lament
ソイツとは、結構仲が良かった。
中学からの付き合いで、地元の同じ公立高校に上がってからも、よくつるんで馬鹿をやった。
家は隣町で自転車を使っても10分はかかる距離なのに、気付けば休日でも一緒にいることが多かった。駅前のコンビニで雑誌を立ち読みしたり、意味も無く街をぶらぶら歩いたり、特別な事をする訳ではなかったけれど、独り家でぼんやりしているよりはソイツと遊んでいる時の方がずっと楽しかった。
互いに他の奴には言えない悩みも相談できたし、好きになった女の話もした。
実は同じ女に惚れていた事が分かった時には流石に反目したが、間もなく二人ともがあっさりふられて問題は無事解決した。落ち込んでもいいはずなのに何だか可笑しくて、その夜こっそり親の酒をちょろまかして開いた残念会では、溜まり場にしていた公園で騒ぎ、近くにいたカップルのひんしゅくを買った。 0時過ぎになった帰宅の代償は、玄関先に仁王立ちになっていた母親の鉄拳と一晩の締め出しだった。翌日学校で愚痴ったら、ソイツも俺とほとんど同じ目にあっていて、また笑った。
昨日も今日も、明日も明後日も。変わりのない日々が続いて、欠伸が出るほど退屈で単調な行動の繰り返しで。
大層な期待を押しつけるくせに、屑みたいな評価しか付けようとしない世の中に唾を吐いて。反発したいのにしきれず、中途半端な心を抱えたまま体だけを無理に引きずって歩いて。
それでもずっと、ソイツと馬鹿みたいに笑っている自分がいるのだろうと思っていた。ずっと、信じていた。
取り壊し直前で誰もいない団地の敷地内に立っているのは、俺独りだけだった。他に動きそうなものは無かった。猫も犬も、スズメもカラスもいなかった。日曜の昼だというのに不自然なくらい静かで、耳に聞こえるのは風音くらいだった。
俺の足元には一人の人間が横たわっていた。文字通りの大の字で仰向けに臥し、目はどんよりと立ち込めた曇り空を映していた。頭の下からは、どす黒く紅いものが滲み出ていた。髪の毛の隙間から白褐色でプリン状の何かも見えた。体中から生気が消え失せていた。すぐに人を呼んでも、助かりそうになかった。
やるべき事を見つけられなかった俺は、黙ってそれを見下ろした。見下ろし続けた。
今まで飽きるほど拝んだはずなのに、まるで別人のように感じるソイツの顔――そして壊れた身体を。
lament
携帯の着信音が鳴ったのは、今日本屋で買ってきた漫画を片手にベッドに寝転がった時だった。着信音は近頃お気に入りのバンドの曲。どうやら友人のうちの誰かかららしかった。
起き上がるのも何となく面倒だったから、寝転んだまま体を思いきり伸ばして、机の上に置いた携帯を取ろうとした。しかしなかなか上手くいかなかった。ベッドと机はそれぞれ向かい合った壁際に接して対称に置かれているから、当然と言えば当然だ。おいそれと届くはずがない。
大して広い部屋でも無いから、ちょっと立てばすぐに取れる事は分かっていたが、こうなると大人しく体を起こすのが妙に悔しくなるもので、俺はあくまでベッドから身を離さないようにしながら精一杯手を伸ばした。
そのうち2週目のサビに差しかかろうというところで、曲が突然終わった。「なんだよ」と呟きをもらしてようやく起き上がり、携帯を手にとって電話の相手を確認した。光を放つディスプレイに表れた着信履歴には、いつもつるんでいるソイツの名前があった。
「なんだ」
ついさっきと似たような感想を口にしながら、俺は携帯を手にしたままベッドに勢い良く転がった。パチンと音を立てながら閉じた折りたたみ式携帯を枕元に無造作に放って、脇に置いてあった漫画に手を伸ばした。仰向けになり目の前にやっと漫画を持ってきて、読み始めてから軽い違和感に気付いた。メールは頻繁にしても、ソイツがわざわざ電話をかけてくる事なんてほとんど無かったからだ。
何か急用でもあったのかなと思いながら本に視線を這わせていると、枕もとの携帯が再びやかましい音を奏で始めた。一瞬本気で驚いた自分に何となく恥ずかしさを感じながら手探りで携帯を探して、見つけた後は器用に片手で開き通話ボタンを押した。今度は間に合ったようで、耳を当てると同時に電話の向こうの音が聞こえた。
