96 剣術大会
「シグルト導師。大丈夫ですか? お顔の色がすぐれないようですが……」
ぼんやりとしていたシグルトは、声をかけられ我に返った。顔を上げた先にいたのは、自らと同じ導師のローブに身を包む、金髪の美青年。
彼の背後には、他の導師たちの姿もある。豪華な内装の室内で、ガームは椅子に腰掛けうたた寝し、ロゼンダは鼻歌を歌いながら壁に掛けられた絵画に見入り、ルゼルは窓の外を不機嫌そうに眺めている。ブランだけがいない。皆することもなく、手持ち無沙汰に思い思いに過ごしていた。
シグルトは静かに物思いに耽っていたところを、この年下の導師に邪魔され、内心舌打ちした。だが、それはおくびにも出さずに模範的な答えを返す。
「……大丈夫です。お気遣いありがとうございます。ヴァイス導師」
「ならいいのですが。ところで最近、お弟子さんの姿を見かけませんが……具合でもお悪いのですか?」
今まさに頭を悩ませている弟子のことに触れられ、シグルトの眉がぴくりと動いた。あなたには関係ないでしょう――口から出かけた言葉をシグルトは飲み込んだ。
「いえ……ただ、私の判断で休ませているだけです。ご心配なく」
「そうですか。あんなことがありましたし、シグルト導師もさぞご心配でしょう?」
一瞬ちらりとルゼルを見やった後、声をひそめ、気遣うような笑みを浮かべながらヴァイスは尋ねる。
「もしかして、彼女をもう法院にはお連れにならないおつもりですか?」
「ええ、そのつもりです」
「ご結婚後は彼女は弟子を辞められるそうですね。予定を少し早められたというわけですか。最後にご挨拶出来ればと思っていたのですが……」
「どうかお気になさらず。残念ながら、お会いする機会がもうないでしょうから」
「それは残念ですね。最後にあの可愛らしさを目に焼き付けておきたかったのに。毎日彼女に会えるシグルト導師が羨ましい限りです」
ヴァイスは冗談ぽく言って笑う。シグルトの苛立ちは強まった。この出自もよくわからない最年少の導師には、何の興味もない。だが、なぜだろう。彼と相対すると、いつも神経を逆なでされるような不快感を抱いてしまうのは。彼の丁寧ながら、どこか人を食ったような態度のせいか。
その時、部屋の扉ががちゃりと開き、案内役の兵が現れ告げた。
「導師の皆様、まもなく開会となりますので、お席にご案内いたします」
室内で退屈を持て余していた導師たちが、一斉に顔を上げる。
「さて、時間のようですね。参りましょうか」
ヴァイスはにこりと微笑み、扉の方へ向かう。シグルト方は動かず、ただその背を見送った。
「ふふ、可愛い小鳥ちゃん、逃げられたり、誰かに取られないように、ちゃんと捕まえて隠しておかないとね。シグルト?」
シグルトの前を、赤紫の髪の美女――ロゼンダがくすくすと笑いながら通り過ぎ、ヴァイスの後に続いていく。
「……」
やはりシグルトは動かなかった。
今度はルゼルがシグルトの前を歩いていく。
「……」
「……」
通り過ぎながら、何も言わず、憎々しげに睨みつけてくる黄緑の髪の少年を、シグルトもまた無言で見送った。
ルーバスが起こした講堂での事件の後――緊急で招集された導師会議で、ルゼルはシグルトの話を信じようとはしなかった。彼は頑なに自分の弟子が勝手な行動を起こしたことを認めなかった。そして事件の翌日――ルーバスの遺体が発見された後、会うなりルゼルはシグルトに食ってかかった。お前が殺したのだろう――と。すべてはシグルトの企みで、ルーバスは罠に嵌められ、殺されたのだ、と主張し、人目もはばからず、シグルトに掴みかかってきた。やむなくシグルトも力づくで黙らせたが、それ以来、ルゼルの態度は以前にも増して険悪だ。
最後に残った気配が近づいてくるのを感じて、シグルトはようやく動き、そちらへ向き直った。丁寧に頭を下げる。
「……ガーム導師。ご迷惑をおかけしております」
ゆったりとした歩みを止め、老人は自らの長く白い髭を梳きながら、目尻を下げた。
「ふぉふぉふぉ、喧嘩でもしたかの?」
「……」
「なに、迷惑なんてことはない。わしは孫が増えたようで、にぎやかになって嬉しいんじゃ。気にせんでよいぞ。――――責任を持ってお預かりいたします故、あまりご心配されませぬよう」
