第二十四話
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ふと気が付くと、僕たちはまだ黒暗の闇の中にいた。体を締め付ける圧迫感も、まだある。
さっきの感覚と違うのは、どうやらこの石窟は、蠕動しているようだ、ということだった。
メフィストの右手が、僕の左手を握っていた。掌が、冷や汗でじんわりと濡れている。
「お父さん、気が付きましたか」
囁くような声で、訊いてきた。
「うん、面目ない。気を失ったのなんて、物心ついてから初めてだよ」
「そうですよね。お父さん、意外と剛胆だから」
茶化してから、メフィストが、真顔になったのが気配で分かった。
「お父さんが、気を失ってから、多分、もう二時間以上経過しています。どこへ連れて行かれるのかも、分かりません。それから、この物質並みの濃密さを持つ闇が異様です。悪魔と、親和性のない闇なんて、やっぱり変ですよ」
メフィストは、緊張しているのだろう。変に饒舌だ。
「母親の胎内をくぐって、僕らは、何か新しい生を受ける、と言うわけだろうか」
僕の問いに、メフィストは、
「分かりません」
と答えるのみだった。
濃密な、闇の匂い。僕はそれを感じた。しかし、闇の匂いって、なんだろう? それをはっきり言うことはできない。でも、確かに感じるのだ。
視覚は封じられている。だから、変に嗅覚が鋭敏になっているのかも知れない。
ふと、そんなことをメフィストに言ってみると、
「闇の匂いですか。お父さん、穿ったことを言いますね。でも、残念ながら、私の鼻では、嗅ぎ分けられない匂いのようです」
と言う。
悪魔に嗅ぎ分けられなくて、人間である僕にだけ分かる匂いというのも、変な話だ。
その匂いは、何だか枯れ葉の匂いを連想させた。
枯れ葉の匂いなど、嗅いだことはないのに。
どういう錯覚なのだろう。不思議なことだ。
何も見えないので、頭の中を懐かしかったり、懐かしくなかったりする、様々な情景が走馬燈のように流れていく。
このまま死ぬのかな。
そんなことも思う。
不思議と怖くはない。
息苦しくなるほどに濃密な闇の中で、なんだかひそひそと宇宙が内緒話をしている。
何を話しているのだろう。耳を澄ましてみるが、聞き取れない。
「お父さん、気をつけてください。何か、物の怪のようなものがやってきます。それは、私たちの眷属ではありません」
メフィストが、切羽詰まった声で囁く。
不意に、頬が何ものかによって切られた。
自由になる右手で触ってみると、少しだが血が出ているようだった。
「お父さん、血を出しましたか?」
血の匂いには、敏感なのだろう。メフィストが、訊いてきた。
どうやら、その〈もの〉は、メフィストを攻撃はしないらしい。
「少しね。なにか、蝙蝠みたいなものが飛んでいるらしい」
「普通なら、私の近くには、そんなもの寄せ付けないんですが。魔力が、効かないようです。すみません」
まあ、なにもメフィストが謝る必要はないのだが。
不意に、甘い芳香が、鼻をくすぐった。
上品で、紫木蓮の香りを、もっと濃密にしたような香りだった。
ただ、その香りの底には、何だか不気味な闇が蟠っているようだった。
その闇は、今僕たちを押し包んでいる、悪魔でさえも恐れさせるような闇に比べてすら、もっと〝怖い〟闇だった。
枯れ葉のような闇の匂いと、暗紫色の紫木蓮の匂いが混ざり、不思議な香りになった。
不意に、また頬を切り裂かれた。
メフィストが、その二ヶ所の傷を、左手で撫でた。
すー、っと傷が消え、血も止まった。
「この程度の魔力なら、まだ使えるようです」
少々自虐的になっているらしい。メフィストが、ぼそっと言った。その声には、パンチェン・フトクト師に対する畏れ、の感情がありありとこもっている。
僕たちは、そんなことを言いながらも、腸の蠕動のような動きで、〈どこか〉に向かって運ばれている。
闇は、あくまでも深い。
僕とメフィストの囁く声以外には、なんの物音もしない。
香りだけは、濃密に、濃密すぎるほどにある。
汗が、じわりと肌に浮き出す。
汗の匂いが、その不思議な香りと混じって、いいのか悪いのか分からない、混沌のような香りになる。
「メフィスト、どのぐらいの時間が経ったんだい?」
「分かりません。いつの間にか、私の体内時計も狂ってしまったようです。この洞窟は、変です。どこの時空に属しているのか、まったく見当も付かないんです」
どこの時空に属しているか?
いくらなんでも、今は二十一世紀だろう。
パンチェン・フトクト師の結界内とはいえ、ここがチベットの山奥であることは、変わりがないだろう。
そんなことを思ったとき、出口らしい小さな明かりが見えてきた。
「お父さん」
メフィストが、緊張したような声を出す。
「どうやら、終点が見えてきたようです」
僕も頷く。
そして思う。
頷いても、メフィストには見えないだろう。と。




