第二十話
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寝室に行ってみると、摩耶はぐっすりと眠り込んでいた。何か、よほど安心したものと見え、頬には幸福そうな笑みが浮かんでいた。僕も、思わずつられてニコニコと微笑んでしまった。
「リョウ、あの女の人は何なの?」
急に言われて振り向くと、エミリーが立っていた。すこし、柳眉が逆立つ、という感じの表情になっている。
「え、何って、グレートヒェンといってね、メフィストの知り合いさ。僕も昨日知り合ったばかりでね」
「そう、昨日ね」
エミリーは、なんだか疑い深そうに僕を見ている。
「え、どういうことだい、エミリー。あの娘に、何か不審な点でも」
「あのねえリョウ、あたしは、朱鷺子を知っているの」
「え!」
驚いた。
だって、エミリーは、朱鷺子が死んでから雇ったベビーシッターだ。エミリーが、朱鷺子を知っているはずがない。おまけに、朱鷺子の写真なんかは、全部片付けてある。
「あたしはねえ、リョウ、あなたに三年前に一目惚れしたの」
「え!」
「今でも、はっきり憶えているわ。三年前の三月十三日、市内のデパートであなたを見かけたの。あなたは、多分朱鷺子への贈り物を物色していて、宝飾品売り場をそぞろ歩いていたわ。だから、貴方にガールフレンドがいることは分かったの。でも、まだ二十歳だったあたしは、なんだか胸がドキドキして、その鼓動を抑えることができなかったの」
なんだろう、これは。エミリーは、時ならぬ愛の告白でもしようというのだろうか。
「あなたは、可愛らしい金のイヤリングを買ったわ。八分音符の装飾のある、趣味のいいイヤリングだったわ」
ああ、そうだ。それは、確かにホワイトデーに僕が朱鷺子に買ってやったものだ。アンデスには、ホワイトデーなんて習慣はない。お返しの、手頃なクッキーなんてないのだ。まあ、僕も朱鷺子も、クラシック音楽が好きなので、朱鷺子も喜んでくれた。
「それから、あたしはあなたの後を尾けたの」
「え、まるでストーカーだな」
僕が苦笑しながらいうと、エミリーは、「そうよ、ストーカーよ」と真顔で答えた。
「そして、あなたの家を確かめたわ。本当にストーカーになって、あなたの家の周りをうろついた。そして、奥さんも、子供もいることを知ったわ。それで、あたしは、諦めたの、あなたのことを。でもねえ」
でも、何だと言うのだろう。
「初恋だったの、あたし。四歳で{ルビ みなしご}孤児{/ルビ}になってから親戚のところを渡り歩いたの。そこでねえ、物心ついてから、五回強姦されそうになったの。叔父さんや、従兄弟に」
え、それは……。しかし、考えてみれば当たり前だ。エミリーは美人だ。グラマーな体は、男心をそそるだろう。ちょっと厚ぼったい、ピンクの口紅を塗った唇など、セクシーそのものだ。愛嬌のある二重の目の、奥深い澄んだ瞳。僕だって、朱鷺子の思い出がなければ恋をしてしまいそうだ。
「フェルミ博士のところでハウスキーパーをしていた遠縁の小母さんのところに預けられてから、やっと安心できる日々が続いたわ。そこで、高校まで上げてもらったの。だから、あたしには、男性不信が根深く取り付いていて、恋をする気になんてなれなかったの。それが、リョウ、あなたを一目見たときから、あたしは恋の虜になったわ。不思議よね。だから、諦めるにしても、あなたの奥さんがどんな人か、この目で確かめてからにしたいと思ったの」
はあ、女心というものは、不思議な動き方をするものだ。
「そこで、今度は、朱鷺子のストーカーになったの。そして、あたしは知ったの。朱鷺子が、ボランティアで日本語学校の先生をしていることを」
そうだった。朱鷺子は、摩耶を産む前から、ビジネスビルの一室を借りて日本語教室を開いていた。摩耶が生まれてから、半年ぐらいは休校したが、その後は、生まれたばかりの摩耶をバスケットに入れて連れて行き、日本語学校を続けていたのだ。
