第二十五話
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明るい点が、ぐんぐん近づいてきた。それはいつしか面になり、明らかな洞窟の出口となった。
ぬるり。
滑り出た。
息を呑んだ。
洞窟の出口の外は、テラスのようになっていた。
その下は、海だった。
そうして、その海には、異様に巨大なものが泳いでいた。
首長竜が、何頭も何頭も泳いでいる。
空には、翼手竜、プテラノドンが、何匹も飛んでいた。
「お、お父さん。ここは、白亜紀ですよ。あの首長竜は、多分エラスモサウルスです。全長十三メートルはあるという、巨大生物です」
「ああ、そうみたいだね。メフィスト」
震えながら、僕は訊いた。
「悪魔にも、こんなタイムスリップはできるのかい?」
「無理です」
言下に否定された。
「悪魔は、過去を見ることはできます。しかし、過去に戻ることはできません」
メフィストの声も、震えている。
「第一、過去を見ることが出来るといっても、私たちのそれは、壁の節穴から女の行水を覗き見している出歯亀みたいなものです。聖者たちのように、本当にまざまざと過去の出来事を見ることなど、できはしないのです」
僕は、頷いた。悪魔が、過去を改変できるのなら、メフィストだって、むざむざとファウストの魂を取り逃がしたりはしなかっただろう。
いきなり、海水が跳ね、僕の顔にかかった。冷たかった。舐めてみた。塩辛かった。
これは、疑いようもなく、現実なのだ。
そう思うと、足が、がくがくと震えてきた。
怖かった。
バイラヴァ老師の超絶的な法力と、充分互角の法力を眼前に見せつけられて、僕は本当に幼い子供のように怖かった。
「飛べるかな?」
ふとメフィストが呟いた。そして、軽くジャンプした。
「駄目だ。駄目ですよ、お父さん。飛ぶことさえできない。私の魔力は、全て封じられています」
メフィストの顔が青い。
それはそうかも知れない。魔力を封じられた悪魔は、ちょっと喧嘩の強い人間よりも、か弱い存在だろうから。
「うわ!」
メフィストが叫ぶ。
僕がびっくりして振り返ると、少し沖を悠々と泳いでいたはずのエラスモサウルスが、その巨大な頭部をこちらに差し伸べていたのだ。その口は、小さな家ぐらいあった。
僕は、声にならない叫びを、呑み込んだ。
「い、いけません。うっかりすると、食べられてしまいます。エラスモサウルスは、一応肉食獣なのです」
メフィストの声が、震えている。
こんな過去に飛ばされて、そこで恐竜の腹に収まるとは、なんという情けない運命だろう。
摩耶は、家に残された摩耶はどうなるのだろう?
駄目だ。どんなに我慢しても、膝ががくがくと笑ってくる。
エラスモサウルスの口から、生臭い息が吐かれ、こちらに漂ってくる。
後ろを振り返る。
どうしたことだろう。僕たちが出てきたはずの洞窟が見えないのだ。
僕たちは、このまま白亜紀に置き去りにされるのだろうか?
いや、第一目の前に迫っているエラスモサウルスは、肉食だと言うではないか。パンチェン・フトクト師は、こんなところに僕たちを送り込んで、何をしようというだろう?
ふっ、
と、パンチェン・フトクト師が、姿を現した。
空中に、結跏趺坐して浮いている。
「パンチェン・フトクト師、危ない! エラスモサウルスに食われてしまうよ!」
僕は、叫んだ。
実際、エラスモサウルスが、その大きな口をパンチェン・フトクト師の方に向けたのだ。なのに、パンチェン・フトクト師は、何事もないかのように、平然としている。それどころか、その顔には、笑みさえ浮かんでいるのだ。
「恐れるでない。この愚か者どもよ。このエラスモサウルスこそ、前世の儂じゃ。お前たちごときに、害など加えんわ」
パンチェン・フトクト師は、恐ろしいことを、平然と言ってのけた。その様子があまりにも飄々としている。
僕は、また息を呑んだ。
メフィストも、驚きのあまり声も出ないようだ。
「そしてな、あそこにひときわ大きいプテラノドンが飛んでおるじゃろう」
そう言って、一頭のプテラノドンをパンチェン・フトクト師が指差すと、そのプテラノドンは優雅に旋回して、こちらの方に向かってきた。
「あれが、前世のラームチャンドラ・バクティじゃ」
「す、すると、聖者たちは、輪廻を繰り返して修行を重ねてきた、というのは本当のことなのですか?」
メフィストが、震える声で尋ねた。見ると、顔は真っ青になっている。多分、僕も同じような顔色をしているだろう。
「ふむ、儂らは、地球上に嫌気性細菌が生まれたときから、輪廻を繰り返しておるぞ」
「え? し、しかし、嫌気性細菌に、修行を積めるような意識など、あるのですか?」
僕は、訝しく思いながら訊いた。恐竜程度からなら、修行を積む、ということ分かるが、(分かりたくはないが)、バクテリアに修行などできるものなのだろうか?
