表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
メフィスト・フェレスの狼狽  作者: ヒデヨシ
23/34

第二十三話


 いきなり、辺り一面が明るくなった。メフィストの鬼火でさえ灯らなかったのに、なんの明かりだろう。

 目の前には、髪も髭も、ぼうぼうと伸び放題に伸ばした一人の行者がいた。獣の皮らしいものを、縄文人のように身に纏っている。

 メフィストが、どこに持っていたのだろう、蜜の壺を差し出した。パンチェン・フトクト師は、それを鷲掴みにし、舌を伸ばして中身をぺろぺろと舐め始めた。聖者の尊厳もへったくれもない。

 あの、バイラヴァ老師でさえ、粗野な中にも品格があった。素っ裸でいてさえ、威厳があったのだ。なのに、このパンチェン・フトクト師という聖者は、ただの野蛮人のようにしか見えない。

 それでも、メフィストは、畏まった風で、パンチェン・フトクト師が、蜜を舐めるのをじっと待っている。

 ようやくのことで、蜜を舐め終わった。しかし、とんでもない甘党である。メフィストが取り出した蜜壺は、容量が一リットルはあろうかという代物だったのだ。それを、一、二分で舐め尽くしてしまうとは。僕は呆れてしまった。

「老師。今日は、ラームチャンドラ・バクティ老師のことでお伺いしたのですが」

「おお、あの糞転がし小僧か。死にくさったそうじゃのう」

 ふ、糞転がしとは! 仮にも、一方の聖者を掴まえて、その言いぐさはないだろう。おまけに、死にくさったとは。……呆れてものが言えない。

 と、いきなりパンチェン・フトクト師は、跳び上がった。膝を曲げるわけでもない。立った姿勢のまま、跳ねたのだ。そして、天井にへばりついた。

 天井と言っても、一メートルや二メートルの高さではない。目算だが、高さ二~三十メートルはあるだろうか。それを、なんの苦もなく跳ね飛んで見せたのだ。

 ある意味では、土星まで飛ぶ超能力よりも、こうした、単に肉体的な力のほうが、僕らの感性に訴えるのかも知れない。少なくとも、僕はメフィストに土星に連れて行かれたときよりも驚いた。それにしても、どうやって岩の天井にへばり付いているのだろう。

 なんだか頭がくらくらしてきた。

「で、お前たちは、死にくさった糞転がしを殺したのが誰か、一生懸命探しておる訳か。ご苦労なことじゃのう。ケーケッケッケ!」

 こ、この人は、本当に聖者なのだろうか? 怒る前に、呆れてしまう。

「スピノザを殺せ! その首を持ってこい」

 え? な、なんて言った? スピノザを殺せ? うちの猫のスピノザか? スピノザが、今度の事件になんの関係があるというのだろう。

「スピノザを殺せ。それがいやなら、ラームチャンドラを殺した猫のことについて、ああだこうだと騒ぐでない」

 今度は、いやに落ち着いた声で、パンチェン・フトクト師が言った。

 ラームチャンドラ老師を、猫が殺した? この発言も意味不明だ。

「お前たちは、精神修養が足りぬようじゃのう」

 どっかの禅寺の生臭坊主か、会社の新人研修の講師が言いそうなことを言いだした。

「少し、修養せい」

 と、辺りが、また真っ暗になった。なんだか、さっきよりも、より濃い闇だ。ひそひそと、不吉な気分が忍び寄る。

「無明だ」

 パンチェン・フトクト師がこう叫んだ。

 不意に、メフィストが、僕の手を握ってきた。その手ががくがく震えている。

「お父さん。真っ暗です。私たち悪魔は、本来夜目が利きます。なのに、何も見えない。この空間は、多分、全ての帯域の電磁波に対して閉ざされているようです」

 メフィストの声が、恐怖に震えている。しかし、悪魔が闇を恐れるなんてことがあっていいのだろうか。

「この無明の中にこそ、真の光がある。その光を見るために、お前たちの両親を殺してこい」

 パンチェン・フトクト師の声が、いやに厳かに響き渡る。

「お父さん、この闇はおかしい。ただの闇ではありません。闇は、私たち悪魔にとって最も近しいものです。なのに、怖い。この闇の中で、私は、夜お使いに出された五歳の子供のように怖いんです」

 確かに、メフィストの手が、細かく震えている。心なしか、汗ばんでもいるようだ。

 でもおかしい。僕は、そんなに恐怖は覚えていないのだ。メフィストのほうが、僕よりも臆病だというのだろうか。そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。なんと言っても、メフィストは一方の大魔王なのだから。多分、ただ僕が鈍感なだけだろう。

 ふと、なんだか窮屈な気分がした。体が、何か柔らかいもので締め付けられるような。しかも、その締め付けているものが、ぬるぬるとした粘液を分泌しているような。

 やっぱりおかしい。ここは、充分な広さのある岩窟のはずだ。それとも、何かの生物が出現して、僕たちを締め付けているのだろうか。

 なんだか、それはとっても厭な気分だった。

「ほっほっほ。ターラー菩薩の胎内くぐり、じっくりと味わうが良いぞ」

 パンチェン・フトクト師の声が聞こえてきた。

 そうか。これは胎内くぐりなのか。ターラー菩薩というのは、確かチベット仏教で尊崇される、観音の涙から生まれたという少女の姿をした菩薩だったはずだ。

 そんなことを考えながら、僕は、あまりの圧迫感に、いつの間にやら気を失っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