第二十六話
第六章 愛の奇跡
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「あら、あなたお帰りなさい」
びっくりした。そして、背中を冷たい汗が流れた。
朱鷺子の声だった。
目の前で、グレートヒェンは、十七、八歳の少女から、二十六歳で亡くなった朱鷺子の姿に変貌していた。そして、その深いアルトの声は、紛れもなく朱鷺子の声だった。
しかも、グレートヒェンは、その両耳に八分音符の形をした金色のイヤリングを付けていた。
僕が朱鷺子に買ってやった物と、同じイヤリングだった。
朱鷺子は、耳に穴を開けることを嫌って、ピアスではなく、イヤリングをしていた。グレートヒェンのそれも、どうもピアスには見えない。
「グレートヒェン、そのイヤリングは?」
「え、これは、私が好きで、昔からしているイヤリングよ」
「お父さん、それは確かですよ。私も、グレートヒェンがそのイヤリングをしているところは、何度も見ています」
メフィストが捕捉した。
「でも、どうして……。どうして君は、僕を、あなた、なんて呼んだんだい?」
万が一、今の発言をエミリーが聞いていたら、と思うと、僕の焦りは深くなる。
「え? あら、本当、なぜかしら? 私は、リョウお帰りなさい、と言ったつもりだったのに」
グレートヒェンは、真剣に悩んでいる。そのことは、ひしひしと伝わってくる。
「あれ? 第一、グレートヒェン、君は帰ったんじゃなかったのかい? どうして、まだここにいるの?」
「ええ、帰ろうとしたの。でも、ナーニ小母さんという人がやって来て、彼女も、あら朱鷺子! って言うのよ。一応誤解は解けたんだけれど、ナーニ小母さんが、是非自分の作ったハムとチーズを食べていけっておっしゃるから」
「エミリーは?」
「ええ、エミリーさんは、帰ったわ。でも、ちょっと怒ったような顔をしていた。あたし、何か悪いことをしたかしら?」
ちょっと小首を傾げて、考え込むような仕草をした。その仕草が、本当に朱鷺子そっくりだ。
なんだか、背中がざわざわしてくる。
まあ、なんにしろ、今のグレートヒェンの〝あなた〟発言を、エミリーが聞いていなくて良かった。あんなことを聞かれたら、また一悶着あるところだった。
「摩耶は?」
「まだ、お昼寝中よ。あなたたちが出かけてから、まだ三十分ぐらいしか経っていないじゃない」
「え!」
これには驚いた。僕の感覚では、もう既に出かけてから八時間以上は経過しているはずなのだから。メフィストも、同感らしい。訝しそうな表情をしている。しかし、よく辺りを見ると、確かに夕暮れなんて迫っていない。僕たちが出かけたときと、太陽の位置はそんなに変わっていない。
「じゃあ、フェルミ博士もまだ?」
「いえ、たった今、お帰りになったばかりよ」
「そうなのか」
言いながら、僕たちは家の中に入った。どれ、珈琲でも入れようと、キッチンに行った。ナーニ小母さんは、料理全般が得意だけれど、珈琲を淹れるのだけは、苦手なのだ。自分で淹れた方が、これだけは早い。
と。
グレートヒェンが、勝手知ったる他人の家、という感じでお湯を沸かし、珈琲の豆を流れるような手順で取り出し、珈琲ミルで碾き始めたのだ。
「グレートヒェン、君は、どうして珈琲豆のありかを知っているんだい?」
少し不気味に思いながら、僕は訊いた。すると、グレートヒェンは、
「あら、本当ね。あたし、この家のキッチンに来るのは初めてなのに」
そう小首を傾げながらも、鼻歌を歌いながら珈琲の豆を碾く。そうして、ポットや、ドリップ用の紙フィルターも探す風もなく取り出し、珈琲を淹れ始めた。
鼻歌は、シューベルトのアヴェマリアだった。これも、朱鷺子が好んで鼻歌で歌っていた曲だ。少し掠れた、アルトの深い声。その節回しさえもが、朱鷺子の癖そっくりだ。
本当に、懐かしい朱鷺子が、眼前にいるような錯覚に襲われる。
いかん、涼。迷うな。朱鷺子との思い出を汚すな。
僕は、わざわざそんなことを自分に言い聞かせる。そうでもしないと、本当に僕は、グレートヒェンが朱鷺子の生まれ変わりだと信じてしまいかねない。
僕は、珈琲を淹れているグレートヒェンの後ろ姿から目を引き剥がすようにして、居間に戻った。
しばらくして、珈琲ポットと珈琲カップをお盆に乗せてグレートヒェンが居間に入ってきた。どうやら、珈琲カップのありかさえ、迷うことなく分かったらしい。
そこへ、ナーニ小母さんに抱かれて、摩耶が入ってきた。昼寝から目覚めたらしい。
