第二十八話
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「さて、お父さん、どうしましょう? アル・ビスターミー師のアリバイは、簡単に成立したみたいですし、一旦帰りますか?」
メフィストが、少し当惑気味に訊いていた。
まあ、当惑もするだろう。今まで、こんなに簡単に事情聴取が終わった例はないのだから。
でも、とにかく、ここにいても仕方がない。新宿紀伊國屋は、朱鷺子とよくきた本屋だったので、ちょっと覗いてみたい気もしたが、かえって辛くなりそうなので止めた。
「じゃあ、一度退散することにしようか」
僕がこう言うと、メフィストが、また指を鳴らした。僕たちは、初夏のアンデスにいた。
家に戻った。
「ただいまー」
僕が言うと、
「お帰りなしゃーい。お父しゃーん」
大きなスリッパを、パタパタいわせながら、摩耶が出迎えてくれた。猫のスピノザもやって来て、僕の足にまとわりついてくる。
「お帰りなさい。リョウ」
グレートヒェンが、にこやかな笑顔でやって来た。
良かった。今回は、「あなた」などと不穏なことは言わない。
ナーニ小母さんお得意のスープに、トーストにサラダ、そしてグレートヒェンの淹れた珈琲と、摩耶にはミルクで昼食が始まった。
「で、メフィスト、アル・ビスターミー師に対する、事情聴取はどうだったの?」
グレートヒェンが訊く。今は、朱鷺子を思わせる、二十六歳の顔はしていない。でも、摩耶は、相変わらずべったりと甘えている。
「もうね、あっさりとアリバイは成立さ。一緒に寝ていたっていう、ホームレスが証言してくれた」
「でも、そのホームレスなる人物は、どうしてそんな時間に起きていて、証言ができたの?」
あ!
それは、迂闊だった。
なんだか、聖者たちの証言は、奇妙奇天烈なことが多すぎて、取り敢えず人間の証言、というだけで信じてしまったのだ。
「ああ、それなら簡単だよ。グレートヒェン。私が、彼らの意識を読んだら、アル・ビスターミー師の差し入れたビールのせいで、夜中に頻繁にトイレに起きたらしい。だから、アル・ビスターミー師が、身代わりの呪具でもおいていない限り、あの証言は本物だよ。そして、ラームチャンドラ・バクティ老師の呪縛のため、そういう呪具は使えないからね。アル・ビスターミー師のアリバイは、簡単に成立だよ。間違いない」
「ただいまー」
こう言って、エミリーが入ってきた。
いきなり、居間にいるグレートヒェンを見て、あなた、まだいたの! という顔をしている。
ちょ、ちょっと困ったことになったなあ。と僕は焦る。
「エミリー。昨夜泊まってもらったから、もっとゆっくりでいいのに」
僕が言うと、
「充分昼寝をしたわ」
とエミリーが素っ気なく答える。
あちゃー、グレートヒェンの存在が、よほど気に入らないと見える。
「さ、摩耶、おいで。遊びましょう」
エミリーが、摩耶に呼びかける。
「だめでしゅ。今日は、摩耶はお母しゃんと遊びましゅ」
摩耶の答えに、エミリーの柳眉が逆立つのが見えた。
「摩耶、グレートヒェンお姉さんは、もう帰らなくっちゃいけないから。今日は、バイバイしなさい」
「いやでしゅ。摩耶は、お母しゃんと遊びましゅ。お母しゃんは、もうどこにも行きましぇん。ずっと摩耶とおねんねしましゅ」
こう言いながら、摩耶は、グレートヒェンの右手に、自分の両手を、がっしりと絡めている。
あちゃー。僕は、天を仰いで嘆息したくなる。
雰囲気を察したのだろう。グレートヒェンが、そっと摩耶の手を外して言った。
「摩耶ちゃん。今日は、あたし用事があるの。また明日来るわ。ね。今日はご免ね」
「駄目でしゅ。お母しゃん、どこにも行って駄目でしゅ」
摩耶は強情だ。
「こら、摩耶。我が儘を言ってはいけません。お姉さんは、今日は帰るの。お父さんの言うことを聞きなさい」
「嫌でしゅ! お母しゃんは、もうこれからずっと摩耶と一緒でしゅ」
こんなに、聞き分けのない子供に育てた覚えはないのだが。
「このお姉さんは、よそのお姉さんなんだから。摩耶のお母さんじゃありません」
ちょっと厳しい声を出したら、摩耶の大きな目から、大粒の涙が、ぼろぼろぼろぼろ零れだした。
ちょっと焦るが、この際しょうがない。実力行使をして、摩耶をグレートヒェンの膝の上から抱き上げた。そのまま、エミリーに渡す。
摩耶は、エミリーの両腕から身を乗り出すようにして、
「お母しゃーん、お母しゃーん!」
と身悶えしながら泣き叫ぶ。
僕は、心を鬼にして、グレートヒェンに言った。
「さあ、今日は、帰ってください。また明日にでも、遊びに来てください」
グレートヒェンも、頷いて立ち上がった。
「摩耶ちゃん、明日また来るからね。今日は、バイバイね」
「嫌でしゅ。お母しゃん、もうどこにも行って駄目でしゅ!」
エミリーも、ほとほと手を焼いているようだ。
僕は、玄関までグレートヒェンを見送った。ドアを開けて、グレートヒェンが出て行った。なんだか、少し心残りだった。
摩耶は、なかなか泣き止まない。
「一度、寝せましょうか?」
メフィストが、囁くような声で訊いてきた。
「でも、さっき昼寝をしたばかりだよ」
「一応、眠りの呪文ぐらいなら……」
なるほど。緊急手段だが、それに訴えよう。
僕が頷くと、メフィストが、口の中で、何かを唱えた。
泣きながら、摩耶は、すとん、と眠りに落ちた。
「エミリー、いつ起き出すか分からないから、ずっとついていてくれるかな」
僕が言うと、エミリーは頷いて、二階の寝室に向かった。
「さてと、グレートヒェンも、エミリーもいなくなったことだし、アル・ビスターミー師の証言について考えてみようか」
僕が言うと、メフィストも頷いた。
「アル・ビスターミー師のアリバイは、人間二人の証言がありますから、ほぼ確実ですね」
メフィストが言う。
「アル・ビスターミー師氏自身も、同じことを証言しているしね」
僕が、頷く。
なんだか、手詰まりになってきた感じだ。考えて見るも何もない。アル・ビスターミー師のアリバイを疑えるのなら、今までの聖者たち全員のアリバイが疑わしくなる。
困惑していると、ナーニ小母さんが、食後のお茶をどうするか、と聞いてきた。不毛な考え事に耽っていてても仕方がないので、お茶を飲むことにした。
「摩耶ちゃんは、どうしましょうか?」
メフィストが訊ねてきた。
「寝せておこう。お茶が終わったら、龍門海上人のところに行ってみたい」
僕が言うと、メフィストは肩を小さくすぼめた。