「それで、あたしは、その日本語学校に入れてもらったの。楽しかったわ。日本語を習うことは、小さい頃からの夢だった。小母さんの家の近くにいた日系の人が、とても優しかったこともあるわね。でも、それだけじゃなかったわ。アニメ、自動車、テレビ、パソコン。なんでも、いい物はアメリカと日本から来たわ。アメリカは、身近すぎてなんだか好きになれなかった。日本は魔法の国だったの」
いやはや、日本人としてはなんだか面映ゆい。
「そうやって、朱鷺子から日本語を習っているうちに、ああ、この人は本当に優しい人なんだなあ、って思ったの。リョウの妻に相応しい人なんだなあ、って。折り紙や、綾取りも習ったわ。本当に、あの日本語教室は楽しかった」
なんだか、夢見るような表情で、エミリーはうっとりと空中を見詰めた。
「あたしは、朱鷺子も、そして小さな摩耶も、大好きになったの。だから、安心してあなたを諦められたわ、リョウ」
ううむ、エミリーに、そんな複雑な事情があったとは。迂闊なことに、今の今まで全く気がつかなかった。それにしても、これでエミリーが片言とはいえ、意思疎通には充分な日本語が話せる理由が分かった。
「だから、朱鷺子が病気になって学校がお休みになったときは、とても哀しかったわ。おまけに、半年もたたずに朱鷺子が亡くなってしまうじゃない。最低、最悪」
エミリーは、両手を広げて、それをがくんと落とした。
「それで、フェルミ博士が、摩耶のベビーシッターを探していると聞いたとき、一も二もなく応募したの。採用されたときは、天にも昇る心地だったわ」
エミリーが、その豊かなバストの前で両手を組み、夢見心地、という風に天井を向いた。
「だからねえ、リョウ、あの女の人は誰なの? ただ朱鷺子に似ているから浮気をする、というのなら、あたし許せないわ。あなたの奥さんは、朱鷺子一人よ」
「エミリー、誤解しないでくれ。グレートヒェンは、メフィストの知り合いなんだ。メフィストに連れて行かれた喫茶店で、偶然知り合っただけさ。いかがわしい気持ちなんて、これっぽっちもない。神掛けて誓うよ」
おっと、無神論者で、仏教徒の僕が使っていい台詞ではないかな。
「じゃあ、あの女の人に向かって、小さい摩耶が、日本語でお母さん、と呼びかけているのは何? 前から、摩耶にこの人がお前の新しいお母さんだよって、教え込んでいたんじゃないの」
「いや」
ここで、僕は答えに詰まってしまった。そうなのだ。朱鷺子の顔を知らないはずの摩耶が、どうしてグレートヒェンを母親と見間違えたのだろう。それに対する、グレートヒェンの反応も変だった。摩耶ちゃん、大きくなったわねえ、だって。まるで、前に摩耶にあったことがあるみたいだった。
第一、摩耶は日本語でグレートヒェンに呼びかけている。グレートヒェンは、何語で摩耶に話しかけたのだろう? メフィストと会って以来、知らない言語を理解できるのに慣れてしまっていた僕は、今までそんなこと考えもしなかった。
「とにかくねえ、エミリー、君の誤解だよ。グレートヒェンとは、今日会ったばっかりだ。僕だって、最初、朱鷺子とあまり似ているんでびっくりしたさ。でも、赤の他人だよ。摩耶は、そう、多分、きっとどこかで朱鷺子の写真を見たんだよ」
僕は、それが嘘なことを知っていた。僕は、徹底的に朱鷺子の写真が目に入らないようにクローゼットの奥にしまい込んでしまったのだ。一枚残らず。
そうだ。
僕は、不意に思い出した。僕がいつも首にかけているロケット。その中には、小さな朱鷺子の写真が入っている。
「エミリー、摩耶は、これを見たことがあるんじゃないだろうか」
僕は、そのルビーの嵌め込んであるロケット開けて見せた。
「まあ、朱鷺子」
エミリーが、懐かしそうにその写真を見詰めた。
「じゃあ、やっぱり、リョウは朱鷺子のことを忘れたわけじゃあないのね」
エミリーは、満足そうに言うと、寝室を出て行った。
後に取り残された僕は、しかし不可解な謎に巻き込まれたまま出口が見出せないでいた。このロケットは、留め金がしっかりしているので、偶然開くことはない。そして、摩耶の力では開けられない。
摩耶は、グレートヒェンが朱鷺子に似ていることを知りようがない。
何だろう? このもやもやとした気分は。僕は、ロケットを右手に握りしめたまま、立ちつくしていた。




