98 自分勝手
「こちら、ガーム導師から次回の議題に関する資料です。シグルト導師」
どさり、と執務机の上に、分厚い紙の束がいくぶん乱暴に置かれる。シグルトは目の前に立つ珍しい客を、椅子に座ったまま見上げた。
「ありがとう……珍しいですね。君がここへくるなんて」
「……仕事ですので」
答えるディナがシグルトへ向ける眼差しは、常よりもさらに冷たく、触れれば切れそうな程鋭かった。六年前の事件以来、彼女はずっとシグルトを避けてきた。書類を届けるくらい、他の者に頼めば良かったはずだ。
シグルトは肩をすくめると、机の上で両手を組み、軽く顎を乗せた。
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってくれて構いませんよ」
「……では、遠慮なく」
ディナはすーっと鼻から息を深く吸うと、今度はそれを言葉に変え、一気に口から吐き出した。
「この変態。強姦魔。女の敵。人でなし。悪魔。最低鬼畜野郎。地獄へ堕ちろ」
「……」
「……」
ディナが罵り終わると、部屋には重苦しい沈黙が落ちた。既に日は傾いており、窓から差す光がシグルトの執務室をオレンジ色に染めている。同じ色をした、憎々しげなディナの睨みを、シグルトはただ無表情で受け止めていたが、やがて疲れたようにふぅっと深く息を吐いた。
「……あの子は……リシェルはどうしています? 君の家にいるのでしょう?」
「そりゃあもう美女同士仲良くしてますとも。毎日楽しすぎて、リシェルも帰りたくないって言ってますから、ご心配なく」
「……そうですか。元気なようで安心しました」
「はっ! 元気なようで安心した?」
ディナは眉を寄せながら、鼻をならした。
「なにこの期に及んでいい人ぶってるのよ。あなたがあの子を傷つけたんでしょうが」
「……」
指摘に、シグルトは気まずげに目をそらした。
「リシェルにはずっといい顔をしてきたみたいだけど、ついに本性見せたのね。あの子が何か気に食わないことでもした? 自分の思い通りにならないから、怒ってぼろ出した感じかしら?」
馬鹿にした調子で言って、ディナは目をすがめた。
「リシェルはね、私が何を言っても、あなたを信じる、信じたいってずっと言ってたわ。そんなあの子を……あなたは裏切って傷つけた。あなたはそうやって平気で、自分を信じて慕う人間を傷つける……アーシェだってそう」
前の弟子の名を出され、そらされた紫の瞳が揺れる。ディナはぎゅっと自身の拳を握りしめた。
「アーシェは……あの子は、あなたのことが本当に好きだった。師としてだけじゃなく、男として」
厳しい修行も、どんな危険な任務も、弱音を吐くことなく、笑顔でこなしていた親友。それが目の前に座るこの男のためだということは、一緒にいてすぐに気づいた。いつも強気な彼女が、時折、自身の師を見つめる時にだけ見せる、年相応の少女の顔。その柔らかくて甘やかな視線にあったのは単なる憧れではない、明確な恋心だった。
「あなただって気づいていたはずよ」
「……」
「あの子は何度もあなたに想いを告げようとしていたし。でも、あなたはわざとそれをさせなかった。そうでしょ?」
「……」
「素っ気ない態度であしらって、うまく避けて……あげくにあの子の前で他の女――ロゼンダなんかといちゃいちゃして、部屋に行って……アーシェがどれだけ傷ついていたか」
聞いていたシグルトの眉が悲痛そうに寄る。
ディナの脳裏には、薄暗い部屋の片隅でうずくまる親友の姿が浮かんでいた。辛いことがある度、人知れず隠れて泣く彼女を知っているのは、親友である自分だけだ。
あの日も、アーシェは師の心無い態度にひどく傷ついていた。
――仕方ないよね。私、可愛くないし、美人じゃないし、いつも生意気ばっかり言っちゃうし……先生だって、迷惑だよね。こんな魔法しか取り柄のない弟子に好かれたって……
――そんなこと……あいつに見る目がないだけよ。
――いいの、わかってる。ただ、先生ってずっと女っ気なかったから。だから……ただ、ちょっとだけ……ほんの少しだけ、期待しちゃってただけ。馬鹿だよね。
――アーシェ……
――でも、先生もひどいよね。はっきり言ってくれればいいのに。迷惑だって。気づいてるくせに、好きだとも言わせてくれないし、ちゃんと振ってもくれない。こんな展開、ローラの小説にだってないよ。どうしたらいいかわかんないや。
涙でそばかすの浮いた顔をぐちゃぐちゃにしながら、アーシェは必死で引きつった笑顔を作り、無理やり笑う。ディナにはただアーシェを抱きしめることしか出来なかった。
あの時シグルトに感じた怒りを、ディナは今、叩きつけるように吐き出した。
