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メフィスト・フェレスの狼狽  作者: ヒデヨシ
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第二話


「あれだけの魔力を持った悪魔さんが頭を痛めるというのは、どんな事件なんですか」

 いささか興味が湧いた。僕も、ミステリーーは嫌いではない。もっとも、ハードボイルドや、サスペンスは苦手で、もっぱらパズラーの本格ものだけだが。

「ええ、きっと面白いと思いますよ。究極の不可能犯罪です」

 究極の不可能犯罪! ほう、それは魅力的な言葉だ。

「密室内の殺人とかですか?」

 不謹慎ながら、つい身を乗り出してしまった。

「いえ、確かに殺事件人ですが、被害者が殺された部屋の扉に、鍵はかかっていませんでした。誰でも出入り自由です」

「ふむふむ」

 うなずきながら、僕はジーンズの足を組んだ。スリーピースのスーツをきちっと着こなした青年の前で、なんとなく気がひけた。

「殺された人物が問題なんですよ。殺されたのは、ラームチャンドラ・バクティ老師。ヒンドゥー教の行者です。未来予知ができるほどの法力を持つ、正真正銘の聖者です」

 未来予知のできる聖者。おやおや、それはまた、なんとも珍しいことを聞くものだ。今日は、悪魔といい、聖者といい、普段は滅多に目にしたり、耳にしたりできないもののオンパレードらしい。でも、この不確定性原理の時代に、未来予知など可能なのだろうか?

 メフィスト氏(そろそろこう呼んでもいいだろう)は、ホーローのカップを両手で挟むように持ち、口を尖らせて吹いた。(意外に可愛い)。熱くないのだろうか。僕なんぞは、まだ取っ手を持っていてもけっこう熱い気がするのに。さすがに悪魔だけはある。

「ラームチャンドラ・バクティ老師が殺されたのは、ドッキネーショル寺院という、彼の寺の僧房です。場所が場所だけに、その部屋はラームチャンドラ・バクティ老師の結界で守られていました。鍵こそかかっていませんが、はっきり言って普通の人間には進入不可能です。ああ、言い忘れていましたが、このドッキネーショル寺院と言うのは、次元の裏にあるので、特殊な神通力を持たない存在は見つけ出すことすらできません」

 おやおや、未来予知ができる上に、自らの結界で守られた部屋。では、殺される道理がないではないか。

「死体を発見したのは、弟子の叡愼えいしんという中国人の青年僧です」

「ああ、じゃあ、その叡愼が犯人ですね」

 僕は、軽い乗りで言った。

「は?」

 メフィスト氏は、面食らったようだ。

「いえ、やはり、第一発見者が犯人というのが、セオリーかと……。駄目ですよね」

 メフィスト氏が、クック、と小さく肩を震わせた。

「いいなあ、お父さんのその乗り、好きですよ」

 深い声で、囁くように言われると、少しゾクゾクとする。

「さてと」

 気を取り直して、メフィスト氏が言葉を継いだ。

「叡愼は、以前に臨済宗の禅を学んでいたのです。一応、小悟は得たのですが、大悟徹底するためにラームチャンドラ・バクティ老師の下に改めて弟子入りした男です」

 ヒンドゥー教の行者の下に、中国人の弟子とは、面白い取り合わせだ。第一、今の共産中国で仏教の修行などできるのだろうか。

 疑問を口に出すと、メフィストは、「ええ、まあ、その辺は本人から」と言うだけだった。こほん、と咳をしてメフィストは続けた。

「叡愼が、ラームチャンドラ・バクティ老師の遺骸を発見したのは、ええと、今は夜の一時ですから、昨日になりますね。昨日の明け方、四時のことでした。その前、二時に叡愼は老師と会っていますから、犯行時間は真夜中二時から明け方四時までの間になります」

 なるほど。いかにも、犯罪に相応しい時間帯だ。

「死因は、撲殺でした。後頭部を、一撃されて即死だったようです。凶器は、部屋に飾ってあった青銅製の花瓶です」

「撲殺ですか。争った形跡はあったんですか」

 僕は、若干興味を惹かれてきた。いささか後ろめたい気もするのだが。

「争った形跡はありませんでした」

「すると、顔見知りの犯行ということになりますね」

「そうかも知れません。しかも、奇妙なことに、後頭部を殴られたのに、死体は仰向けに寝せられ、着衣も乱れを直されていました。胸には、多分花瓶に挿してあったのでしょう、紫色の菫の花が置かれていました。充分敬意を払ったもののようです」

 僕は、頭をひねってしまった。こんな奇妙な話は、聞いたこともない。そもそも、推理小説の類では、殺した死体を損壊することはあっても、花を飾るなどという例はないのではないだろうか。

 ふと気が付いた。

「しかし、未来予知ができるといっても、そのラームチャンドラ・バクティ師は、自分の殺されるところまでは予知できなかったんじゃありませんか。良く言うでしょう。どんな予言者も、自分に関することは予言できないって」

