第二十一話
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「涼、摩耶、エミリー、入るよ」
大きな声が聞こえた。フェルミ博士だ。僕は慌てて玄関に降りていった。
「おお、涼、なんだ。元気そうじゃないか。急に休暇を取るから、風邪でもひいたのかと思って、見舞いに来たんだが」
僕の顔を見るなり、フェルミ博士がこう言った。忘れていた。今日は、メフィストとのアリバイ調べのために、休暇を取っていたのだ。エミリーが、博士がコートを脱ぐのを手伝っている。初夏のアンデス高原は、冷えるときは結構冷えるのだ。
前にも言ったが、フェルミ博士は丸い人だ。ころころと丸い体。まん丸のお月様のような顔。でっぷりと突き出た腹に巻けるベルトがないので、ズボンはサスペンダーで吊っている。禿げ上がった頭を除けば、ちょっと小松左京に似ている。陽気な声。額から噴き出る汗を、ハンカチで拭っている。
「大丈夫です。風邪はひいていません。ちょっと野暮用がありまして」
こう言いながら、僕はフェルミ博士を応接室に通した。応接室に入るなり、博士は素っ頓狂な声を上げた。
「おお、神よ! 朱鷺子、君は、朱鷺子じゃないか!」
しかし、すぐに間違いに気付いた。
「し、失礼。あまりにも、お嬢さんが、涼の亡くなった奥さん、朱鷺子に似ていたもので。目の色も、髪の色も全然違うのに」
博士は、しばし呆然として突っ立っていた。
「そんなに、私は朱鷺子さんに似ていますか?」
グレートヒェンが当惑気味に訊いた。
「いや、失礼」
フェルミ博士が、椅子に座りながら言った。
「しかし、もう、瓜二つだね。双子だと言われたら、そのまま信じてしまいそうだ。しかし、明らかに年齢が違う。君は、朱鷺子よりもだいぶ若い」
「そうですか」
グレートヒェンが、何か考え深げにうつむいた。
「フェルミ博士、いらっしゃい」
エミリーが、博士の分のティーカップと、お菓子を運んできて、テーブルに並べながら言った。
「おお、エミリー、君は、いつも元気そうでいいね」
フェルミ博士がにこにこしながら言う。エミリーは、そのカップに、ティーポットからお茶を注いで微笑みかけた。
「で、君の野暮用というのは?」
「そこにいる、メフィスト君から、ちょっと頼まれごとをしまして」
メフィストが、頭を下げると、それまで気付かなかったのか、フェルミ博士は、大慌てで言った。
「こ、これは失礼。メフィストさんとおっしゃる。フェルミです」
「メフィストです。こちらの朱鷺子さんにそっくりの女性が」
「グレートヒェンです」
グレートヒェンが、頭を下げた。フェルミ博士も、慌てて頭を下げた。
「それにしても、メフィストにグレートヒェン、失礼ながら、ちょっと冗談のようなお名前だ」
くく、っと肩を震わせながら、メフィストが言った。
「よくそう言われます。でも、本名なのです」
「なるほど、なるほど」
フェルミ博士は、盛んにうなずきながら汗を拭いた。
「で、涼、君は、こちらのご婦人と再婚でもしようというのかね」
キッと、エミリーの目がきつくなった。僕は慌てた。
「先生、それはいくらなんでも。第一、グレートヒェンに失礼です」
「あ、ああ、そうだな。どうも失礼。ご気分を悪くなさらなければいいのですが。どうも、あまりに朱鷺子に似ているもので、少し動揺しているようでして……」
フェルミ博士が、盛んに頭を下げた。
「いいえ、そんな、気分を悪くするだなんてことはありませんわ。むしろ光栄ですわ。私も、徳大寺さんには、好意を持っておりますので」
うわ! 最悪だ。エミリーの目が、ものすごくきつくなるのが目に見えるようだ。エミリーは、ぷいと部屋を出て行った。
しかし、この胸のときめきは何だろう。
涼、お前は、この若すぎる女性に好意でも持っているのか? むしろ、エミリーの方が、お前にはお似合いの年齢ではないか?
