第二十三話
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いきなり、辺り一面が明るくなった。メフィストの鬼火でさえ灯らなかったのに、なんの明かりだろう。
目の前には、髪も髭も、ぼうぼうと伸び放題に伸ばした一人の行者がいた。獣の皮らしいものを、縄文人のように身に纏っている。
メフィストが、どこに持っていたのだろう、蜜の壺を差し出した。パンチェン・フトクト師は、それを鷲掴みにし、舌を伸ばして中身をぺろぺろと舐め始めた。聖者の尊厳もへったくれもない。
あの、バイラヴァ老師でさえ、粗野な中にも品格があった。素っ裸でいてさえ、威厳があったのだ。なのに、このパンチェン・フトクト師という聖者は、ただの野蛮人のようにしか見えない。
それでも、メフィストは、畏まった風で、パンチェン・フトクト師が、蜜を舐めるのをじっと待っている。
ようやくのことで、蜜を舐め終わった。しかし、とんでもない甘党である。メフィストが取り出した蜜壺は、容量が一リットルはあろうかという代物だったのだ。それを、一、二分で舐め尽くしてしまうとは。僕は呆れてしまった。
「老師。今日は、ラームチャンドラ・バクティ老師のことでお伺いしたのですが」
「おお、あの糞転がし小僧か。死にくさったそうじゃのう」
ふ、糞転がしとは! 仮にも、一方の聖者を掴まえて、その言いぐさはないだろう。おまけに、死にくさったとは。……呆れてものが言えない。
と、いきなりパンチェン・フトクト師は、跳び上がった。膝を曲げるわけでもない。立った姿勢のまま、跳ねたのだ。そして、天井にへばりついた。
天井と言っても、一メートルや二メートルの高さではない。目算だが、高さ二~三十メートルはあるだろうか。それを、なんの苦もなく跳ね飛んで見せたのだ。
ある意味では、土星まで飛ぶ超能力よりも、こうした、単に肉体的な力のほうが、僕らの感性に訴えるのかも知れない。少なくとも、僕はメフィストに土星に連れて行かれたときよりも驚いた。それにしても、どうやって岩の天井にへばり付いているのだろう。
なんだか頭がくらくらしてきた。
「で、お前たちは、死にくさった糞転がしを殺したのが誰か、一生懸命探しておる訳か。ご苦労なことじゃのう。ケーケッケッケ!」
こ、この人は、本当に聖者なのだろうか? 怒る前に、呆れてしまう。
「スピノザを殺せ! その首を持ってこい」
え? な、なんて言った? スピノザを殺せ? うちの猫のスピノザか? スピノザが、今度の事件になんの関係があるというのだろう。
「スピノザを殺せ。それがいやなら、ラームチャンドラを殺した猫のことについて、ああだこうだと騒ぐでない」
今度は、いやに落ち着いた声で、パンチェン・フトクト師が言った。
ラームチャンドラ老師を、猫が殺した? この発言も意味不明だ。
「お前たちは、精神修養が足りぬようじゃのう」
どっかの禅寺の生臭坊主か、会社の新人研修の講師が言いそうなことを言いだした。
「少し、修養せい」
と、辺りが、また真っ暗になった。なんだか、さっきよりも、より濃い闇だ。ひそひそと、不吉な気分が忍び寄る。
「無明だ」
パンチェン・フトクト師がこう叫んだ。
不意に、メフィストが、僕の手を握ってきた。その手ががくがく震えている。
「お父さん。真っ暗です。私たち悪魔は、本来夜目が利きます。なのに、何も見えない。この空間は、多分、全ての帯域の電磁波に対して閉ざされているようです」
メフィストの声が、恐怖に震えている。しかし、悪魔が闇を恐れるなんてことがあっていいのだろうか。
「この無明の中にこそ、真の光がある。その光を見るために、お前たちの両親を殺してこい」
パンチェン・フトクト師の声が、いやに厳かに響き渡る。
「お父さん、この闇はおかしい。ただの闇ではありません。闇は、私たち悪魔にとって最も近しいものです。なのに、怖い。この闇の中で、私は、夜お使いに出された五歳の子供のように怖いんです」
確かに、メフィストの手が、細かく震えている。心なしか、汗ばんでもいるようだ。
でもおかしい。僕は、そんなに恐怖は覚えていないのだ。メフィストのほうが、僕よりも臆病だというのだろうか。そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。なんと言っても、メフィストは一方の大魔王なのだから。多分、ただ僕が鈍感なだけだろう。
ふと、なんだか窮屈な気分がした。体が、何か柔らかいもので締め付けられるような。しかも、その締め付けているものが、ぬるぬるとした粘液を分泌しているような。
やっぱりおかしい。ここは、充分な広さのある岩窟のはずだ。それとも、何かの生物が出現して、僕たちを締め付けているのだろうか。
なんだか、それはとっても厭な気分だった。
「ほっほっほ。ターラー菩薩の胎内くぐり、じっくりと味わうが良いぞ」
パンチェン・フトクト師の声が聞こえてきた。
そうか。これは胎内くぐりなのか。ターラー菩薩というのは、確かチベット仏教で尊崇される、観音の涙から生まれたという少女の姿をした菩薩だったはずだ。
そんなことを考えながら、僕は、あまりの圧迫感に、いつの間にやら気を失っていた。