摩耶は、当然のようにグレートヒェンの膝の上に座り、甘え始めた。グレートヒェンも、当たり前のように摩耶の髪を撫でて、幸福そうに笑っている。
ああ、その笑顔が、本当に朱鷺子そっくりなのだ。
「それで、メフィスト、パンチェン・フトクト老師への、事情聴取は、無事すんだの?」
グレートヒェンが、無邪気な顔で問いかけた。十七歳の(本当かどうかは別にして)少女の顔に戻っている。これは、二十六の朱鷺子の顔ではない。
そうではないのだが……。
その無邪気な笑顔は、僕が初めて出会った頃の朱鷺子そっくりなのだ。
僕は、目眩がした。
「ああ、パンチェン・フトクト師というのも、食えない御仁でね、なんと、私たちは白亜紀まで飛ばされたんですよ」
メフィストが、自嘲気味に答えた。
「白亜紀って! 時間を遡ったって言うこと?」
「その通り。もう少しで恐竜に食われるところだった」
メフィストが、少し青い顔をして言った。
「もうね、事情聴取どころの話じゃない。そこに行ったら、魔力は使えなくなるしね。もう、千二百年生きてきた悪魔のプライドなんて、ズタズタだよ」
目の前に置かれた珈琲カップを手にしながら、メフィストはもう一度自嘲気味に言った。
「一応、アリバイは、パンチェン・フトクト師自身が証言したけどね。ラームチャンドラ・バクティ老師の呪縛で、誰も嘘はつけないはずだから、信じるしかないね」
「そうなの。ラームチャンドラ・バクティ老師と、パンチェン・フトクト老師は、どちらが先に解脱できるか、ぎりぎりの競争だって聞いていたから、結構怪しいと思っていたんだけれど」
グレートヒェンが、青い瞳を曇らせながら、考え込むような表情をする。
ナーニ小母さんが、キッチンで昼食の支度を始めたのが分かる。何か、軽いシチューを作るのだろう。タマネギを炒めるいい匂いが、ぷーんと漂ってくる。
「それにしても、不思議だわ」
グレートヒェンが、ふと顔を上げ、夢見るような瞳で言った。
「あたし、この家に来るのは初めてなのに、なんだか何年もこの家に住んでいたような気がしてくるの。懐かしい我が家に、やっと帰ってきた。なんだか、そんな気分に襲われるのよ。変よねえ、メフィスト」
「そう言えばメフィスト」
僕は、敢えてメフィストに訊いた。
「グレートヒェンって、どういう存在なの。天上の喫茶店にいたから、天使なの? それとも、聖ジェズアルドの花園で、蜜を集めていたと言うから、妖精の類? まさか、悪魔ということはないよね?」
「え」
メフィストが驚いた、という顔をした。
「グレートヒェンの正体ですか。そんなこと、考えたこともありませんでした」
「え」
今度は、グレートヒェンが、訝しそうに声を出した。
「そう言えば、あたしって、なんなんでしょう? ずっと人間だと思ってきましたけど、人間なら、妖精のように小さくなって花の蜜を集めたりできませんものね。確かに、あたしって存在は、いったいどういう存在なんでしょう?」
これは驚いた。
メフィストもグレートヒェンも、グレートヒェンの正体について、これまで考えたことがなかったのだ。あくまでも、自然に天上界や、聖者のテリトリーに住んできたというわけだ。なんとも、不思議な存在だ。
摩耶は、グレートヒェンの膝の上で、小さな手で簡単な綾取りをしている。エミリーに教えてもらったものだ。最初は、エミリーが、小さい頃そうやって遊んていたのだろうと思っていたが、どうやら、朱鷺子がやっていた日本語教室で教えてもらったものらしい。
そんな摩耶を見詰めるグレートヒェンの目が、限りなく優しい。
摩耶は、グレートヒェンが自分の母親だと、勘違いしたままらしい。また、グレートヒェンもその勘違いをただそうとはしない。
僕は、焦りに似た感情を覚える。
しかし、こんなに幸福そうな摩耶を見て、その夢を敢えてぶっ壊すほどの勇気も出てこない。
「ナーニ小母さん、昼食が出来上がるまで、後どれくらいですか?」
珈琲を飲み干したメフィストが訊いた。
「そうね、今料理を始めたばかりだから、後小一時間というところかしら」
ナーニ小母さんは、手を休めずに答える。
「お父さん、珈琲を飲んで、一息つきましたから、今度は、スーフィー聖者のアル・ビスターミー師のところに行きましょう」
そうだ。いつまでも、パンチェン・フトクト師から受けた精神的ダメージでくよくよしているわけにはいかないし、グレートヒェンの正体のことで思い悩んでいる暇もない。
「よし、メフィスト、行こう」
僕らは、立ち上がった。




