人にとっては、とても居心地がいいようです」

 なるほど。それは理屈だ。

「では、飛びます」

 一面の雪だった。

 積雪は、厚さ何メートルになるか分からない。

 湯殿山は、修験道で有名な出羽三山の奥の院だ。当然、日本有数の霊的なスポットということになる。

 湯殿山と言えば、即身仏で有名だ。五穀を絶ち、十穀を絶ち、木食行という荒行を行い、最後は生きながら埋葬されて、その身のまま仏になる。そして、衆生を救う。その身のまま仏となる、と言えば聞こえはいいが、要するに餓死して木乃伊になると言うことだ。

 なんとも、壮絶な話だ。

 湯殿山には、そうして木乃伊=即身仏になった仏が何体も祀られている。

「さて、凄い雪ですが、ここはもう龍門海上人の結界の中なので、私にはこの雪を溶かしたりはできません。とにかく雪をこいでラッセルしていきますから、お父さんもついてきてください」

 こう言って、メフィストは本当にラッセルし始めた。

 僕は、その後をついていくが、既にラッセルされた道があっても、充分歩きにくい。ちょっと、食後の一運動、というわけにはいかないようだ。

 メフィストは、大変な勢いでラッセルしていく。その道をついて行っているだけの僕が、置いて行かれそうだ。いやはや、悪魔の体力というものはすさまじい。

 それにしても、寒い。難路を歩いているのだから、汗は出てくるのだが、それがすぐ冷える。情けないが、がくがくと震えがくる。

 もう少し厚着をしてくるべきだった。事前に言ってくれればいいのに。少し、メフィストが恨めしくなる。

 小一時間、そうしていただろうか。いい加減、足の膝が笑うようになってきた。

 と、前方に何か見えてきた。それは、竪穴式住居のように見えた。

 その竪穴式住居から、有名な苦行をするゴータマ・シッダールタの像のように、痩せさらばえた木乃伊寸前の人影が出てきた。

「ほっほ、やって来たな、悪魔の坊やと人の子よ」

 人の子?

 少し引っかかった。

〈人の子〉というのは、新約聖書でナザレのイエス=イエスキリストを指す言葉だからだ。

 人の子というのは、僕に対する呼びかけだろうか? 

 ならば、龍門海上人は、この言葉をどういう意味で用いているのか?

 少し気になった。

「どれ、まあ、中に入れ。外よりは、少しは暖かいぞ」

 満面の笑みである。白髪がぼうぼうと伸び放題になっている。髭も、同様に白く伸びている。笑うと、何本も歯の抜けた口が大きく開く。着ているものは、何か植物の繊維を織って作った布のようだが、薄汚れ、ぼろぼろになっている。

 少し、バイラヴァ老師に似た雰囲気を持っているが、あそこまで人は悪くなさそうだ。

 竪穴式住居の中に入ってみると、狭い。そして、寒い。およそ火の気というものがないのだ。

 僕は、とうとう音を上げた。

「龍門海上人。寒いのですが、なんとか暖めてもらえないでしょうか?」

「あ、すみません。お父さん。気が付かなくて」

 メフィストが慌てたように言う。

 龍門海上人が、無言で手を差し出した。その手に、焔が乗っている。その焔を、中央に切られた囲炉裏のような場所に置く。すると、その焔が大きくなり、少し暖かくなってきた。

「ほっほ、儂は、基本的に煮炊きというものをせんのでな。まあ、せっかくのお客だ。白湯なりと、ご馳走しよう」

 そう言って、燃えるものがないのにゆらゆらと揺れている焔に、土器を置き、外から雪を少し取ってきてその土器に入れた。

 しん、と静かな時間が流れる。

 そう、ちょうど、メフィストが初めてアンデスの天文台を訪れた時に感じたような静謐さだ。

 目の前にいる、龍門海上人が、ラームチャンドラ・バクティ老師殺害の犯人なのだろうか?

 しかし、そんなことをするには、目の前の老人にはあまりにも毒気がないように見える。

 土器の中で、お湯がぽこぽこと沸き始めた。

 龍門海上人は、その土器を素手でつかみ、平気な顔をして木を刳り抜いて作ったお椀に白湯を入れた。

「ほれ、人の子よ、飲むがいい」

 一口飲んで、生き返った心地がした。胃の中に、温かい流動物が流れ込んでいく。

 ふー、っと、ため息が出る。

 少しゆとりができて、辺りを見回す。

 それにしても……。

 それにしても、とんでもない住まいだ。

 聖ジェズアルドも、いい加減質素な暮らしだったが、それよりも凄い。まあ、洞窟で暮らしているパンチェン・フトクト師よりは、文明的かも知れないが。

 発掘調査などで、竪穴式住居には乾いた砂が敷き詰められていただろうと推測されている。座り心地は、そんなに悪くなかったはずだ。

 それなのに、この竪穴式住居は、床が剥き出しの土なのだ。尻の方から、しんしんと冷えが上がってくる。

 こんなところに長居はご免だ。

 メフィストは、そんな僕の気持ちを察したのだろう。龍門海上人に、すぐに核心を突いた問いを発した。

「龍門海上人様。お上人様は、ラームチャンドラ・バクティ老師殺害事件の時に、どこで、何をしていらっしゃいましたか?」

「ふむ」

 龍門海上人は、長い顎髭をしごきながら答えた。

「その時なら、死んでおった」

 は?

