第二十七話
2
メフィストの魔力で移動して驚いた。そこは、新宿紀伊國屋の前だったのだ。
夕暮れだった。昼食時だったはずなのだが、この程度の時間の齟齬は、当たり前なのだ。時差だのなんだの、考えるのも阿呆らしい。
「メフィスト、こんなところにアル・ビスターミー師がいるというのかい?」
「そうです。アル・ビスターミー師は、人のいない砂漠や、岩山での修行よりも、市井の、我欲にまみれた人間たちのど真ん中で修行することを敢えて選んでいるのです。そのために、わざわざここでホームレスになっているのです」
なるほど。そういう考え方もある。その方が、困難さは大きいかも知れない。
「ただ、聖者の例にならってアル・ビスターミー師も気紛れですからね。この辺り一帯のホームレスの中に混じっていることは分かっていますが、私ごときの魔力では、ピンポイントで、ここ、と聖者の居場所を突き止めることはできません」
なるほど、それも頷ける。
取り敢えず、僕たちは、足で歩き回ってアル・ビスターミー師を探すことにした。
いきなり、大きな怒鳴り声が聞こえ、叫び声も聞こえてきた。
見ると、駅の方で、いわゆるホームレス狩りが行われていた。
高校生前後とおぼしき、五、六人のヤンキーが、ホームレス二人を相手に暴力をふるっているのだった。
反射的に、僕は、その声がする方に駈けだしていた。
しかし、すぐにメフィストが僕を追い越した。悪魔は、どうやら肉体的にも、人間よりは頑健にできているらしい。
僕たちが、現場に到達するのとほぼ同時に、一人のホームレスが、そこにやってきた。薄汚れた、元は白かったと思われるスーフ(羊毛)のゆったりとした衣服。これも、元は白かったらしい、無造作に巻かれたターバン。顔は、明らかにイラン辺りにいそうな碧眼で、鼻が高い。
では、これがアル・ビスターミー師なのだろうか。
アル・ビスターミー師は、殴られ、足蹴にされていた二人のホームレスと、足蹴にしていた方の高校生と思われる連中の間に割って入った。
「なんだてめえ!」
「てめえも一緒に、袋にするぞ!」
野卑な怒号が、響き渡る。僕は、正直言って、こういう野卑さが大嫌いだ。こう見えても、僕も合気道三段だ、メフィストと協力すれば、こんな連中なら相手にできるだろう。
そう思ったときだ。
ヤンキーたちが、一斉にアル・ビスターミー師に殴りかかったのだ。
いくら、武道をやっていない、ただ粗暴なだけのヤンキーとは言え、六人に一斉に殴りかかられたのでは危ない。割って入ろうとした。
奇妙だった。
パンチが当たらないのだ。
高校生たちは、喧嘩慣れしているらしく、そこそこ腰の入ったパンチを繰り出す。しかし、そのパンチが、ことごとく空を切るのだ。
アル・ビスターミー師は、避けているとも見えないのに、巧みにパンチを逸らしている。
なんだか、不思議な光景だった。
パンチを繰り出すと、そのパンチの風圧で、アル・ビスターミー師の体が動いてしまう。そんな風に見えた。
体術とか、足捌きとか、そういう話ではなさそうだった。
「アル・ビスターミー師、お邪魔していいですか?」
メフィストが、いつの間にかそばに寄って、恭しい態度で訊ねた。
アル・ビスターミー師が、にっこりと笑った。邪気のない笑みだった。パンチェン・フトクト師の毒気に当てられた後では、何だか新鮮な気分だった。
メフィストが、六人の若者たちに向かった。
魔力の発動はなかった。
メフィストが、いきなり先頭の若者に対して右の回し蹴りを放った。
当たった。
その若者は、見事にすっ飛んだ。
おやおや、これは、もしかすると僕の出番はないかも知れない。
そう思った。
「この野郎!」
「ぶっ殺すぞ!」
野卑な怒号が飛び交う。しかし、その声が威勢のいい割には、メフィストに立ち向かってくる者はいない。
メフィストは皮肉そうに口を歪め、自分の方から仕掛けた。
手近の若者に、右の前蹴りを放ったのだ。
これも、綺麗に当たった。
「や、野郎!」
言っては見るものの、全員の腰が引けている。
メフィストが、踏み込んだ。
右の肘打ちが、手近の若者の顎にヒットした。グギッ、と嫌な音がしたので、もしかすると、顎の骨が折れたかも知れない。
残りの者は、完全に戦意を喪失し、逃げ出そうとした。
「おいおい、これ、連れてけよ。友達甲斐のない奴らだなあ」
メフィストが、穏やかな声で言った。
残っていた三人は、倒れている三人を助け起こして、呆気なく逃げていった。
とんでもない強さだ。魔力なしでも、多分北極熊でさえ、素手で倒してしまえるだろう。そのぐらいのレベルだった。
「はっは、坊や、さすがだなあ」
アル・ビスターミー師が、いかにも愉快そうに言った。本当に、好々爺然とした笑顔だ。
でも、僕は油断しない。この人も、一癖も二癖もある聖者の一人には、間違いないからだ。