「お前も、よくよく飲み込みの悪い小僧じゃのう。胎内くぐりをして、まだ分からんか。山川草木悉有仏性。バクテリアどころか、その辺に転がっておる{ルビ がりゃく}瓦礫{/ルビ}の果てまで、仏性を持っておるのが当たり前じゃ。宇宙には、あまねく〈世界意識〉が遍在しておる」
「し、しかし、ちょ、ちょっと待ってください。どうして、あなたはこの時空間に存在していられるのですか。そのエラスモサウルスが、あなたの前世の姿なのなら、今、あなたは同じ時空間に、二人存在していることになります。それでは、タイムパラドックスが……」
「ふん」
いかにも可笑しそうに、鼻の先でせせら笑った。
「お前たち、片々たる人間や悪魔ごときの論理など、儂らには通じんのじゃ。論理の常識を打ち破れ! それこそが、真理への道じゃ。どれ、帰るぞ」
パンチェン・フトクト師が、ふっ、と消えた。
「お父さん、さっきは開いていなかった洞窟の入り口が、開いています」
メフィストが、震える声で言った。
振り返ると、確かに洞窟の入り口が開いていた。
その洞窟に入るのは、厭だった。
しかし、厭でも、そこからしか僕たちがいた時空間に帰ることはできないのだろう。
「行こう、メフィスト」
こう言って、僕は洞窟の中に入っていった。
洞窟は蠕動する。多分、さっきとは逆の方向に。締め付けられて苦しいが、とにかく我慢した。
三時間あまりそうしていただろうか。ようやくのことで、広い空間に出た。パンチェン・フトクト師が居住し、修行をしている洞窟のようだった。
「ふむ、どうだ? スピノザの首は、持って来られたか」
どうせできなかっただろう。という嘲笑の表情をありありと浮かべて、パンチェン・フトクト師が訊いた。
僕にも、メフィストにも、答えはなかった。とにかく、白亜紀から帰ることができて、安堵のあまり失神しそうだったのだ。
それでも、メフィストは、何とか気を取り直したようだ。その健気さに、僕は少し感動した。
「パンチェン・フトクト老師、私たちは、そろそろ帰らなければなりせん。最後に一つだけ、教えていただけませんか」
メフィストは、あくまでもうやうやしい態度で言った。むしろ、卑屈と言いたいくらいだ。
「ラームチャンドラ・バクティ老師が殺された時間、あなたはどこで、何をしていらっしゃいましたか?」
パンチェン・フトクト師は、バイラヴァ老師のように、はぐらかすのだろうか?
「ふむ、あの糞転がしが死んだときなら、儂はここで天井にへばりついておったよ。そのままで、瞑想をしておった。その証人はおらんがな」
どこまでも、人を馬鹿にしたような態度で、パンチェン・フトクト師は答えた。
しかし、メフィストの言によれば、証人の有無はこの際問題ではない。ラームチャンドラ・バクティ老師の呪縛によって、この点に関しては誰も嘘はつけないのだから。
「ラームチャンドラなら、わしが殺したかったものよ。修行の完成に一歩近づくでな」
パンチェン・フトクト師は、謎のようなことを言った。なんだか、その表情がしみじみしているのが、印象に残った。
こんなところに長居して、地球誕生の時点まで飛ばされたりしたらかなわない。メフィストもそう思ったのだろう。僕たちは、早々にこの洞窟を立ち去ることにした。




