第十七話
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「神とは、生ける光です」
聖ジェズアルドが、唐突に話し出した。
「顕現した神としての光は、動きます。あたかも、子栗鼠のような素早さで、くるくると動き回ります。その、生き生きとした動きが、私たちに大いなる恩寵をもたらすのです」
「その恩寵によって、朱鷺子は死んだと」
僕が冷たく言うと、聖ジェズアルドはまじめな顔をして手を組んだ。
「そうです。その通りです。朱鷺子さんは、神の恩寵のおかげで、この世という現象世界から消え去りました。しかし、別の現象世界で生きておいでです」
そんなお為ごかしを言われても、僕には納得できない。僕は、今、この手で抱きしめることのできる朱鷺子が欲しいのだ。
「お父さんは、朱鷺子さんを本当に愛していらっしゃったのですねえ」
グレートヒェンが、哀れむような表情で僕を見た。
止めろ。
そんな目で、僕を見ないでくれ。
何だろう。僕は、何を激しているのだろう。なぜ、こんなに激しく聖ジェズアルドの一言一言に反発しなければならないのだろう。
「聖ジェズアルド、あなたは、神を見たことがあるのですか。神の顔を」
「おお、私は、神の本当のお顔は拝見したことがありません。生ける光を見ることがあるだけです。神のお顔を拝見したときが、私の至福の時となるでしょう」
「至福の時というのは、解脱するということですか」
「そうですね。仏教徒や、ヒンドゥー教徒の方たちはそのように表現するようです。でも、私たちセム族一神教徒は、そのような言い方をしません」
「バイラヴァ老師は、神との合一を究極目標としてるとおっしゃっていましたが」
「そうですね。キリスト教や、イスラム教などのセム族一神教では、神との合一は不敬な表現として忌まれています。創造主たる神と、我々被造物の間には、無限の懸隔がありますから」
「でも、あなたは、奇跡を起こせる本物の聖者だ」
「奇跡というと、オールトの雲まで一瞬に跳んだり、原子レベルまで小さくなったりすることですか」
聖ジェズアルドは、にこにこと笑いながら言った。
「そんなものは、奇跡でも何でもありません。ただ神のお力をほんの少しお借りしただけです」
あれが奇跡でないというのなら、何が本物の奇跡だというのだろう。
「本当の神の御業は、宇宙の創造という奇跡と、人間の心の癒しという奇跡となって現れます」
心の癒し。
ああ、僕は、今どんなに切実にそれを必要としているだろう。この会話で、僕は、普段のクールなリョウのペルソナ、仮面が剥がれ落ちていくのを感じた。僕は、未だに朱鷺子の死に対して慟哭しているのだ。
「神が、本当に心を癒すことができるのだとしたら、この世から不幸は無くなっているでしょう」
僕は、冷酷に言葉を継いだ。
「でも、この世から不幸は無くなっていません」
切り裂くような冷たさを帯びた声で、僕は言った。
「これは、神の〝無能〟を意味するのではありませんか」
「お、お父さん、神を無能というのは、あまりにも……」
メフィストが、慌てたように割って入った。しかし、それ以上言葉を出せないでいる。メフィストは、グレートヒェンの顔を見、うろたえたような表情になった。
グレートヒェンは、寂しそうな顔をしていた。その表情は、僕の心を千々に乱れさせた。
「そうです。神は無能です」
聖ジェズアルドが、あっさりと肯定したので、僕は、うろたえた。
「一部のキリスト教徒は、この世の罪悪や不幸を悪魔のせいにします。しかし、それはおかしなことです。悪魔も、単に神の被造物の一員に過ぎません。神の意志を無視して、この世に不幸を作り出すことなど、できはしないのです」
「では、やはりキリスト教の神も、ヒンドゥー教の神のようにリーラ(遊戯)を行うのですか。それとも、イスラム教徒のように、全てを、インシャッラー、アッラーの思し召すままに、と諦めるのですか」
「お、お父さん、お父さん。どうして、そんなにキリスト教の神に対してだけ厳しいのですか。ヒンドゥー教のバイラヴァ老師に対しては、そんなこと言わなかったじゃありませんか」
「そう、朱鷺子が亡くなったときにね、アンデス周辺の様々なキリスト教会が、僕に改宗を勧めてきたのさ。懺悔なさい。そうすれば、あなたは救われます、ってね。懺悔って何さ。何を、僕が懺悔する必要がある。イブが、君の祖先にそそのかされて知恵の木の実を食べたからと言って、どうして僕が朱鷺子を失う必要があるんだい。僕は、そういう妬む神、理不尽な要求をする神を認めない」