「あなたがアーシェの想いを受け入れられないのは仕方ない。でも、何もあんなやり方で突き放さなくたって……あなたはあの子の気持ちとちゃんと向き合って、誠実な対応をすべきだった。そうすれば、あの子だってきっとあなたへの想いを諦めて、次に進めた。そうしなかったのは……アーシェをはっきり拒絶して、あの子に弟子を辞められるのが都合が悪かったから? 無理難題を押し付けられる、どんな任務もこなしてくれる便利で優秀な弟子を、後継者を失うのが。アーシェが弟子になってから、あなたの評価もますます高まってたものね」
シグルトは何も言わなかった。否定しないなら肯定しているのと同じだろう。シグルトの態度にディナの怒りは沸々と熱くなるばかりだった。
「そうやって散々アーシェのこと利用して……なのにルゼルと揉め事を起こしたら、あっさりあの子のこと見限って……命まで奪って……結局あなたにとって他の人間の気持ちなんてどうだっていいんでしょ? あなたにとって一番大事なのは自分。あなたは自分のことしか考えていないのよ」
ディナが断じる。だがやはりシグルトは黙ったまま。ディナはちらりと、執務机の上に置かれた本のページから飛び出た栞を見やった。薄紅色の花を押し花にして作られた栞。リシェルが以前、ディナに作ってくれたものと同じものだ。
「……リシェルに対しては、もしかしたら違うのかもしれないって……ほんのちょっとだけ、私も思わなくもなかったけど……でも、違った」
ディナは再び、自身から目をそらし続けるシグルトを真っ直ぐに冷たく見下ろした。
「私はあなたを軽蔑します。シグルト導師」
口調を改め、背を正し、続ける。
「もうリシェルに関わらないでください。そちらから連絡して来なかったということは、もうリシェルのことも見限るおつもりだったのかもしれないですけど。魔力の封印も、解いてあげてくれませんか。魔力の扱いなら私が教えます。……あの子を、自由にしてあげて欲しい」
「……」
「何とか仰ったらどうです?」
黙ったまま一言も発さないシグルトに、ディナは苛立ったように、眉を寄せた。さらに口を開こうとした瞬間に、外で終業のベルが鳴り響く。
「……もう終業時刻ですね。では、失礼いたします」
残業してまで憎い相手と会話をするのはごめんだとばかりに、ディナは一礼すると執務室を後にした。
がちゃり、と扉が閉まる音がして、ようやくシグルトは口を開いた。他に誰もいない部屋に、呟きが零れる。
「……そうですね。ディナ、君の言う通りです。私は……吐き気がするほど、自分勝手だ。でも、それでも、私は今度こそ――」
アーシェの時と同じ失敗はしない。
シグルトはすっと立ち上がった。がたり、と椅子が音を立て、夕日で長く伸びた影が部屋に落ちた。
「……ってちょっと、なんでうちに来るのよ!?」
慌てふためいて呼びに来た使用人について、家の正門に向かったディナは、そこに立つ人物の姿を認めるなり、叫んでいた。
「……リシェルに会いに来ました」
シグルトは、先程会った時と同じく翳のある表情ながら、どこか吹っ切れた様子ではっきり告げた。
「はあ!? ふざけないでよね! 行かせないわよ! 絶対に! リシェルはあんたになんか会いたくないんだから!」
「……少しでいいんです。お願いします」
「さっさと帰って」
驚きと嫌悪感で礼儀も忘れ、冷たく言い放つ。だがシグルトも退かない。
「お願いですから、会わせてくれませんか? ……できれば、リシェルの友人である君に手荒な真似はしたくない」
「……!」
覇気もなく、ただ淡々と発せられる言葉と、昏い紫の双眸。
ディナはごくりと唾を飲み込んだ。アンテスタで魔物と対峙した時より、はるかに強い緊張を感じ、思わず後退りしそうになる。だが、生来の強気な性格が彼女をその場になんとか留めた。
「はっ、脅しのつもり? いいわよ。通りたきゃ力づくで通ってみ――」
「リシェルちゃんなら中庭じゃ」
「おじいちゃん!?」
突然割って入った老人にディナは目を剥いた。
「ガーム導師。恩に着ます」
「あ、ちょっ!」
最高齢の導師に一礼し、シグルトは二人の脇をすり抜け、足早に屋敷の敷地内に消えて行った。
「もう、なんで言っちゃうのよ!」
ディナは目を吊り上げ祖父に抗議する。
「わかっとるじゃろ? あやつがその気になれば、わしらじゃ足止めにもならん」
「おじいちゃん、仮にも導師でしょ? もうちょっとプライド持ってよ!」
「事実じゃろ。それにな、これはリシェルちゃんとシグルトの問題じゃ。一度きちんと話し合わんと何も解決せんじゃろう?」
「それは、そうだけど……」
納得しかねる顔で、ディナは不安げにシグルトが去った方を見やった。
「私は心配なのよ。あいつがまたリシェルを傷つけないかって……」
「傷つけ傷つけられる。恋愛とは、青春とは、そういうものじゃ」
ガームは軽い調子でもっともらしいことを言ってから、自らの長い白ひげを梳いた。口の中で呟く。
「やれやれ……シグルトにとっては遅れてきた青春なのかもしれんが……色恋沙汰にばかりかまけとらんで、もっと世の中のことに興味を持ってもらえんかのぉ」
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