いやいや、何を考えているのだろう。僕の妻は、後にも先にも朱鷺子だけだ。確かに、摩耶のことを考えたら、母親は必要なんだろうけど、僕には、朱鷺子以外の妻なんて考えられない。
「涼、摩耶はどこかね」
フェルミ博士が訊いてきた。博士は、摩耶が大のお気に入りなのだ。
「上で昼寝をしています」
「おお、そうか。どれ、寝顔を見てくるとしよう。しかし、なんだなあ。あんまり昼寝をさせすぎると、夜寝付けんようになるぞ」
博士は、ぶつぶつ言いながら、居間を出て行った。
「でも、メフィスト、朱鷺子っていう人は、そんなに私に似ているの? 不思議だわ。それに、私摩耶ちゃんを見たときに、本当に懐かしい気がしたの。自分の子供を見たような。でも、私、子供なんていないのよ。おかしいと思わない?」
「ええ、それは、私もおかしいと思っていたんですよ」
メフィストが、考え深げに視線を落とした。
「第一ねえ、摩耶は、朱鷺子の顔を知らないはずなんだよ」
僕が言うと、メフィストとグレートヒェンは、一様に、え、という顔をした。そこで、僕は写真を片付けてしまった顛末を話した。
「ええっと、じゃあ、摩耶ちゃんは、朱鷺子さんの写真さえ見たことがないと。それは不思議ですねえ」
グレートヒェンは何も言わない。だが、その顔が青ざめている。
「これは……」
「え」
「これは、もしかすると、聖ジェズアルドがおっしゃっていた、愛の奇跡、と関係があるのでしょうか?」
「いや、そんなことは……」
否定しようとして、僕は口ごもった。愛の奇跡? 誰の。神の愛か。それとも、誰かと誰かの愛か。あまりにも曖昧すぎる。
それにしても、グレートヒェンは、人間なのか。それとも妖精か何かの類なのか? 疑問に思ったが、その疑問を口に出すのは怖かった。
フェルミ博士が戻ってきた。
「摩耶は、可愛いねえ。ぐっすりと寝ておったよ」
満面の笑顔である。
「珈琲はいかが」
エミリーが、珈琲ポットを持って入ってきた。
「おお、いいねえ。紅茶もいいが、やっぱり珈琲じゃよ」
フェルミ博士が、にこにこしながら言った。フェルミ博士は、大の珈琲好きなのだ。一日に、軽く十杯は飲む。僕も、大概珈琲党だと思うのだが、フェルミ博士には負ける。そして、博士はもちろん大の甘党だ。今も、エミリー特製のクッキーに、ジャムを大盛りにして食べている。
「で、メフィストさんは、お仕事は何を?」
僕は、むせそうになった。メフィストは、何と答える気だろう。
「はい、ちょっとコンピューター関係のバイヤーをしていますが、その関係で、是非徳大寺先生にアドバイスを頂きたいことがありまして」
「なるほど、涼はコンピューターにも強いからね」
よかった。博士は、何も疑いを持たなかったようだ。
「で、グレートヒェンさんは、あなたの恋人?」
僕は、再びむせた。
「いえ、従姉妹です」
メフィストが、涼しい顔をして答える。なるほど、ものは言い様だ。見ると、グレートヒェンも涼しい顔をしている。
「で、そのコンピューター関係のお仕事というのは、ここでやっていらっしゃるのですか」
「いえ、私のオフィスでやっていただいています。今は、摩耶ちゃんの顔を見に」
「なるほど。涼も、摩耶のことは目に入れても痛くないほど可愛がっていますからねえ」
「じゃあ、博士、僕たちは、ちょっとその仕事に行きますから、ごゆっくり。エミリー、フェルミ博士の相手をしてやってくれ」
「おお、そうか。じゃあ、わしは摩耶が起きてくるまでちょっと厄介になるかな」
「はい。そうお願いします」
僕と、メフィストと、グレートヒェンは、フェルミ博士に挨拶をして居間を出、家を出た。




