第一話 第一章 まずは取り敢えず事件の発端
第一章 まずは取り敢えず事件の発端
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土星が大きく、くっきりと見えた。その輪も鮮やかな輪郭をしていて、目を楽しませてくれる。土星の輪を二分するカッシーニ間隙までもが綺麗に観測できる。ホッと小さく溜め息をつく。吐いた息が白かった。
少し寒い。思わずダッフルコートの衿を合わせる。接眼レンズから、ちょっと目を離す。アンデスは初夏だが、この天文台は高地にあるので、夏でも気温は低い。
おまけに、天文台の中は、暖房をしていない。天文台の内と外とで温度差があると空気が揺らぎ、観測の精度に狂いがでるからだ。
それで、僕は厚手のセーターに、ダッフルコートを着込み、首にはマフラーを巻いて、ご丁寧に頭にも毛糸で編んだ帽子を被っている。重装備なのだ。
マフラーも、帽子も、妻の朱鷺子が編んでくれたものだ。思い出して、少し切なくなる。
眼鏡をちょっと押し上げて、もう一度反射望遠鏡の接眼レンズに目をつけた。
そこに腕時計のアラームが鳴った。非情な音だった。
僕は、さっきとは違う深い溜め息をつきながら、望遠鏡から目を離した。少し未練が残る。しかし、天文学者たるもの、好きな星に見とれてばかりもいられない。
元々、天文台の大型望遠鏡の観測スケジュールは、ぎっしりと組まれている。世界中の観測プロジェクトに、秒単位で割り当てられているのだ。
それなのに、何か調整に手違いがあったらしく、三分間ほど望遠鏡が空いてしまった。それで、ちょっと職権を乱用して個人的な趣味に走っていたのだが。
すぐにコンピューターが、プログラムどおりに望遠鏡を動かし始めるはずだ。諦めて台座から降り、観測室の扉を開け、制御室に入った。
ふと違和感があった。
静かなのだ。
もちろん、天文台などというものは、夜こそ仕事の本番だ。今夜も、夜勤の観測スタッフが大勢いるはずだ。それなのに、会話も、ちょっとした雑音も聞こえてこない。本来なら、賑やか、というよりむしろ騒々しいぐらいのはずなのに。
見回すと、人影がなかった。首をひねって、さらにスタッフの姿を求めて良く見た。ひょいとその若い男に気がついた。
見知らぬ青年だった。
少し奇妙な気がした。ここは、アンデスの奥地の天文台なのだ。一番近い職員宿舎でも、車で一時間はかかる。普通の人が、こんな夜にここを訪ねてくるはずもない。
男は、土星並に綺麗な顔立ちをしていた。どことなく不思議な、菫色の瞳。すっきりと通った鼻筋。なぜかメタリックな光沢をもった、ブルーの髪。少し薄い唇を、皮肉そうに歪めている。チャコールグレーの仕立ての良さそうなスーツに、薄いグレーのシャツ。臙脂のネクタイが、なかなかクールで洒落ている。透き通るように白い肌をしているが、僕同様日本人らしかった。目は、きっとカラーコンタクトだろう。
制御コンピューターの前のストゥールに腰掛け、長い足を格好良く組んでいる。
僕の問い掛けるような視線に気がついたのだろう、軽く頭を下げた。
「こんにちは、メフィスト・フェレスと申します」
若い男が、ボソッと言った。やはり、吐く息が白いので、どうやら夢ではないらしい。
ちょっと面食らう。
「メフィスト・フェレス……さんですか。失礼ですが、メフィストというと、あの悪魔のメフィストさんですか?」
僕が訊くと、男は、当然のように軽くうなずき、呟くように言った。
「ええ、悪魔……です」
さすがに驚いた。
近代的な悪魔と言うと、カラマーゾフに出てくるような、シルクハットに燕尾服、といった出で立ちかと思っていた。目の前の青年は、髪と目の色こそ奇異だが、見慣れた日本人の若者に見える。
「あの、紅茶でも飲みますか?」
でも、まあ悪魔と言われてもお客様はお客様である。おもてなしはしなければいけないだろう。
青年が、また軽くうなずき、ふっと微かに笑った。女性なら、みんな虜になりそうな、魅力的な笑みだった。男の僕でさえ、思わず頬を赤らめたほどだ。
僕は、少しドギマギしながら、制御室の中に、足を踏み入れた。とは言っても、制御室でおもてなしではなんなので、自分のコンパートメントに青年、悪魔? を案内することにした。
奇妙なことに、天文台は本当に無人だった。ふと見てみると、時計の秒針も止まっているようだった。
コンパートメントには、黄色く塗られた、旧式の石油ストーブが置いてある。火は点けっぱなしなので、部屋はむしろ暑いくらいだ。毛糸の帽子を脱ぎ、マフラーを外し、ダッフルコートもセーターも脱いでカッターシャツ一枚になる。いささか不器用なので、まごまごしてしまう。少し恥ずかしかった。
ストーブに真っ赤なポットをかけてお湯を沸かす。
まったく、ペルーの日用品は、なんでみんな、こんなに頭が痛くなるような原色ばっかりなのだろう。
それにしても、時計は止まっているようなのに、ちゃんとお湯が沸くのが可笑しい。つい、微笑んでしまう。
