第十八話
第四章 そして愛はもつれる。
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「ただいま」
僕たち三人が玄関の扉を開けると、「お帰りなしゃーい」と言って、摩耶がスリッパをペタペタさせながら出てきた。
「あ、お母しゃん、お帰りなしゃーい」
そう言って、摩耶はグレートヒェンに抱きついた。
え?
「あら摩耶ちゃん、しばらく見ないうちに大きくなったわねえ」
そう言って、グレートヒェンが摩耶を抱き上げた。いかにも愛しそうに頬ずりをしている。摩耶も、お父さんのことなど眼中にない、という表情でうっとりと甘えている。
僕は、背中に薄ら寒いものを覚えた。
なんだろう、これは?
確かに、グレートヒェンは朱鷺子に似ている。しかし、摩耶は朱鷺子の顔は知らないはずなのだ。
朱鷺子が亡くなったとき、摩耶はまだ二歳にもならなかった。朱鷺子の顔を憶えているはずがない。
写真?
いや、僕は、朱鷺子のことを思い出すのが辛くて、家にあった朱鷺子の写っている写真は全部片付けてしまった。もちろん、燃やすなんてことはできなかった。だから、まとめて桐の箱に入れてクローゼットの奥にしまい込んでしまったのだ。
だから、摩耶が朱鷺子の顔を憶えているはずがない。
ということは、グレートヒェンがいくら朱鷺子に似ていても、摩耶がそれを母親と見間違えることなどあるはずがないのだ。
それなのに……。
それなのに、摩耶は、今グレートヒェンを「お母さん」と呼んでしっかりと抱きついている。しかも、グレートヒェンも、「しばらく見ないうちに」などと言っている。
どういうことだろう。これは?
「お帰りなさい、リョウ。あら、お客様?」
奥から、エミリーが出てきた。本当なら、帰ってもいい時間なのだが、摩耶の遊び相手をずっとしていてくれたのだろう。キッチンからは、ナーニ小母さんが料理をしているいい匂いが漂ってくる。
「え、朱鷺子! あ、いや違うわ」
エミリーが謎のようなことを言った。
「うん、前にもきたメフィストと、ミス・グレートヒェンだ。ちょっと、お茶を淹れてくれるかなあ」
「はい」
言いながら、エミリーは、ちょっと敵意に満ちた眼差しをグレートヒェンに向けた。おやおや、エミリーは、メフィストに気があって、グレートヒェンを恋敵とでも見たのだろうか。
取りあえず、居間に行く。メフィストとグレートヒェンをソファに並ばせ、僕は、一人がけの椅子に座った。摩耶は、しきりに「お母しゃん」「お母しゃん」と言ってグレートヒェンの膝の上で甘えている。グレートヒェンはグレートヒェンで、まるで本当の母親のように、摩耶のほっぺたをつねったり、髪を撫でてやったりして目を細めている。
メフィストが、不思議そうに言った。
「グレートヒェン、君は、以前にここに来たことがあるのかい」
「え、いいえ、ないわ。初めてよ」
グレートヒェンは、メフィストが何でそんなことを訊くのだろう、という風に小首を傾げた。
「じゃあ、なんで君は摩耶ちゃんを知っているんだい」
「え、あら、本当に、どうしてかしら? でも、なんだか摩耶ちゃんを見たら、とっても懐かしくて、可愛くて、そう、まるで自分の本当の娘みたいに思えたの。本当、なぜかしら?」
そう言いながらも、グレートヒェンは、目を細めて摩耶の髪を撫でている。
「摩耶、お前は、何でグレートヒェンお姉さんをお母さんなんて呼ぶんだい」
僕は、できるだけ優しく摩耶に尋ねた。でも、僕の声には、幾分か棘があったかも知れない。
「え」
摩耶が、不思議そうな顔をして僕を見た。
「だって、お母しゃんは、摩耶のお母しゃんだもの」
大きな目を、まん丸に見開いて、摩耶は僕に言った。僕は、少し苛ついた。でも、できるだけ優しそうな笑顔を作って、摩耶に話しかけた。
「このお姉さんはねえ、グレートヒェンさんと言って、よそのお姉さんなんだ。摩耶のお母さんは、死んじゃったんだよ」
「違いましゅ」
摩耶は、きっぱりと言った。
「お母しゃんは、摩耶の本当のお母しゃんでしゅ。お母しゃんは、死んでなんかいましぇん」
「違うよ、摩耶。この人は、摩耶のお母さんなんかじゃないよ」
僕は、少し意地になって言った。
「違いましゅ、お母しゃんは、お母しゃんでしゅ!」
摩耶の大きな目に、見る見るうちに大きな涙の雫が生まれ、それが溢れ、零れ落ちていった。それが、ほっぺたを伝わって流れ出す。摩耶が、大声で泣き出しそうになった気配を感じて、僕は慌てた。
「ええ、そうよ。あたしは、摩耶ちゃんの本当のお母さんよ。ねえ、摩耶ちゃん」
グレートヒェンが、そう言いながら摩耶の髪を撫でた。摩耶は、グレートヒェンの、ほっそりとした体の割には豊かな胸に顔を埋めて必死に泣くのをこらえた。
「駄目だよ、グレートヒェン」
僕はきつい声で言った。
「摩耶に変な希望を持たせないでくれたまえ。摩耶の母親は、朱鷺子はもうとっくに亡くなったんだ。僕たち親子は、その現実に向き合わなくっちゃいけないんだ。変な幻想を持ちながら、生きいくことはできないんだから」
「でも……」
グレートヒェンは、何か言いたそうな素振りをした。しかし、僕の目を見て止めた。多分、僕は怖い目をしているのだろう。グレートヒェンは、何か言う代わりに、摩耶に目を落とし、ひたすら愛しげにその髪を撫でた。
そこに、エミリーが、お茶を持ってきた。エミリーのお手製の、甘くないクッキーに、ジャムが添えられていた。
見ると、摩耶は、グレートヒェンの胸ですやすやと寝ていた。エミリーが無言で摩耶の体を抱き上げて、そのまま、寝室に運んでいった。
僕たちは、ちょっと気まずい雰囲気のまま、クッキーを食べ、お茶を飲んだ。