第十一話
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「それほどの修行を積んでいるラームチャンドラ老師が、どうして自分の死を予知できなかったのか、が問題ですね」
僕が言うと、メフィストは情けなさそうに答えた。
「私にも、分かりません。正直、悪魔には未来を予知する力は全くないんですよ。だから、未来予知については、よく分からないと申し上げるしかありません」
ほう、それは意外だ。しかし、良く考えたらそうかも知れない。民話なんかでも、悪魔は良くだまされる。メフィスト・フェレス自身、ファウストの魂を巡る賭けで神にしてやられている。未来を予知できたとしたら、あんなどじは踏まないはずだ。
「ですから、ラームチャンドラ・バクティ老師の予知能力についても、半信半疑だったのです。でも、あのバイラヴァ老師の力を見せ付けられては、疑う余地はありませんね」
僕も、力なく頷く。しかし、すると一体どうなるのだろう。
正直に告白してしまうが、僕は、ラームチャンドラ・バクティ老師の予知能力に穴があるのだと思っていた。そこに、この不可能犯罪を可能にする抜け道があると思っていたのだ。だから、まあ、不可能犯罪については、あまり本気に考えていなかったと言ってもいい。
しかし、この様子では、それは考え直さなければならないだろう。
ラームチャンドラ老師の未来予知に穴はなかった。それを前提にしたほうが、真相に近づける気がする。
ふと思い付いた。
「悪魔に未来予知は無理でも、過去は覗けるんじゃありませんか」
「ええ、一応、過去は起こってしまって、決定していますからね。遠方を覗く千里眼や、物体の透視と原理が同じになります」
「では、ラームチャンドラ老師が殺された場面を透視できませんか」
「それは無理です」
メフィストが、考え深げに菫色の瞳を伏せた。
「ラームチャンドラ老師の殺害現場は、老師の結界で護られていました」
ああ、と僕も頷いた、そういうことか。
「そういうことです」
また心を読んだのだろう。メフィストも頷いた。
「老師の結界で護られた時空は、私ごときの魔力ではとても覗くことなんぞできはしませんよ」
さてはて、結局議論は振り出しに戻ってしまった。
「しかし……」
また疑問が湧く。
「しかし、未来を予知する、というのは、実際はどういうことなのでしょう?」
紅茶を飲んで口を湿し、足を組みなおす。
「まあ、例えば下世話な例ですが、もし僕が未来予知ができるとして、競馬の予測ができたとします。そうすれば、僕は当たり馬券を買おうとするでしょう」
メフィストは、菫色の瞳を煌めかせながら、僕の顔をじっと見る。
「しかし、もし本当に僕の予知が当たっているのだとしたら、僕が本来、未来予知をしていなかったときに買うべき馬券も、予知できるはずです。未来が確定しているなら、僕はその外れ馬券以外を買うことができないはずです。それ以外の馬券を買おうとして、買うことができたとしたら、僕の予知は外れたことになります」
メフィストが頷く。
「もし僕が外れ馬券を買うところを予知していたとしたら、僕は外れ馬券を買う以外の行動を取れないのではないでしょうか。そうすると、僕の未来予知が完全なら、僕は予知できた以外の行動はできないことになるのではないですか」
まあ、確かに以前メフィストは釈迦の例を出して説明してくれた。しかし、やはり疑問は残る。
「要するに、決定された未来があるからこそ、その未来の予知が可能なのでしょう。そのように未来が決定されているのだとしたら、予知できてもその未来は改変できないことになります。それならば、未来予知などできても、本質的には何の意味もないことになりませんか」
「まあ、確かに、未来というものが決定されているのなら、お父さんの言うようなことになりますね。しかし……」
口籠もるところを見ると、やはりこの問題には自信を持った発言はできないのだろう。
「こういうことは考えられないかな」
思わず、講義口調になる。僕は、アルバイトで大学の講師もしているのだ。
「未来予知ができると言っても、未来の全ての時点を予知しているとは思えない。過去、現在、未来、全ての時点を知っていたら、ほとんど全知の神と等しくなってしまいますよね。だから、こんな風に考えられないかな。ラームチャンドラ老師は、自分が殺される時点は予知しなかったのではないかな」
デッド・ゾーンというホラー小説がある。その主人公も未来予知ができるのだが、予知する時点を、自分では選択できない。その予知は、勝手に主人公に降ってくるのだ。自分では、その能力をコントロールできない、という設定になっている。
しかし、メフィストは首を横に振った。
「ラームチャンドラ老師に関しては、それは当てはまりません。確かに、私が聞いたところによると、あの人たちも宇宙の全ての時点を知るなどということはできないようです。しかし、自分にとって重要な時点は、選択的に予知できるようです。自分の死というのは、人生で最も重要な瞬間でしょう。その時点を予知できないとは、考えられません」
うーむ。これは困った。ラームチャンドラ老師が、自分の死を予知できなかったことを合理的に説明できない。
「そうか、これはどうですか。ハイゼンベルグの不確定性原理は、ご存知ですよね」
「ええ、まあ。古典的な悪魔といえども、その名前ぐらいは」
「では、現象が、その観測者によって左右されるというのもご存知ですよね」
「はい」
メフィストは、話がどこに行くのか、だいたい見当がついたようだ。
「ラームチャンドラ老師が、自分の死の時点を予測したとします。今有力な、多世界解釈では、観測者が、粒子を観測したときに、その粒子の未来がいくつかに分岐すると考えます。同様に、ラームチャンドラ老師の未来も、いくつかに分岐するんです。で、ラームチャンドラ老師は、自分が殺されない未来に逃げると」
「でも、ラームチャンドラ老師は、現実に殺されていますよ」
メフィストの一言が、僕の屁理屈を粉砕した。まあ、僕自身、こんなのは屁理屈だと思っていたから、自尊心は傷つかなかった。
多分。
「やっぱり」
「そうですね」
メフィストが、その蠱惑的な菫色の瞳を光らせながら頷いた。
「ラームチャンドラ老師は、自分が殺される未来を予測できた。そして、予測したまま、その運命に従って殺された。その予知した未来を、変える力を持っていたのにも拘わらず」
と、僕は言わざるを得なかった。
「そう考えるしかないようですね」
渋々、という感じでメフィストも認める。
「不思議な話ですよねえ。どれだけできた修行者でも、自分が殺されるのをおめおめと甘受するとは思えないなあ」
やっぱり僕には納得できない。
さっきメフィストは、輪廻の可能性について言っていたが、たとえ輪廻できるにしても、苦痛な死は避けるはずだろうし……。
「そうなんです。話は結局そこに行き着くんです。だから、ラームチャンドラ老師以上の力を持った存在が老師を殺したのではないか、という疑問が出てくるんです。でも、お父さんも納得がいかれたでしょう。悪魔には、そんな力はないと」
そう、悪魔には、そんな力はない。バイラヴァ老師の法力の超絶ぶりを見た後なら、確言できる。悪魔にあんな力があったら、人類なんぞ何度滅ぼされているか知れたものじゃない。
「結局、聖者たちのアリバイを地道に探るしかないようですね」
メフィストが、囁くような声でため息をついた。
僕も頷いた。この際、アリバイ崩しは嫌いだ、なんて我が儘は言っていられないようだ。僕たちは、天上の喫茶店の椅子から、渋々立ち上がった。