 それなら、究極の不可能犯罪とは言えない。

「あは」

 メフィスト氏は、くすりと笑った。口に手をやり、肩を小さく震わせている。

「これは失礼。聖者について、ご説明しなければなりませんね。今ここで問題になっているのは、正真正銘、掛け値なしの聖者です。街の、けちな占い師や、拝み屋、超能力者、新興宗教の教祖なぞではありません」

 メフィスト氏は、長い足を組みなおした。

「宗教の修行というものは不思議なものです。修行の過程で、一種の神通力を獲得することはあります。まあ、チンケな似非宗教家は、そんな程度の低い超能力を自慢にしますがね。本物の宗教者は、そんなものを省みることはありません」

 僕は、深く頷いた。仏教の修行者も、修行半ばに手に入れる神通力に惑わされないようにするのが本当だそうだ。昨今の新興宗教のように、超能力の獲得なんぞを目的とするのは、本末転倒の邪道なのだ。

「ですから、本当に神通力を得た修行者は、その段階で世間の雑音に邪魔されないように身を隠してしまうんですよ。自分の名前など、痕跡が残らないように消してしまうんですね。歴史上に名を残している宗教家など、しょせん本物ではないのです」

 なるほど、そういうものかも知れない。

「こうして身を隠している修行者こそ、本当の神通力、法力を身につけているんです。ひけらかさないし、自慢もしませんけどね。彼らの持つ法力は、超絶的なものです。自分の未来は予知できないなんてちゃちなスケールのものではありません」

「すると、ラームチャンドラ師は、自分が殺害される時点を、はっきり予知できていたわけですか」

「そうですね。予知できていたでしょう」

 メフィストの、菫色の瞳が燦めいた。

 はてさて、それは奇妙だ。いくらできた修行者でも、自分が殺されることが分かっていて、それを避けないというのはおかしい。

「では、こういうのはどうでしょう。予知した未来というのは、決定された未来なのでしょう。だから、回避しようとしても、回避できないということはないのですか」

「ああ、それは、もっともな疑問ですね」

 メフィスト氏は、その疑問も予想していたらしく、小さく頷いた。

「釈迦牟尼、ゴータマ・シッダールタが入定するときの説話をご存知ですよね」

 なるほど。僕は頷いた。

 釈迦牟尼は、茸に当たって寂滅したことになっている。しかし、釈迦牟尼は、自分が涅槃に入るときを予知できていたのだ。しかも、弟子が涅槃に入らないように懇願すれば、この世に留まることもできたということになっている。ところが、弟子たちはそのことに思い至らずに、涅槃に入らないようには懇願しなかったのだ。それで、釈迦牟尼は寂滅してしまったというわけだ。

「ここでのポイントは、釈迦牟尼は、自分の寂滅の時点を予知していて、その気さえあれば回避もできたということです」

 僕は、また頷く。

「ラームチャンドラ・バクティ老師ほどの聖者になると、このときの釈迦牟尼仏並みの法力を持っていました。自分の定められた未来を変えることぐらい、なんでもありませんよ」

 おやおや、それはさすがに驚いた。しかし、そうするといったいどういうことになるのだろう。ラームチャンドラ・バクティ老師とやらは、自分の死を避けることができるのに、それをしなかったということだろうか。いくら大悟徹底した聖者でも、それはちょっとあんまりな気がする。

「ね、なかなか不思議な話でしょう」

 メフィスト氏が、それ自体不思議な感じのする菫色の瞳を輝かせて言った。

「すると、例えば、殺したのは神様だったとか」

 無責任に、思いつきを言ってみた。

「駄目……ですよね」

 ちょっと頬を赤らめながら、眼鏡を押し上げる。

「いえ、まあ、なんと言いますか、それに近いことが、もっぱら取り沙汰されているんですよ」

 メフィスト氏が、両手の指を組みながら、口篭もるように言う。

「ラームチャンドラ老師ほどの法力の持ち主を殺せるとなると、一般の人間では無理でしょう。ですから、神とか、天使とか、何か神的な存在が殺したのではないか。少なくとも、介入したのではないかと噂され始めています」

 僕は、大きく頷いた。そうとでも考えなければ、辻褄が合わない。しかし、そんな神的な存在が、人殺しなどするものだろうか。

「動機は、ラームチャンドラ・バクティ老師の修行が進み、神をも凌ぎかねない力を身につけそうだったから、と言われています」

 なるほど、それならありそうだ。

「かと言って、ヒンドゥー教の神々は、老師を殺したりしそうにありません。そもそもラームチャンドラ・バクティ老師は、ヒンドゥー教徒ですしね」

 頷いた。ラームも、バクティも、ヴィシュヌ信徒を表す用語だ。

「ヒンドゥー教の神話を見ると、苦行の成果で神々よりも強大な力を身に付ける聖仙リシの話など、いくらでも出てきます。古来、ヒンドゥー教の神々は、人間出身の聖仙に負けることに慣れています。今さら、ラームチャンドラ老師を殺す必要はありません。もちろん、仏教の仏は、元来が人間出身です。仏たちがやったと考えることは、もっと無理があります」