「おお、懺悔など必要ありません。そのままで、あなたは救われています」
「それからだよ。僕が宗教に興味を持って調べ始めたのは。そして、南米でのキリスト教徒が、いかに残酷にインディオを虐待し、虐殺したかを知って、まずキリスト教が嫌いになった。それまで、理科系で宗教なんてまるで興味がなかった分、かえって僕は宗教研究に入れ込んだ。今では、いっぱしの理論家さ」
僕は、欧米人みたいに、両肩をすくめて見せた。
「その中で、自分の魂を救済してくれるのは、やはり仏教だと信じるようになったんだ。そして、その救済から最も遠いのがキリスト教だと僕は思っている。だから、僕は、キリスト教には意地悪なんだ」
「おやおや、なんとも、困りましたねえ」
メフィストが、本当に当惑顔でグレートヒェンの方を見た。グレートヒェンは、未だに青ざめた顔をして前方をひたと見詰めている。
「神は、赤子です」
え。
聖ジェズアルドの、唐突な発言に、僕はキョトンとした。
「神は、絶対に善なるものです。絶対に、善き嬰児なのです。絶対に善であることと、全知全能であることは矛盾します」
そうだ。そうなのだ。この世の悪、不幸でさえ、神の御業として肯定するヒンドゥー教やイスラム教ならいざ知らず、悪や不幸は神の仕業ではない、とするキリスト教にとって、神が全知全能であっては困るはずだ。
全知全能なら、この世からさっさと悪や不幸を取り除いてしまえばいい。天国に行ってから、なんてけちくさいことは言わずに、いますぐ全ての不幸を除去してしまえばいい。それができないのなら、全知でもなく、全能でもない証拠だろう。
「神は、永遠に善なるものです。ですから、必然的に、無力な嬰児でしかないのです。その力は、悪魔にさえ、いや、虫けらにさえ劣ります。ですから、この世から悪や不幸が無くなることはないのです」
なんだ。今度は、悪や不幸を悪魔に押しつける気か。なんて無責任なやつだ。僕は、ちょっと怒った。
「今、あなたは神の力が、悪魔にも劣るとおっしゃいました」
「いえいえ、人の子イエスは、人間にも劣る力しか持ちません」
「だって、おかしいじゃありませんか。バイラヴァ老師が、オールトの雲まで行き、太陽の中心まで突入したとき、メフィストは自分たち悪魔にはとてもこんなことはできないと言いました。大魔王サタン=ルシフェルでさえ、魔力は、メフィストのそれの十倍ぐらいもないのだそうです。さっき、あなた、聖ジェズアルドが原子レベルまで縮んで見せたときも同様です。メフィスト。君は、あんなレベルまで自分を小さくすることができるかい?」
「い、いや、不可能ですよ。単細胞生物レベルまでなら、頑張れば小さくなれます。でも、それが限界です。ルシフェルだって、似たようなものだと思います」
「くく」
聖ジェズアルドが、可笑しそうに笑った。
「でも、メフィスト。君は、本気でルシフェルと魔力比べをしたことはないでしょう」
「ええ、まあ。それはそうですが」
「ルシフェルの魔力は、君の想像以上のものかも知れないよ」
「え!」
メフィストが、心底驚いた、という顔をした。その顔が、一瞬にして青ざめた。
「はっは、そんなに驚くことはないよ。大丈夫。ルシフェルが、いくら強大な魔力を持っていても、神の前では、塵芥も同然。私たちと比べても、そんなに強大ではないよ」
「そんなに強大では無いと言うと、バイラヴァ老師みたいに、太陽の中心まで入っていくことは……」
「ああ、それはできないね」
聖ジェズアルドは、簡単に請け負った。
「ルシフェルが強力だというのは、私の法力と比べて、という意味でね。バイラヴァ老師の法力は強大だ。バイラヴァ老師の前では、ルシフェルも、借りてきた猫みたいに大人しくなるよ」
「神は、やはり無力でか弱い、しかし絶対的に善き者である赤ん坊なのですね」
不意に、グレートヒェンが言った。その目には、さっき僕がキリスト教を糾弾したときに見せた寂しそうな表情はなかった。何かを決意した、強い目だった。
「愛の人よ、あなたはもう帰るべきです。そうして、あなたは、神の愛の奇跡をごらんになるでしょう。私たちの法力などとは違う、本物の奇跡を」
そう言って、聖ジェズアルドは目を瞑った。
「お父さん、行きましょう。私もご一緒しますわ」
グレートヒェンが、いきなり言った。嬉しさに、心臓がどくんと跳ね上がったが、なんだか後ろめたい気持ちも芽生えた。とにかく、僕とメフィストとグレートヒェンの三人は、聖ジェズアルドの元を辞した。