 僕は、一瞬絶句した。

「あの、死んでいたのに、今は生きていらっしゃるのですか?」

「うむ、そうじゃ」

 この坊さんも、ずいぶんと人を食ったことを言う。やっぱり、聖者なんてものは、ろくなもんじゃない。

 僕は、深々とため息をついた。

「なに、そんなに驚くほどのことではないぞ。ヨーガ行者は、よく仮死状態になるじゃろう。あれが、少し進んだ状態と言って良い」

 うーむ。しかし、仮死状態は仮死状態だ。死んでしまうのとは、明らかに違う。

「そのことを、証言できるものはいますか?」

 メフィストが、あくまでも冷徹に追い詰める。

「ふむ。儂は、不殺生戒を厳密に守っておる。うっかり虫などを殺してしまわんように、儂の結界内には、儂以外には動物は入れんようになっておる。お前たちは、特別の例外じゃ。その辺に転がっておる百合の根や、ドングリなどの他には、生き物はおらんから、証言者もおらんな」

 飄々としている。

「そうさな。昨日までは、儂は死んでおった。まあ、儂もラームチャンドラ・バクティ師ほどではなくとも、多少未来が読める。それで、お前たちが来るまえには、生き返っておったと、こういうことじゃよ」

「しかし、そんなに簡単に、生き死にの境を超えることができるのですか?」

 僕は、知らないうちに、問い詰めるような口調になっていた。

 もし、そんなに簡単に死んだり、生き返ったりできるのなら、朱鷺子を今すぐにでも蘇らせて欲しい。

「くっくっくっく」

 龍門海上人が、笑った。

「いやいや、それは無理じゃよ。人の子よ」

 え!

 一瞬驚いたが、そうだった。相手は聖者だ。僕の心なんて、簡単に読めるのだ。

「儂はのう、儂自身なら、死んだり生き返ったり、自由自在にできる。しかし、〈愛〉の力で、一度死んだ他人を復活させることはできんのじゃよ。ナザレのイエスは、それが出来たということになっておるようじゃが、まあ、あれは勘違いなのでな」

「ラザロ復活の奇跡は、眉唾だと?」

 メフィストが訊いた。

「ふむ、あれは、仮死状態のものを生き返らせたに過ぎん。ヨーガ行者でも、四日ぐらい仮死状態でいられる者など、いくらでもおる」

「ふーむ」

 メフィストが、考え込んだ。

「本当に死んでしまったものを生き返らせるのは、本物の奇跡じゃ。それは、真に神や仏の御業じゃ」

 こう言うと、ほっほっほ、と笑いながら髭をしごいた。

「龍門海上人は、どう思われます。今回のラームチャンドラ・バクティ老師殺害事件の真相を?」

 メフィストが、頭を切り換えたらしく訊いた。

「ふむ、まさに、良きこと。重畳じゃな」

 顎髭をしごきながら、謎のようなことを言う。

「まあ、悟りを開いたものは、なんの教えに帰依するものであろうと、みな仏じゃ。生き死には関係ない」

 唐突に言う。

 どういうことだろう?

 死んでいても、修行は出来るということか?

 そう言えば、この聖者たちは、輪廻に輪廻を重ねて修行を積んでいるということだが。そうすると、ラームチャンドラ・バクティ老師は、また輪廻して別の姿で修行をしていると言うことだろうか?

「要諦は、スピノザの首じゃな」

「は?」

 思わず、声を出してしまった。

 しかし、龍門海上人は、目を瞑ってしまってもう我関せず、という顔をしている。

 何を言っても無駄なようだ。

 とうとう、メフィストが言った。

「龍門海上人様、申し訳ありませんが、私はともかく、お父さんが、また結界の外まで歩いて行くのは、困難だと思います。どうか、結界の外へ、私たちを飛ばしていただきたいのですが」

「おお、そうか。そうかも知れんのお」

 こう言って、歯の抜けた口を大きく開けて笑った。

 と。

 次の瞬間、僕たちは雪の中に軟着陸していた。

 いやはや、聖者という連中は、本当に付き合いにくい連中だ。


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