 そうすると、おやおや、古来人間が自分を超えることを極端に忌み嫌ってきた神と言えば……。

「ええ、そうです。アダムとイブが、知恵の木の実を食べたといってはエデンを追放し、天に届く塔を建てようとしたといってはバベルの塔を崩壊させた神。嫉む神・ヤハウェが、そしてその使いであるキリスト教の天使族が怪しいと言われ始めたのですよ」

 ああ、それなら一応納得できる。なんと言っても、血腥さでは、ヤハウェの右に出る神はいないだろうから。

 まあ、確かにメソポタミアなどの古い神々は、人間が不死の妙薬を手に入れて神々と等しくなることを恐れたらしい。ギルガメシュ叙事詩などに、いろいろな神話が残されている。

 しかし、そんな古い神々は、みんな滅んでしまった。イスラム教のアッラーなどは、随分と合理化された超越神だし。今時、オリエント起源の古い体質を残した神は、ヤハウェぐらいしか思い当たらないが。

 とは言っても……、さすがに神や天使が人殺しまでするというのは……。

「天使どもは、怒りました。まあ、ヤハウェの反応は分かりませんがね。取り敢えず、私自身、ヤハウェの被造物ですから」

 それはそうだろう。天使も腹を立てそうだ。

 メフィスト氏が、若干困ったように小さく溜め息をついた。右手で鼻の下を擦る。薬指に、アメジストの指輪が光っていた。その紫が、メフィスト氏の瞳の色とよく似合っていた。でも、アメジストは司教の宝石のはずだけど。いいんだろうか?

「で、矛先が、いきなり私たち悪魔族に向いてきました。天使が、あれほどの聖者を殺すはずがない。だとしたら、殺したのは悪魔だろうと言うのです」

 今度は、心底困った、というように、大きく溜め息をついた。少し同情しそうになったが、やはり天使たちの言い分はもっともだとも思った。だが、それは一応言わないでおいた。

「しかしねえ、それは濡れ衣ですよ。私たち、悪魔ごときが持っている魔力なぞ、微々たるもんです。ラームチャンドラ老師ほどの聖者を殺すことなど、できるはずがありません。大魔王サタン=ルシフェルでさえ無理です。第一、私たちは、キリスト教世界の天使や神ほど狭量ではありませんからね。キリスト教徒以外は、信仰の篤い者とは認めない、などとけちなことは言いません」

 なるほど、それはそうかも知れない。思わず、頷いてしまう。悪魔なら、信仰さえ篤ければ、仏教徒だろうがイスラム教徒だろうが、みんな地獄に連れて行きそうな気がする。だが、さっき土星まで行った魔力が微々たるものなのだろうか? それはそれで、また豪毅なものだ。もっとも、あれは単なるイリュージョンなのかも知れないけれど。

「ラームチャンドラ老師ほどの聖者ともなれば、その魂を堕落させるほうが、遥かに価値があります。まあ」

 口篭もった。

「できたとしてですがね」

 恥ずかしそうにうつむく。どうやら自信がなさそうだ。

「はっきり言って、ローマ法王の魂なんぞ、比べものにならないほど美味しい獲物です。ただ殺すだけでは、何の意味もありませんよ」

 悪魔の理屈では、そういうことになるのかも知れない。冷めかけた紅茶を啜りながら、そう考える。

「で、緊急に悪魔一族の会議が開かれました。その結果、私が真相を究明し、悪魔一族にかけられた濡れ衣を晴らすという役目を押し付けられてしまったのですよ。最近、一番人間と接触が多いのはお前だろう、という訳です」

 おやおや、それは気の毒だ。かなりの無理難題のように思える。

「困ってしまった訳です。さっきも言った通り、どうも我々は魔力に頼る癖がついています。こんな風に、自分の持つ魔力以上の力が関与しているらしい事件を、論理的に解明するなどということは得手ではありません。ま、それで、お父さんの出番という訳です」

 むせてしまった。思わず、紅茶を吹き出すところだった。そんな風に、いきなり話を振られても困る。抗議しようと顔を上げると、メフィスト氏が機先を制した。

「もちろん、お父さんにお願いするのは、私の捜査の手助けだけです。基本的には、私が捜査します。ただ、時折、推理の舵取りをしていただければいいのです」

 この通りです、と言って、メフィスト氏は軽く頭を下げた。困ってしまった。ちょっと断りきれない雰囲気だ。僕は、優柔不断なので、頭を下げられると、なかなか強くは断り切れない。

 その上、不謹慎かも知れないが、究極の不可能犯罪という言葉がなんとも魅力的に響く。なんといっても、さっきも言ったように、僕は大のミステリー好きなのだ。

「それに、もう一度言いますが、お父さんは宗教にも詳しい。この事件にうってつけなのですよ」

 メフィストが、もう一度頭を下げる。

 僕は、それが癖で、頭を掻き掻きようやくのことで言葉を紡いだ。

「では、取り敢えず、事件の詳細を教えていただけませんか。ご協力するかどうかは、その後ということで」

 メフィスト氏は、頷いた。菫色の瞳が、妖しく煌めいた。女性だったら、一発で心が揺らめきそうだ。男で良かった、と心底思った。


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