お湯が沸くのを待つ間、二人とも無言だった。心地良い、静謐な時間が過ぎていった。不思議だった。悪魔と、こんな気分のいい時を共に過ごせるとは思わなかった。
優しい夜の時間。ポットで沸きかけたお湯が、チリチリと鈴のような音を出す。その微かな音が、静かな空間に響いている。
お湯が沸いた。立ち上がって、紅茶を淹れる。
「ティーバッグですけど」
赤いホーローのカップに、ティーバッグを入れたまま、青年に手渡した。シックな装いの青年に、赤いホーローのカップが似合わず、僕はまた頬を赤らめた。メフィストと名乗る青年は、ティーバッグをちょっと振って、取り出した。ティーバッグを置くための小皿を目の前に差し出す。
「ご免なさい。ミルクは冷たいのしかないんですよ」
「ああ、構いませんよ。私は冷たい牛乳を入れるくちですから」
僕は、個人用の冷蔵庫から牛乳のパックを出し、青年に渡した。青年の後に、僕も牛乳をカップに入れる。
二人で、フーフーカップを吹きながら、一口、二口紅茶を飲んだ。
青年が、またボソッと言った。
「いきなり、悪魔だと名乗られても、本気にはできないでしょうね」
またふっと、唇の一端を上げて笑う。
「ええ、そうですね。ちょっと、すぐに信じることは……、ね」
僕は、口篭もった。青年は、同情するように頷くと、もう一度唇の端を上げて笑った。思わず、僕も頷いた。
「では」
青年は、右手の指をパチンと鳴らした。
漆黒の宇宙空間にいた。
頭上も、足下も、億万の星に囲まれている。目の前には、さっきまで望遠鏡で覗いていた土星があった。幾重もの縞模様もはっきり見える。さっき見ていた土星の輪も、たくさんの隕石と氷の塊という本来の姿になって、土星の周りを廻っている。多分幻想なのだろうが、土星の巨大な姿には、人を威圧するような荘厳さがあった。いや、むしろ神聖と言ったほうがいいだろうか。正常な人間が、五分以上もこの壮大な姿を見ていたら、自分のあまりの卑小さに気が狂ってしまうだろう。
ちょっと息を飲んだ。
「素敵なイリュージョンですね」
催眠術にでもかけられたのだろうか。それにしても、マジックの類だとしたら、相当なものだ。二人とも、マグカップは持ったままだった。その熱さが、妙にリアルだった。
青年は、それが癖らしく、またふっと笑って俯いた。
「さすがに、冷静ですね。お父さん」
悪魔に、お父さんと言われると、なんだかこそばゆい。しかし、もうすぐ四歳になる娘の摩耶に、いつもお父さんと呼ばれているので、さほど違和感は感じない。ここは日本ではないが、パパなんぞとは呼ばれたくない。
「やはり、世界指折りの天体物理学者は違いますね」
世界指折り、などと言われると照れてしまう。僕は、俯いて頭を掻いた。天文台に勤めているが、確かに僕の専門は天体物理なのだ。でも、自分の理論の検証に使うデータを集めるのに、天文台にいるのはなかなか便利なものなのだ。
「あなたの、そのものに動じない冷静さを見込んで、お願いがあるんですよ」
「お願い……、ですか? しかし、僕は一介の天文学者ですよ。とても、悪魔のお手伝いなんかできないと思いますが」
青年は、斜め下を向いてふっと苦笑した。
「いえね、私たち悪魔なんぞと言うものは、いつでも、なんでも魔力で解決することに慣れきっていましてね。今回のように冷静な判断力を要する事件には、とんと無力なんですよ」
「はあ、事件ですか」
しかし、目の前に雄大な土星の姿を見ながら、人間臭い事件などという言葉を聞いても、いまひとつ実感が湧かなかった。僕は、ひたすら土星に見とれた。それはそうだろう。肉眼で土星を観察できるなど、天文学者にとっては魂の百や二百と取引してもいいぐらいの、またとない機会だ。あんまり見詰めると、さっき言ったみたいに気が狂ってしまうかも知れないが、それでもいい。
と、またメフィストが言った。
「それに、お父さんは宗教にも詳しい」
確かに、僕は訳があって、アンデスに来てからちょっとした宗教オタクになった。すると、何か宗教がらみの事件なのだろうか。それは、少し厄介な気もするが。
「まあ、ここで生臭い話もなんですから」
青年は、また指を鳴らした。途端に、僕たちは見慣れたコンパートメントの中にいた。旧式の石油ストーブの上で湯気を出しているポット。パソコンの周り以外は、雑然と散らかった机。全くの日常の世界だった。僕たちは、まだ熱いマグカップを握りしめたままだった。もちろん紅茶はまだ冷めてはいなくて、湯気を立てている。眩暈がした。
「ちょっと残念ですね。もっと土星を見ていたかった」
僕は、今日三度目の溜め息を、小さくついた。土星は、初めて天文台に見学に行った小学生のときから、一番お気に入りの惑星なのだ。
「あんなもので良かったら、いつでもお見せしますよ。今は駄目ですけどね。今度の事件で、私たちは頭を痛めているのですよ」
〝事件〟という言葉が、僕を刺激した。少し、目が輝いたかも知れない。不謹慎な話だ。面目ない。