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メフィスト・フェレスの狼狽  作者: ヒデヨシ
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第十六話


 珈琲が入って、グレートヒェンは勝手知ったる、という感じで戸棚からカップを取り出し、僕らの目の前に置いた。本当に今碾いたばかりなのだろう。いい香りが鼻をくすぐった。

 グレートヒェンが、メフィストの隣に座った。僕の、左斜め前にグレートヒェンの華やかで、それでいてどこか哀愁を帯びた顔がある。

 どきどきする。

「それで、わたしにご用というのは」

 グレートヒェンが、快活に、誰に言うともなく訊いた。

「ミス・マルガレーテ。二日前の午前三時頃、ご自分がどこにいたか覚えていますか」

 聖ジェズアルドが、グレートヒェンに正式に呼びかけた。グレートヒェンというのは、マルガレーテの愛称なのだ。

〝ミス〟

 僕の心は躍った。一瞬、証言の内容を聞きそびれそうになった。情けない。朱鷺子に、心でごめんと謝った。

「二日前の午前三時頃……? ええと、いきなり言われても、推理小説の登場人物じゃありませんし……」

 こう言いながら、小首を傾げる。そんな仕草が、可愛らしい。

「ええと……、ああ、思い出しました。わたしは、二日前の夜、午前二時半少し前に、花の蜜を集めようとしてこちらに参りました。そうしたら、ジェズアルド様が、月に説法をしていらっしたのだ、お邪魔にならないように離れて蜜を集めました。それから、ジェズアルド様が、説法を少しお休みになったので、ジェズアルド様とお話ししました。それが、午前三時少し前です。それから、また説法にお戻りになられたので、また蜜を集めました。帰ったのが、午前四時少し前だったと思います」

 おやおや、これはすこぶる重要な証言だ。そうすると、聖ジェズアルドは、午前二時半前から、午前四時前まで、一時間以上はしっかりとしたアリバイがあることになる。

 もっとも、アリバイに関して言えば、ラームチャンドラ老師の呪縛が効いているので、聖ジェズアルドといえども、嘘はつけないはずだ。だから、この調査は本質的には無意味なのだが。

 でも、やっぱり、花や、ミジンコではなく、人間の証言というのは大事だ。それに、僕は少し意固地になっている。

 ふと思った。

 グレートヒェンは、本当に人間なのだろうか?

 天上の喫茶店に現れ、悪魔と話をし、聖ジェズアルドの結界にも自由に出入りできるらしい。

 グレートヒェンの正体は、なんなのだろう?

 しかし、今、それをあからさまに訊くのは怖い気がした。

 僕は、思考をそらした。

「蜜を集めた? 蜜蜂もいないのにですか」

「あら、わたしも、蜜蜂ぐらいの大きさになれましてよ」

 来た。

 驚くほどのことではない。

 そう、驚くほどのことではないんだ。

 でも、やっぱり、彼女、グレートヒェンが普通の人間ではないと知って、自分の理性を保てなくなりそうだった。それだけに、逆に僕は、平静を装うことに努めた。

「でも、あなた一人では、そんなにたくさんの蜜は集められないでしょう?」

 僕が訊くと、グレートヒェンは、当たり前のように言った。

「はい、妖精たちに、手伝ってもらいます。ここの花畑で蜜を集めるときは、いつもそうするんです。ここの花畑の蜜は、とてもおいしいんですよ。あら、ここに出ていますわね。どうぞ、召し上がれ」

 こう言って、グレートヒェンは、バスケットから一切れのパンを取り出すと、それに蜂蜜を塗って、僕にアーンした。食べさせてもらった蜜は、本当に美味しかった。でも、悔しいので、僕は平気なふりをした。

