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「あー、夢オチですか・・・・・・」
布団の中からの状況説明。
俺の名前は、尾張晴時だ。
この場所は四年間のアメリカ生活から日本に帰国後、三年間過ごし見慣れた部屋。十三階建てのなんとも不吉な数字を残すアパートの七階。その中のひとつの部屋。俺の家。
身体を起こして、冷静になる。自分の格好を見てみると、シャツにジーパン。昨日帰ってから着替えもせずに寝てしまっていたらしい。そりゃ、悪い夢も見るだろう。
今まで見ていた夢の内容について考える。気分が泥沼の中へと沈んでいく。
また、未練がましく俺は。
「おっと、スマイルスマイル」
起きてそうそう気分が沈みかけるのをどうにか阻止した。手を顔に持っていき、無理やり口角を上げる。グイっと。
そんな自分の姿を想像し、おかしくなってきた。
よし、テンションは上昇した。
布団から出る。布団をたたんだ。更なる気分転換を図るため服を着替えることなく、玄関から外に出てみた。
風が吹き抜ける。
サンダルをペタペタ鳴らし、廊下の端までいく。そこから、朝日が見える。眩しいこの光は、あの日の出来事をほんの少しだけ霞ませてくれている。そんな気がした。
「ん?」
下のほうがやけに騒がしかった。身を乗り出し見てみると、なにやら警察の方々が大勢やってきていた。きっと上の住人に用があるのだろう。それがこのアパートの法則だ。八階から上は、過去に罪を犯し、警察組織から逃げ回っている人間が多く住んでいる。周りの建物よりも、少し高いこのアパート。また隣接するビルは間隔が狭い。うまくやれば、屋上伝いに逃げられるという寸法らしい。
パンドラアパートの朝は今日もにぎやかに始まったみたいだ。
ガチャン。
後方で、扉が閉まる音がする。振り返ってみると、そこにはゴシックロリータな寝巻きに身を包んだかわいらしい少女、もとい美少女がこちらに向かって歩いてきていた。
その手には、口に×印をつけた熊のぬいぐるみ。その上、目の換わりか、左右色の違うボタンがさらに不気味さを際立たせている。
『おはようございます。偽善者のお兄様』
そう喋ったのは彼女ではなく、熊のほう。無機質な音で発せられた。
「うん、おはよう黒子ちゃん。今日もいい朝だね」
『はい』
この娘の名前は、雛葉黒雪という。歳は十一歳。身長は百三十センチで俺の胸の位置より少し低い場所に頭がある。パンドラアパートで今のところ一番新しい住人。三ヶ月ほど前、とある仕事を請け負ったときに出会った少女。紆余曲折あり、ただ今このパンドラアパートに住むようになる。狂人多いこのアパートで唯一目の保養となる稀有な人物なのだ。ただカワイイだけではなく、その年に似つかわしくない、もの静かな雰囲気を携え、見た目よりも大人っぽい。
『また、早くから騒がしいですね』
「それがこのアパートの良いところであり、悪いところだからなー」
生活していて困る事は多々あっても、飽きる事は決してない。入ってくる人も出て行く人もたくさんいるけど、残る人はかなり長く暮らしているみたいだし。
「ここでの生活には慣れた?」
『はい、おかげさまで』
と、黒子ちゃん(俺がこう呼んでいるのは、常に真っ黒い格好をしているので。本人にはこのことを言っていない)は静かに、小さなお辞儀をした。
やっぱり、躾がいいとこんな感じに子供は育つのか。俺の両親は放任主義だったので、ここに失敗作ひとつあるわけだが。人間、やはり生まれが大切であることを実感せざるをえない。
『そういえばお兄様。昨日からどうもうきうきしているように見えますが、何かよいことでもあったのですか』
喋り方にも、それが影響している。今頃黒子ちゃんと同じような年代は、昨日を昨日と言わないと思う。
「うきうきしてた、俺?」
『心なしか』
うーん。うきうきというまででもないけど。確かに浮かれてはいたかもしれない。
「あのね、今日古い友人に久しぶりに会うことになってさ、多分そのせいだろ」
『・・・・・・お兄様のお歳で古い友人はないと思いますが。まるで壮年の男性みたいな発言です』