はじめ雑音が入っているのかと思ったが、よく聞くとそれは風の音だった。
「良かった、いたんだ」
ソイツの声は、普段と全く変わりなかった。少しとぼけたような、やる気の無さそうな声。
「悪ぃ。出ようと思ったんだけど、さっきは間に合わなくてさ。で、何の用だよ」
空白が訪れて、ここぞとばかりに風音がうねりをあげた。テンポ良く話をしないのは、いつも何かを考え込んでいるように見えるソイツの癖だった。
「今さ。実験、してるんだ」
「は?」
「実験だよ。考えても分からなかったから、実際にやってみようと思って」
「あ? 何言ってんの、お前。実験て何だよ」
風音で聞こえなかったのか、電話の相手は俺の疑問に応えなかった。その代わり、淡々と、自然に、微笑さえ交えているように聞こえる口調で、ソイツは唐突に言い放った。
「本当に怖い事って、何だと思う?」
あまりに話題が飛びすぎて、咄嗟には反応できなかった。電話の向こうから微かな笑い声が聞こえ、それから質問が繰り返された。
「ねえ、本当に怖い事って何かな?」
「怖い事……?」
「そう、怖い事」
まるで羽でも生えたような、軽やかな声だった。何となく楽しそうでもあった。
俺には、ソイツのした質問の意味が分からなかった。それでも『怖い事』について考えていると、風の音しかしなかった受話器から再び声が聞こえた。
「じゃあ、本当に痛い事って何だろう」
俺の答えを待ちきれなかった、という訳でも無いようだった。ただ思いついた事を次々と口に出しているだけという様子で、ソイツは質問を並べ立てた。
本当に苦しい事は? 本当に空しい事は?
悲しい事は? 辛い事は? 楽しい事は? 嬉しい事は? 気持ちの良い事は……?
ほとんど口を挟む隙を与えず、矢継ぎ早に幾つもの問いを浴びせかけてから、ソイツは最後に大きな息を吐いた。気重からくるため息ではなく、全てを言い尽くした後の満足感にみちた吐息だった。
「その答えを見つける事にしたんだ。気になってしょうがないから」
「どうやって?」
「だから実験して、さ」
笑い声とともに「さっきも言ったじゃないか」と返され、内心訳が分からず首をかしげた。
電話の相手は、本当に俺が聞きたい事が分からないほど馬鹿な奴じゃなかった。はぐらかされたという事はつまり、その質問に答える気は無いという事なのだろう。気が乗らない時に少し的外れな回答をよこすのはソイツが使う常套手段で、俺は普段からその手で煙に巻かれていた。
向こうの風は相変わらず激しいらしく、まるでトランシーバーで交信しているかのような錯覚さえ覚えた。雑音が耳鳴りになって残る中、それでも何故か相手の声ははっきり聞こえた。
「もしかしたら、君にも教えてあげられるかも知れないよ。さっき並べた謎の答えが気になるならおいでよ。近々取り壊される予定の団地。あそこで待ってるから。じゃあ」
「え、待ってるってお前、何でわざわざそんなトコに――」
言う事だけ言って一方的に切ろうとする電話に慌てて叫んだが、風音の代わりに聞こえてきたのは通話が終わった事を示す単調な信号音だけだった。
「何だってんだアイツ」
仕方なく耳を離して電話を切り、顔の前に持ってきた携帯に向かって悪態をついた。物に当たっても仕方ないが、釈然としない思いを口に出さずにいられなかった。
暫く睨んだままでいると、今月のカレンダーになっている待ちうけ画面から、眩しかった光がふっと消えた。
∵ ∵ ∵
白い塗装がところどころ剥がれ落ち、ひび割れの部分が赤茶色く染まっている元団地だったものは、生活感のまるで無い廃墟と成り果てていた。さび付いたトタンで覆われた自転車置き場の脇には、小さな三輪車が一台取り残されていた。誰かの忘れ物だろうか。それとも必要ないからと置き去りにされたのだろうか。淋しげにたたずむ力無いそれに強い風が吹き付けると、三輪車は乾いた音を立てながら、嫌そうに、それでも少しだけ動いた。
冷たい風が、足元に横たわったソイツのシャツと短く切りそろえた髪を小刻みにはためかせていた。顔のそばに落ちている何かの限定モデルだとかいう携帯電話は、画面に無数のひびが入り、待ち受けに何が表示されているかも分からなくなっていた。