「アル・ビスターミー師、この方が、今回の調査の協力をお願いしている徳大寺涼博士です」
メフィストが、きわめて尋常に僕を紹介する。僕がお辞儀をすると、アル・ビスターミー師も礼を返してくれた。少なくとも、バイラヴァ老師や、パンチェン・フトクト老師よりは、まっとうな人格をお持ちのようだ。
「それにしても、先ほどの体術はお見事でした。僕も、合気道をやっていますが、あんな不思議な技は初めて見ました。どういう足捌きだったのですか?」
僕が聞くと、アル・ビスターミー師は、ほっほっほ、と笑った。
「いや、失礼。なに、別に体術など使っておらんよ。ただ、私の体表面の摩擦を、一時的にゼロにしたに過ぎん」
「えっ!」
摩擦をゼロとは、驚いた。宇宙の根本的な法則に反している、という点では、オールトの雲までの瞬間移動や、白亜紀までのタイムスリップとどっこいだ。
「じゃから、パンチもキックも、私の体に当たった途端に滑ってしまって、なんのダメージも与えないと言うわけじゃよ」
平然とした顔をして、恐ろしいことを言う。
「こういう世俗の世界にいると、ああいったトラブルは避けられん。自然、どうやったら相手を傷つけずに、自分も傷つかずにすむかを体得することになる」
なるほど。どうも、先ほどのパンチェン・フトクト師と比べてしまうせいか、アル・ビスターミー師は大変まともな人に見えてくる。もっとも、ただの〈人〉ではなくて、聖者なのだが。
「失礼してよろしいですか、アル・ビスターミー師?」
メフィストが、やはり恭しい態度で訊いた。アル・ビスターミー師が、悠然とした態度で頷いた。
「老師も、ラームチャンドラ・バクティ老師殺害事件のことは、お聞き及びのことと思います」
「うむ。ラームチャンドラ・バクティ老師も、ついに大宇宙の摂理の中に呑み込まれたようだねえ。素晴らしいことだ」
どこまでもにこやかに笑っている。でも、やはり言うことはまともではない。
「ついては、お訊きしたいことがあります」
メフィストが、緊張した口調になった。
僕の方まで、緊張で口が渇くのを覚える。
「ラームチャンドラ・バクティ老師が殺害された時間、二日前の午前二時から午前四時の間ですが、老師はどこで、何をされておられましたか?」
「寝ておったよ。そこで」
アル・ビスターミー師は、平然とした態度で、さっき殴られていた二人のホームレスが座っているところを指差した。
「お兄さん、ビスさんの言うことは、本当だよ。二日前なら、ビスさんは、ずっと俺らと一緒に寝ていたよ」
ホームレスの一人が答えた。
アル・ビスターミー師の、穏やかな、碧い瞳を見ても、どこにも邪気がない。呆気ない取り調べと言うべきだろうか。
「そんなことよりも、愛の人よ」
アル・ビスターミー師が、僕に呼びかけた。
愛の人?
ああ、そう言えば、聖ジェズアルドも、僕のことをそんな風に呼んでいた。
「あなたには、我々ごときの法力では、到底思いもつかない奇跡が起ころうとしている、と噂されています。正直、ラームチャンドラ・バクティ老師や、パンチェン・フトクト老師と比べれば、取るに足らない法力しか持たない私には、その奇跡の行く末を見定めることが出来ない。あなたは、神が下した奇跡の愛と、〈人間〉の愛と、どちらを選ばれるおつもりかな? 私には、片々たる殺害事件より、そちらの方が、よほど興味があります」
僕は、混乱した。
「ラームチャンドラ・バクティ老師や、パンチェン・フトクト老師くらいに達すれば、あなたの愛の行方も見定められるのでしょうが、私ごときには無理な相談です」
アル・ビスターミー師は、にこにこしながら、しかし目にいかにも興味深い、という表情を浮かべて言った。
「あの」
僕は思いきって言ってみた。
「それは、グレートヒェンに関することですか?」
「おお、そうですよ。愛の人よ。グレートヒェンが生まれた奇跡。そして、グレートヒェンとあなたが巡り会った奇跡。私には、そのゆく方が知りたくてたまらないのです」
グレートヒェンに関することなら、こちらの方が知りたい。いったい、何がこんなにこんがらかっているのだろう?
「教えてください。朱鷺子と、グレートヒェンには、いったいどういう関係があるのですか?」
「おお、それは、私ごときには分かりません」
実に、簡潔な答えだった。
「ラームチャンドラ・バクティ老師亡き今、そのことについて見通しを持っているのは、パンチェン・フトクト老師と、龍門海上人だけでしょう」
龍門海上人? ああ、メフィストが言っていた。確か、即身仏を目指して湯殿山で修行しているとかいう聖者のことだろう。
それにしても、あの居丈高なパンチェン・フトクト老師が、目の前の穏健なアル・ビスターミー師よりも修行が進んでいるというのは、どういうことだろう?
修行の進捗と、人格は比例しないのだろうか?
ふと、そんなことを考えた。