くまのぬいぐるみは、口元をもごもご動かしながら、そう音を出した。黒子ちゃんのツッコミ。
「まぁ、古いはいいすぎたかもしれないけど、昔には変わりないね。俺がアメリカへ行くまでの付き合いだし」
約六年間の付き合い。そして会うのは四年ぶりになる。いろいろとお世話になったし、迷惑をかけた。俺の、一番可愛くなかった時代を最もよく知る人物だ。
「十九年生きた内、六年を締めているから、結構長い付き合いなんだ。積もる話もあるしね」
「その昔のお知り合いというのは、女性ですか」
それまで眠たそうだった黒子ちゃんの表情が一変。まるで百戦錬磨の魔女のような顔つきになる。
「い、いや男だよ、男。駁射苓亮っていう名前の嫌なやつで」
そういったとたん、黒子ちゃんの顔から剣呑な雰囲気は消え去った。
まさか、十一歳の少女にたじろいでしまうとは。さすが、魔女の家系で生まれ育った事はある。きっと、彼女の中に流れている血が、そういった雰囲気の出し方を教えてくれているのだろう。
「きっと、黒子ちゃんには一生関係することのない人だと思うよ。というか、あんな人と会わせたりでもしたら、きっと僕は成瀬さんの怒りを買うことになりそうだから遠慮しておいてね」
成瀬さん。フルネームは筒浪成瀬。俺達が住んでいる七階の一つ下に住んでいる女性。六階の住人。六階の住人というのは、六階の一部屋に住んでいるという意味ではなく、文字通り、六階自体に住んでいるのだ。ワンフロア四部屋のこのアパート。そのうちの全てを借りている筒浪さんは、ここの住民でも屈指の変人として近所でも有名な人。普段何をやっているのかはまったく不明で、出会うたびに彼女の好きな野球の話を延々聞くことになる。
『お兄様や成瀬さんに言われなくとも、私はそんな人と会う気はありません』
ま、それもそうだろう。この子は俺の見てきた人たちの中でも、かなり人見知りをするタイプだ。初めて会った時だって、何度殺されそうになったことか。
『いつごろお帰りになるのですか』
「んーどうかな。むこうはかなり多忙な人だし、思いのほかすぐに終わってしまうかも。実を言うとこれ、仕事の話。だからきっと、話を通したらどこかに行っちゃうだろうな」
スケジュールに縛られて生きている人間の鏡みたいな人だからな。俺が日本に帰ってきたことも知っていただろうに。三年もたってから連絡をしてくるということは、きっと彼が一番嫌いな『予定外』が起きているのだろう。
『その仕事というのは、安全なのでしょうか』
黒子ちゃんは、心配そうな顔をした。熊ぬいぐるみも、心なしか悲しい音を出した気がする。今の黒子ちゃんには、人見知りだった頃の剣呑さを俺には向けてこない。むしろ、今のように優しさを見せてくれるのだった。
「俺に回ってくる仕事はたいてい危険だから、きっとその希望には副えないと思う。それに、そろそろ前回の仕事の失敗が響いてくる頃だから、請けないわけにもいかないんだよね」
安定感のない仕事をしているが故の障害だ。それを承知で俺はやっている。
黒子ちゃんの顔に、ますます陰りが見える。その原因は俺だというのが心苦しい。
なんてことだ!俺はこんないたいけな美少女に心配をかけさせてしまうなんて。こんな事を成瀬さんに知られたら、考えるだけゾッとしない。
というわけで、言い訳。というか彼女をなだめる事にした。
「心配しないでいいよ。多少は怪我をするかもしれないけど、俺は不死身だぜ?ちゃんと帰ってくるに決まっているだろう」
『はい。でも・・・・・・』
間が空く。
『気をつけてくださいね』
優しい微笑を俺に見せる黒子ちゃん。少女でありながら、魔女でありながら、まるで聖母のように。
それを踏みにじる勇気は、俺にはない。説得に成功したとは言い切れないが、黒子ちゃんを心配させないようにしよう。
「あぁ、きっとその約束に応えてみせるよ」
『お兄様の言葉を信じます。では、失礼します』
そう言って、自室に戻っていくのだった。
その後姿を見送ると、俺も部屋に戻った。準備が整い次第、懐かしき友人のもとに出向くとしよう