第十三話
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は、花か!
月に説法をして、今度は、アリバイの証人が花だというのか?
「なあお前たち。私は、二日前の午前二時から午前四時の間、ここで月に説法をしていたね」
花たちが、さわさわと揺れた。それは、聖ジェズアルドの言葉を肯定しているように見えた。
馬鹿馬鹿しい。このクラスの聖者ともなれば、テレキネシスで花を思い通りに動かすことなど朝飯前だろう。
僕は、はっきりとその疑問を口にした。
メフィストが答えた。
「いいえ、お父さん。そのぐらい強力なテレキネシスが発動したなら、私にも分かります。今は、そんなテレキネシスは発動していませんでした」
「しかしねえ、メフィスト。君たち悪魔の能力と、このクラスの聖者の能力とでは、段違いの差があるんだろう。君に分からない方法で、花たちを動かしたということを、どうやって否定できるんだい」
「ええ、まあ、そうではありますが」
メフィストが、その菫色の瞳に、明らかな困惑の表情を浮かべて言った。冷静でならした僕が、ここまで激しているのがなぜなのか、メフィストにも分からないらしい。
「そうですねえ」
相も変わらず、にこにこしながら、聖ジェズアルドが言った。
「花の証言ではお気に召さないなら、動物に証言してもらいましょう。動物なら、メフィストも話ができるはずです」
「はい、まあ、たいていの動物なら」
「では、そうしましょう」
そうは言っても、証言できる動物など、周囲を見回してみてもいない。辺り一面花畑で、猫の子、犬の子一匹いないのだ。それこそ、アッシジの聖フランチェスコゆかりの小鳥さえ見当たらない。
どうするつもりだろう? と訝しんだ。
「では」
そう言って、聖ジェズアルドがウィンクをした。
縮んだ。
ぐんぐん、ぐんぐん縮んでいく。たちまち、足下に咲いていたアネモネが、頭の高さになった。それでも、縮む速度は変わらない。あっという間に、アネモネの群落が、巨大な熱帯雨林のようになってしまった。真紅の薔薇などは、既に樹齢数千年のメタセコイアみたいになっている。
頭上遙かに、赤や黄色、紫のアネモネ、そして真紅の薔薇の花が揺れている。
しかし、おかしい。
このサイズになったら、いやでも目につくはずの昆虫の類が、一切目に入ってこないのだ。
取りあえず、バイラヴァ老師は、宇宙という巨大なステージでその神通力を見せつけたが、聖ジェズアルドは、ミクロコスモスのステージでその力を見せつけようというわけらしい。
しかし、この程度では、バイラヴァ老師の足元にも及ばないぞ。そう思った。
「では、跳びましょうか」
こう言って、聖ジェズアルドは僕の腰の辺りを掴んでジャンプした。軽々と、僕らは頭上遙かにあった真紅の薔薇の花まで跳んだ。もちろん、メフィストは、自分で跳んできた。
黄色い雄蘂が、それだけでちょっとした林のようになっている。そっちの方に進んだ。その間も、僕たちは縮んでいた。今では、植物の細胞並の大きさになってしまった。
「ご覧下さい。この精緻さ。精妙さ。この美しい調和。こうした細部にこそ、神は宿られています」
辺りは、薔薇の色素を通した、真紅の光に満ちていた。そして、花の細胞が、ひしめき合い、折り重なっているのが見える。その細胞の中では、細胞液が生き生きと流動している。確かに、それは神の調和、を見せつける光景だった。
「でも」
僕は言い募った。
「このミクロコスモスの有り様は、別にキリスト教の神の御業とは限らないでしょう。もしかすると、これはヒンドゥー教の維持する神、ヴィシュヌの御業かも知れません」
「そうですね」
聖ジェズアルドは、福々しい顔に笑みを浮かべながら、すぐに僕の言葉を肯った。
「ヴィシュヌと言うも、キリストと言うも、もしかすると同じ神を讃えているのかも知れませんね」
おやおや、異端すれすれ、と言うより、異端そのものみたいなことを言う。その言い方は、奇妙にバイラヴァ老師を連想させた。
「とにかく、私は徳大寺さんに、この宇宙がこうした調和に満ちていることを分かって欲しいのです。その、大いなる調和の中に、あなたも朱鷺子さんも組み込まれているのです」
また、カチンと来た。
「では」
聖ジェズアルドは、もう一度ウィンクをした。
と、また縮んだ。
縮み方が、さっきより加速しているような雰囲気だ。
顕微鏡の倍率が、どんどん上がっていく感じ。しかも、その顕微鏡の視野が、自分という存在一杯に広がっている感じ。
バイラヴァ老師の超絶的な法力には及ばないものの、聖ジェズアルドも相当な法力を持つようだ。
「メフィスト。悪魔も、こんな風に縮むことができるのかい」
「いや、昆虫ぐらいの大きさにはなれますが。何しろ、同僚のベルゼブブは、蠅の王、と言われているぐらいですからね。蠅ぐらいまでは、簡単に縮めます。しかし、それ以上となると……」
メフィストが言葉を濁した。まあ、メフィストも、あのバイラヴァ老師の法力を見せつけられたときのような、畏怖の念は抱いていないように見える。
ついに、僕らは、植物の細胞よりも小さいレベルまで縮んでしまった。花の底に溜まっていた露の中に浮かんでいるミジンコが、象ぐらいの大きさに見える。つまり、僕らは、プランクトンのレベルの大きさになってしまったわけだ。辺りに、シロナガスクジラがいなくて良かった。
「私の結界には、動物はほとんどいません。私が、ことのほか静謐を好むので、音を出す生物は、入れないようにしているのです。もちろん、虫媒花の受粉の季節は別ですがね」
聖ジェズアルドが、またウィンクをした。でも、今度は縮んだりしなかった。