現場に着いた時にはすでに飛び降りた後で、ソイツが何をしようとしているのかさえ分からなかった俺には、当然止める術などなかった。電話越しの態度は、言われて見れば確かにおかしかったかも知れない。もっと早く駆けつけていれば、違った結果になっていたかも知れない。しかし今となってはもう、遅かった。
どうしたら良いのか分からなくて、携帯を片手に握り締めたまま、ぼんやり立ちすくんでいた。大の字で仰向けになっているソイツの体は、良く見ると右手と左足が変な方向に曲がっていた。新しいギャグだと言って売り出せば、結構好い線までいきそうだ。しかし生きている人間には、体の柔らかさを売りにしている連中にだって、とても真似できそうに無い格好だった。
耳鳴りのような風音が、耳のすぐそばを通り過ぎた。
『本当に怖い事って、何だと思う?』
ふいに声が聞こえたような気がして、俺は足元の体を凝視した。
もしかしたら息を吹き返したのかも知れないという幻想は、虚ろなソイツの表情ですぐに掻き消えた。この世ではない何処かに焦点を合わせた瞳は、どう見ても俺を捉えているようには思えなかった。
『じゃあ、本当に痛い事って何だろう』
さっきとは違う風が、また別の言葉を連れてきた。
頭の中で何度か繰り返してみて、俺は唐突にソイツの言っていた事を理解した。
『実験、してるんだ』
実験。自分の命をかけた実験。
誰も知ること無い答え。誰もが一度は考えたことがあるだろう疑問の答え。
本当に怖い事。本当に痛い事。
苦しい事。空しい事。悲しい事。辛い事。楽しい事。嬉しい事。気持ちの良い事。
生と死とを天秤にかけて、それぞれどちらの道が求める答えに値するのか。
「なあ」
少し乾燥していた俺の喉から、小さくかすれた声が出た。ソイツの頭から流れ出した血溜りは、どんどん広がってちょっとした水溜りのようになっていた。
「教えてくれよ、俺に」
耳元の風がまた、うなりをあげた。電話越しに聞いた雑音のような音と近かった。
何処かから連れてこられた茶や黄の枯葉が、頬に当たった。かさっという、いかにも乾いた音がした。足元の体にも、数枚の枯葉が載った。しかしそれらはすぐに飛ばされ、また別の葉が載った。
アスファルトの割れ目に沿って滲み出す血の紅が、今にも俺の靴を呑み込もうとしていた。俺は動かなかった。買ったばかりの白いスニーカーが汚れても、そこから動く気はなかった。
投げかけられた謎の答えを、まだ聞いていない。
『見つける事にしたんだ』
軽やかに、爽やかに、微笑みながら。
言い放って宙を舞ったソイツにしか分からない、幾つもの質問の答えを。
「本当は……どっちが、怖かった?」
――死を選ぶ瞬間と、あてのない未来に迷う事と。
「どっちが、痛かった?」
――地に落ちる瞬間と、この世界に張り巡らされた有刺鉄線の中を進む事と。
「どっちが、苦しかった?」
――命が徐々に失われていく瞬間と、もがいても抜け出せない現代の泥沼に沈む事と。
「どっちが、空しかった?」
――眼下の地面を見下ろした瞬間と、手ごたえの無い日常をさすらう事と。
「答え、教えてくれるんじゃなかったのか?」
耳を澄ましても風の音が聞こえるだけで、半開きになったソイツの口は二度と言葉をつむぎだす事が無かった。細かな砂埃が付いた顔は、まるで蝋人形のようだった。
『待ってるから』
近々取り壊される予定の団地。かつて溢れていただろう家庭的な温もりなど微塵も感じられない、閑散とした空間。
ソイツに指定された場所に、俺は今立っている。
『さっき並べた謎の答えが気になるならおいでよ』
「お前に言われた通り、ちゃんと来たよ。凄え寒いけど、まだ買った漫画全然読んで無いけど、来たよ」
だから教えてくれよと呟いた声は、ほとんど同時にやってきた木枯らしに吹かれて遠くに消え去った。地に堕ちたソイツの顔は、まわりが寒いからか失血のせいか、青白く透き通っていた。
綺麗といえば綺麗だった。安らかといえば安らかだった。ある種の清々しささえ湛えていた。
しかしそこにあったのは、命の灯を失った無残な屍だった。
なあ、と再び呼びかけようとした瞬間、背後で耳をつんざく様な悲鳴が聞こえた。声が高かった。女の悲鳴だった。
