第十九話
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「それにしても」
僕は言った。
「神が、無能な嬰児だというのは、いったいどういことだろう。神が無能なら、この世の悪は、不幸は、全て悪魔の仕業だということなんだろうか?」
僕は、メフィストに話しかけた。
「いやいや」
メフィストは、また肩を震わせながら下を向いて苦笑した。
「悪魔を、あんまり買いかぶられては困ります。この世の全ての不幸を生み出すほどの力は、悪魔は持ってはいません。多分、聖ジェズアルドの言いたいのは、この世を創造した神、怒り、妬む神であるヤハウェと、愛の神キリストは、違うものだということではないでしょうか」
「いや、しかし、それはおかしいよ、メフィスト。キリスト教の公式的な見解では、神ヤハウェと、神キリストと、聖霊は三位一体のはずだ。ヤハウェとキリストが違う神では、キリスト教は一神教ではなく、二神教になってしまう」
「ええ、その辺が、キリスト教の弱みでもありますねえ。確かに。でも、悪魔ごときに、この世の不幸の全てを生み出すなど、到底できた仕業ではありませんよ」
「だけど、聖ジェズアルドは、サタン=ルシフェルの力は、君が思っている以上に強いと言っていたじゃないか」
「それは……」
メフィストが、ちょっと蒼い顔になりながら考え込んだ。
「確かに、君たち悪魔の力が、バイラヴァ老師級だったら、人類など何度も滅ぼされていただろう。だけど、それほどでなくても、君が思っている以上に悪魔の総力が強かったら、世界の今程度の不幸は説明できるんじゃないだろうか?」
「でも、それは、神=キリストが無力な幼児だとしたらですよね。キリストが幼児だとしても、怒れる神ヤハウェがいます。ヤハウェがいくら妬む神でも、自らの被造物が悲惨な目に遭うのを放っておくと言うことはないでしょう」
「え、でも、じゃあこの世の不幸の源は何なんだい。君たち悪魔じゃあないのかい」
「違う……、と思います。でも、本当に、この世の悲惨さの原因は何なんでしょうね」
メフィストが、考え込んだ。多分、今まで、そんなことは真面目に考えたことがなかったのだろう。悪魔が、〝悪〟の原因について考え込むというのも、変な話だ。
「仏教では、この世の悪の源は何だと言っているんですか?」
「仏教では、基本的に〝悪〟という概念がないんだ。この世に生きとし生ける衆生は、無明の闇に迷わされて輪廻を続ける。あくまでも、悪いのは無明に迷う〝無知〟なんだ。だから、その無明から、迷いから覚醒することを悟りという」
「なるほどねえ。悪という概念そのものが、仏教とキリスト教では根本的に違うんですね」
メフィストは、感心したように頷いた。グレートヒェンも、神妙な顔をして話に聞き入っている。
「まあ、いいや。そのことについて、あまり考え込んでも不毛だ。ラームチャンドラ老師殺人事件の方に頭を切り換えよう」
「そうですね。ほら、こんな風に悪魔というのは、論理的に考えることが苦手なんです。だから、お父さんの論理的な思考力が私たちにはどうしても必要なんですよ」
僕は、苦笑しながら続けた。
「ミス・グレートヒェン。あなたが、二日前の午前二時過ぎから午前四時前まで、聖ジェズアルドの姿を見ていたのは確かなんですね」
「はい、そうです。正確には、午前二時少し過ぎ、二時十分頃にあの花園に参りました。そのとき、ジェズアルド様は、私も聞き慣れたお説法の途中でした。そのお説法は、始まってから三十分過ぎぐらいだと思います。ですから、ジェズアルド様が、午前二時前から、あそこで月に説法をなさっていたことは、確かだと思います」
「そのとき、あなたが見たのは、本当に聖ジェズアルド本人でしたか?」
「え」
「こういうことです。あなたが見ていたのは、イリュージョンではないのか、と僕は思っているんです。だって、あなたは、聖ジェズアルドに直接話しかけたり、触ったりしたのではないんでしょう」
