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メフィスト・フェレスの狼狽  作者: ヒデヨシ
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第二十二話

第五章 第三のアリバイ検証、奇矯な聖者



「次は大物ですよ」

 メフィストが、いささか青い顔をして言った。緊張感が伝わってくる。

「チベット仏教の狂仏ニョンパ、パンチェン・フトクト師です。私は、お会いしたことはないのですが、解脱も間近で、相当な変わり者らしいです。覚悟を決めていかないと、どんな目に会わせられるか分かったものじゃありません」

 僕は頷いた。狂仏なんてものが、小説の中だけではなく、現実に、この現代に存在するのが興味深かった。

「じゃあ、グレートヒェン、今日はこれで」

 メフィストが言うのに、グレートヒェンは頷いた。

 これで、って、ここで別れるつもりだろうか。ここはアンデスの高原だ。バスの便も悪い。車も無しで取り残されたら、困るだろうに。

 そんなことを思ったが、メフィストはお構いなしに、指を鳴らした。

 荒れ果てた岩山だった。足下に、人の頭ほどありそうな石ころがごろごろしている。ごつごつとした岩肌が見える。荒涼とした景色に、心も凍るようだ。

 抜けるような青空だった。

 チベットの青。

 チベット仏教では、青は神界や霊界をさす色となる。転じて、解脱の色にもなるそうだ。また、人間が亡くなって四十九日の間は、中有の青い空間にいて、次の転生先が決まるまで待つのだとも言う。そんな神聖な色を背景に、僕たちはその岩山を登っていった。

「メフィスト、パンチェン・フトクト師の住んでいるところは、まだ遠いのかい」

 少し息の上がってきた僕は、メフィストに尋ねた。

「すみません。パンチェン・フトクト師の修行している洞窟は、まだ少し上にあります。パンチェン・フトクト師の結界は、強力で広範囲に及んでいるので、テレポーテーションできないんですよ」

 なるほど。狂仏というだけあって、人を寄せ付けないのだろうか。仕方がないので、喘ぎ喘ぎ歩いた。ジーンズにトレッキングシューズで良かった。メフィストなんぞ、スーツに革靴だ。

 ごつごつとした剥き出しの岩山は、無機質で殺風景だった。草も生えていず、苔さえ生えていない。荒れ果てた無音の世界だ。月の世界を思わせる。そこに、僕とメフィストの足音だけが谺している。

 歩くたびに、足下の小石が崩れて歩きにくいことおびただしい。だけど、ここまで潔く無機質だと、いっそある種の清潔感があるようで好ましくもあった。

「ああ、見えてきました。あの洞窟が、パンチェン・フトクト師の修行場です」

 見ると、頭上の岩山に、鬼の口のような穴が開いていた。まだ、相当歩かなければならないようだ。僕は、辟易した。

 汗を拭きながら、しかし、なんだか背筋がゾクゾクするのを感じる。なんだろう。バイラヴァ老師の、あの荒れ寺に入るときも感じたことのない悪寒だ。辺りの荒廃した風景が醸し出す気分だろうか。

 もう、息が上がってどうしようもなくなる頃に、その鬼の口のような洞窟に着いた。メフィストのテレポーテーションで移動することに、早くも慣れ切ってしまっているのだ。我ながら情けない。

 洞窟を覗き込むと、中は真っ暗だった。

 奇妙だ。

 辺りは、真昼の陽光に包まれている。入り口から、相当奥までは光が入り込んでいても良さそうなものだ。

 なのに、洞窟に入った途端、光が鉈で切られたように遮断されているのだ。

 メフィストも、一瞬中に入ることを躊躇したらしい。唇を嘗めながら、しばし立ち尽くしていたが、ようやく決心を決めて中に踏み込んだ。僕も後に続いた。

「お前の両親の首を切って、ここに持ってこい!」

 びっくりした。

 その声が、どこから聞こえてくるのか分からなかった。

「ケケケケ、キーッ!」

 奇怪な叫び声が聞こえる。

「真っ赤な血の滴る、フェルミ博士の首を、銀の盆に載せてわしの目の前に持って来るのじゃ。さすれば、わしもラームチャンドラの首を切って進ぜよう」

 なぜ異様に感じたか分かった。声は、頭上から聞こえてくるのだ。それも、相当な高さだ。

 メフィストが鬼火を灯そうとした。メフィストの指が、青白い炎で、一瞬見えたのだ。しかし、それは本当に一瞬のことだった。すぐに鬼火は消えてしまった。

「怖いですね」

 メフィストが囁いた。

「悪魔は、本来闇とは親和性を持っています。でも、この闇はそういう闇ではない。奇妙に神聖で、奇妙に邪悪です。悪魔の持っている邪悪さとは、根本的に異質な邪悪さを持っている。この闇は、怖いです」

「どうした小僧ども。両親の首は持って来んのか」

「パンチェン・フトクト老師。私たち悪魔は、闇の混沌から生まれました。そしてヤハウェの被造物です。混沌も、ヤハウェも、首を切れるような代物ではありません」

「ほう、出来んか。そっちの小僧はどうじゃ」

「私の両親は健在ですが、遠い日本にいます。とても首を切りに行くわけにはいきません」

 応えながら、やばいな、向こうのペースに巻き込まれている、と感じた。

 闇は、しんしんとして、僕の中に浸透してきそうだった。ゾクリとした。寒さが、それに伴っていたのだ。

「ふむ。日本ごとき、小悪魔坊主の力でいくらでも行けるじゃろうに。そんな心がけでは、真理への道を歩むことは出来んな」

 ちょっと驚いた。有無を言わさずに、日本まで跳ばされるのかと思って、身構えていたのだ。それにしても、メフィストを小悪魔呼ばわりとは。さすがに、五大聖者の一人だ。

「ならば、フェルミ博士の首を持って来るのだな。あれは、丸々と太って、食い甲斐がありそうだ」

「じょ、冗談じゃありません。フェルミ博士は恩人です。その首などとそんな……」

「は、とことん、真理への道から遠い奴らじゃ。では、わしへの土産はなんなのだ。まさか、土産も無しにここまで来たのではなかろうな」

「はい、グレートヒェンが集めた、蜜をここに」

「ほ、グレートヒェンの蜜か。あれは美味い。どれ、一つもらうとしようか」

 と言うと、

「ケーッ!」

 と叫んで、パンチェン・フトクト師が飛び降りてきた。


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