振り返ると、両手で口元を覆い隠して震えている30代ほどの女がいた。今流行のストレートパーマをあてた真っ直ぐな髪が、肩の辺りで揺れていた。服は大きめのトレーナーにジーパンという比較的軽装で、ちょっと必要な物を近所まで買いに出ようと思っただけという雰囲気だった。
女は倒れ臥している人影と黙って突っ立っている俺との間で何度も視線を往復させ、信じがたい光景を必至で理解しようとしているようだった。そのうち、はっと何かを思いついたような表情を浮かべて俺達から顔を無理やり引き剥がし、自分が肩から下げていたトートバック風の鞄の中をまさぐりだした。慌てているせいか探し物はなかなか見つからず、焦りがその顔に浮かんだ。
暫くして女が鞄から抜き取るようにして取り出したのは、携帯電話だった。震える手で番号を押し、それを耳に当ててから女はまた俺を見た。牽制するような、怯えきったような目だった。
俺は何も言わずに、ただ黙ってその一部始終を見ていた。
「あっ! もしもし! あの、倒れてるんです、人が、血だらけで! そばに立ってる人もいます、少年です。いえ、普通に立ってるだけで、でも地面に血がいっぱいで――」
混乱して訳の分からない事を口走っている女から視線を外し、俺はまた眼下にある不自然な体を見た。女の台詞どおり、ソイツも地面も確かに血だらけだった。
電話の相手は病院だろうか。それとも警察だろうか。どちらにしても仕事熱心な彼等は、きっとすぐここに辿り着くだろう。そして助けにもしくは状況を確かめに来た誰かに、俺はこう聞かれるのだ。
『ここで何があったのか、詳しい話を聞かせてもらえるね?』
やかましいサイレンの音を聞きつけて、集まる大量の野次馬。耳を覆いたくなる喧騒の中で、俺ははっきりと答える。
『何も知りません』
そう、俺には何もわからない。俺は何も知らない。何を聞かれても満足な回答は出せない。
全ての答えは、ソイツが一緒に持っていってしまった。
後ろの女の電話はもう終わったらしかった。生き物の咆哮のような風音が大きく聞こえ始め、周囲の全てが再びそれで満たされた。その気はないけれど、振り向けば多分、女は俺を睨みながらさっきと同じところに立っているのだろう。もしかしたら俺を殺人犯か何かと勘違いしているかも知れない。そうなると最初に来るのは警察だろうか、なんてぼんやり考えながら血に塗れた身体を眺めた。
∵ ∵ ∵
ソイツとは、結構仲が良かった。
中学からの付き合いで、地元の同じ公立高校に上がってからも、よくつるんで馬鹿をやった。
昨日も今日も、明日も明後日も。
ずっと、ソイツと馬鹿みたいに笑っている自分がいるのだろうと思っていた。
風に混じって、甲高い音が聞こえる。遠くから近づいてくる。でかくて耳障りなサイレンの音。
俺の足元には一人の人間が横たわっていた。
文字通りの大の字で仰向けに臥し、目はどんよりと立ち込めた曇り空を映していた。
頭の下からは、どす黒く紅いものが滲み出ていた。髪の毛の隙間から白褐色でプリン状の何かも見えた。
体中から生気が消え失せていた。すぐに人を呼んでも、助かりそうになかった。
また大きくなったサイレンが、うるさかったはずの風音を掻き消し始める。異変を嗅ぎ付けた人々が、面白半分で徐々に集まって来る。
実験。自分の命をかけた実験。
誰も知ること無い答え。誰もが一度は考えたことがあるだろう疑問の答え。
本当に怖い事。本当に痛い事。
苦しい事。空しい事。悲しい事。辛い事。楽しい事。嬉しい事。気持ちの良い事。
生と死とを天秤にかけて、それぞれどちらの道が求める答えに値するのか――。
だいぶ大きくなった周囲のざわめきを、それ以上の大音量で切り裂いて、騒ぎを助長するきっかけになった車が終に現場に到着した。耳を覆うばかりのサイレンは微かに響いていたエンジン音と共に消え、俺の背後から車のドアを開け閉めする音と駆けて来る数人の足音が聞こえた。
あのサイレンは救急車だったろうか、それとも警察の方だろうか。まあそんな事はもう、どうだっていい。
本当はどっちが怖かったんだろう。本当はどっちか痛かったんだろう。
どっちが苦しかったんだ。どっちが空しかったんだ。
どっちが悲しかったんだ? どっちが辛かったんだ?
なあ、どっちが ……?