「はい、それは、お説法の邪魔になったりしてはいけないと思って」
グレートヒェンは、明らかに動揺している。
「聖ジェズアルドほどの聖者ともなれば、自分の幻影を見せたり、音声を聞かせたりすることは簡単なことだと思います。あなたが見ていたのは、幻であり、聞いていたのは幻聴だった、という可能性はないのか、ということです」
「え、そ、それは……」
グレートヒェンは、困惑したような顔をして、うつむいた。僕は畳みかけた。
「あなた以外、聖ジェズアルドがあそこにいて、月に説法していたことを証言するのは、ミジンコのサイムル君のみです。ミジンコの証言というのは、どうにも疑わしい。あなたが、聖ジェズアルドに近づいて直接話したのではなく、遠方から見ただけだとすれば、あなたが聖ジェズアルドに騙されている可能性はあります」
グレートヒェンは、眉を顰めて考え込んだ。
「でもお父さん、それは無理がありますよ」
「どうして?」
「思い出してください。この件に関しては、ラームチャンドラ老師の呪縛が、時空を超えて有効です。聖ジェズアルド様自身が、犯行時間には月に説法していたと、アリバイを証言しているんです。サイムル君や、グレートヒェンの証言は、その補強に過ぎません」
「でもねえ、メフィスト。そのラームチャンドラ老師の呪縛というのは、それほど効果があるものなんだろうか? バイラヴァ老師の時のように従者ならともかく、今回証言しているのは聖者自身だ。本当に聖者自身の発言まで、呪縛できるものなんだろうか。それほど、ラームチャンドラ老師の呪縛は強力なものなんだろうか。僕には疑問だね。君だって、バイラヴァ老師の超絶的な法力をその目で見ただろう。ラームチャンドラ老師の呪縛が、例の五人の聖者以外に有効なことは認めるさ。けど、聖者たち自身にも有効かどうかは、僕にはちょっと分からない」
「ううむ、そう言われると、反論のしようがありませんね。すると、聖者自身の証言は、当てにならないと言うことですか」
「そうだね。マールカンデーヤ少年のように、人間や、人間に類する知性を持った存在が間近で見ていたならともかく」
僕は、ここでちらっとグレートヒェンを見た。グレートヒェンが人間かどうかは、僕にはまだ分からないのだ。
「聖者自身は、ラームチャンドラ老師の呪縛を無効にできる可能性を否定するべきではないと思う」
「でも、何のためにジェズアルド様が、ラームチャンドラ老師を殺す必要があるんですか」
グレートヒェンが、縋るような目で僕を見詰めた。僕は冷静に言った。
「もちろん、自分より先に修行を完成しそうなラームチャンドラ老師に対する妬みさ。なんと言っても、聖ジェズアルドは、妬む神ヤハウェの僕なんだからね」
「参ったなあ。お父さんの、キリスト教に対する敵意も、相当なもんですねえ」
メフィストが、大袈裟に仰け反り返りながら言った。グレートヒェンは、真剣な目をして僕を見詰めている。
「いや、これは、敵意なんかじゃないよ。冷静に、客観的に事実を言っているだけだ。相手が、仏教の聖者でも、僕は同じ態度を貫くだけだよ」
「分かりました。つまり、バイラヴァ老師のアリバイは、マールカンデーヤ少年の証言で成立する。しかし、聖ジェズアルド様のアリバイは、不確実であると。こういうことですね」
「そうだね。でも、怪しいのは聖ジェズアルドだけとは限らない。この後に、まだ三人容疑者が残っているんだからね」
「そうですね。しかし、この後もあんな緊張が続くのかと思うとうんざりしますね」
「緊張って。メフィストは、ジェズアルド様の前でも緊張するの?」
グレートヒェンが、無邪気な顔で尋ねた。
「緊張するよ。緊張しますよ。だって、聖者から見れば、悪魔なんて不要物だよ。何かの拍子にご機嫌を損じたら、私の存在なんか、それこそ素粒子レベルで消されてしまう」
メフィストが、実際少し蒼い顔をして言った。
「まあ」
グレートヒェンが、拳で口を押さえて、可笑しそうにくすくす笑った。
「ちょっと、摩耶の様子を見てくるよ」
そう言って、僕は席を立った。