 聖ジェズアルドが集めた蜜なんか、美味しいものか。グレートヒェンが、手ずから食べさせてくれたから美味しいのだ。

「それにしても」

 僕は言った。

「あなたといい、聖ジェズアルドといい、よくそんなに簡単に小さくなれますね」

「あら」

 グレートヒェンが、目を大きく開けて、可笑しそうに笑った。

「わたしは、せいぜい妖精ぐらいになるのが精一杯です。ジェズアルド様は、本当に小さくなれますし、他人をも小さくさせられましてよ」

「ええ、さっき、ミジンコと同レベルまで小さくさせられました」

「あら、ジェズアルド様の力は、そんなものじゃありませんわよ」

 目の前の聖ジェズアルドに、グレートヒェンはねだるように言った。

「ジェズアルド様、小さくしてくださいませ」

「おやおや、そんな法力を見せつけるようなことは、したくないんだがねえ。他ならぬ、グレートヒェンの頼みとあれば、仕方がないねえ」

 縮んだ。

 何の前触れもなく、僕たちはさっきより急速に縮んでいった。怖くなるようなスピードで、僕らと椅子とテーブルが縮んでいく。細胞なんてレベルはとっくに超えて、電子顕微鏡で覗くレベルの小ささまで縮んでいく。そして、その速度は止まらない。

 見ると、目の前のメフィストが、蒼い顔をして震えている。

 なぜか、メフィストもグレートヒェンも、そうして聖ジェズアルドも、みんな一所に集まって縮んでいるのだ。

 縮むのが終わった。

 見ると、目の前にたくさんの雲のようなものが浮かんでいた。

「どうやら、あの雲のように見えるのが、分子というわけらしいです。今、私たちの目の前にあるのは、炭素の分子らしいですね」

 メフィストが、震える声で言った。

 なるほど、サッカーボール型をした雲が浮いている。いわゆる、フラーレンというやつだろう。

「しかし、どうして僕らにはあの分子が見えるんだろう」

 僕は、疑問を口に出した。

 あの分子に、僕らに見えるほど大量の光子が当たれば、あの分子の位置は大きく乱されるはずだ。僕たちの視界の中で、安定しているはずがない。

「光子も、私たちのレベルまで小さくされているのです」

 聖ジェズアルドが、こともなげに答えた。

「でも、そこまで波長が短くなれば、エネルギーが大きくなる。あんな炭素分子なんか、吹っ飛ばされてしまうんじゃないか」

 僕が言うと、グレートヒェンがころころと笑った。

「大丈夫ですよ、お父さん。ご心配なさらなくても。ジェズアルド様のお力で、光子は小さくなりながらエネルギーも増えないようになっているのです」

「で、でも、それは物理法則に反する」

 言いかけて、僕は思い出した。あのバイラヴァ老師の法力を。バイラヴァ老師は、全ての物質は光の速さより速くは移動できない、という宇宙に普遍的な法則を無視して、一瞬の間にオールトの雲まで跳んだではないか。なら、聖ジェズアルドも、同じように物理法則を無視できて当然だ。

 僕が思いついたことを口にすると、聖ジェズアルドが笑った。

「バイラヴァ老師は、私なぞより遙かに強力な法力をお持ちです。自分個人の力、という点に関しては、全てを神にゆだねてしまう私たちキリスト教徒よりも、個人の修行を尊ぶヨーガ行者の方が強くなりやすいのです」

 ふむ。聖者というやつは。どいつもこいつも、みんな妙に素直すぎる。

「太陽の中心に突っ込んでいく、などということは、私には到底できません。せいぜい、原子レベルまで小さくなることができるくらいです」

 おや、どうやら、僕たちがバイラヴァ老師の力で、太陽の中心まで連れて行かれたことを知っているらしい。なかなか侮れない。

「でも、バイラヴァ老師は、こんなに小さくなることができるかしら」

 グレートヒェンが、ちょっと膨れた顔をして言った。キリスト教徒としての、意地があるらしい。

「はっは。彼は、普遍的なコスモスに興味があるのです。格別、ミクロコスモスに興味を示しません。だから、やったことがないだけで、彼も、いくらでも小さくなることができますよ。多分、彼は、私以上、素粒子のレベルまで小さくなれるでしょう。でも、ご覧なさい、徳大寺さん。こんな分子の構造にまで、神の御業は及び、美しい調和をなしているのです。私たちは、みなその調和の中に組み込まれています。この、神の御業の素となるのが、神の愛なのです。さて、私にできるのは、こんなぐらいのことです。とても、バイラヴァ老師の天体ショーには、及びもつきません」

 聖ジェズアルドがこう言うと、僕たちはまた大きくなり、あっという間に普通のサイズに戻って元の椅子に腰掛けていた。違うのは、テーブルの上に、土器の花瓶が置いてあり、それに真紅の薔薇の花が生けてあることだけだった。


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