最後だけ声を落とし、ささやくように言い残して、ガームも部屋を去る。シグルトも今度は黙ってその後を追った。
案内役の兵に導かれて、導師たちは王城の広場が眼下に一望できる、バルコニーへ通された。そこに六つ並べられた椅子に、奥から順にヴァイス、ロゼンダ、ルゼル、ガームが腰掛けていく。シグルトはあえて一席空け、一番手前の席に座った。
広場は、大勢の人間で埋め尽くされていた。中央にある、一段高くなった石畳の四角い大きな舞台。その周りを取り囲むように設けられた座席に、貴族たちが座っている。そのさら周りを、特別に入場を許可された平民たちがひしめいていた。城内の窓や通路からも、広場を見ようとする者たちが顔をのぞかせており、そこかしこには剣を携えた騎士や剣士、魔道士の姿もある。皆どこか気持ちが昂ぶっている様子で、広場全体にそわそわとした、祭りが始まる直前特有の落ち着かない雰囲気が漂っていた。
王家主催の剣術大会。
国中から集められた腕に覚えのある騎士や剣士が集められ、剣の腕を競う、毎年恒例の行事だ。優勝者には巨額の褒賞金と国一番の剣豪の名誉が与えられる。
シグルトはそっと嘆息し、椅子の背にもたれた。
国の数ある行事の中でも、極めてどうでもいい、退屈な催し。それがシグルトの本音だった。毎年招かれ出席はしているが、いつもあくびを噛み殺し、無関心を周囲に悟られないようにする、苦行のような時間だ。魔道士が剣術など見て、何になるというのだろう。いつも堂々と居眠りをし、高齢ゆえにそれを咎められることもないガームが心底羨ましい。実際には自分の方が彼よりずっと年上だというのに。
毎回変わり映えのしない、くだらない催しではあるが、今回は少々いつもと違う点もあった。今年は、午前に剣術大会を行い、続いて午後に魔術大会が催されることになっていた。魔道士同士の魔法勝負。例年なら法院が主催し、法院内でのみ行われていたそれを、今年は国王側の提案で、同日に王城で開催することになったのだ。
王城の騎士たちと魔道士。お互いの技を見せ合うことで親睦を深め、より有事の際の連携を強化できるように……という理由だったが、その意図するところは近々実行する予定のディアマス王国侵攻への備えだろう。
やがて、導師達のいる場所とは別の建物に設けられた、広場正面を望むバルコニーに、ぞろぞろと数人の男女が姿を現した。国王と王族の登場に、座っていた者も皆立ち上がり、会場のざわめきが静まっていく。
国王ジュリアスを中心に、左にミルレイユ、クライル、右に王妃と幼いトリシュ王子が並ぶ。光を受けて輝く金の髪が並ぶ中、唯一茶髪の王子は、へらへらと笑いながら、群衆の中に知り合いでも見つけたのか、手を振っている。
静まった会場に向かって、国王が厳かに口を開き、開会の口上を述べていく。例年お決まりのありがたいお言葉が終わると、高らかにラッパの音が響き、剣術大会の開始を告げた。
やがて舞台上に二名の剣士が上がり、試合が始まる。シグルトは早くもうんざりしながらそれを眺めた。
「はあ、もう始まってたか」
嘆息混じりの疲れた声と共に、ブランが現れた。シグルトの隣の空席に腰掛ける。
「遅かったですね」
「ああ、パリスのところに寄ってたんでな」
「彼の様子はどうです?」
「変わらず、だ。本当だったら午後の魔術大会にあいつも出る予定だったんだがな……」
ブランは表情を暗くして、首を振る。あの事件があった日から毎日、昏睡状態のパリスの元へ通っているが、弟子が目覚める気配は一向にない。
「傷はもう完全に治ってる。シグルト、あの時お前がすぐに治癒してくれたからな。だが、それがパリスが目覚めない原因だろうな。お前の魔力は強すぎる。パリスの魂にまで影響が出たんだろう」
他の魔法と比べて、怪我や病気を治す治癒魔法は難しい。肉体の損傷や病魔を取り除く際に、肉体に宿る魂にも魔力が及び、影響が出ることがあるからだ。対象が魔力を持つ魔道士ならば、自らの力で魂を守れるからまだいい。だが、魔力のない一般人が強い魔法をかけられると、時に髪や瞳の色が変わる、肉体の一部が機能しなくなる、昏睡状態に陥る……といった影響が出ることはよくあることだ。ひどいと正気を失うこともある。これがこの国で、攻撃魔法の発達具合に比して、治癒魔法のそれが遅れている一因でもあった。
パリスの魔力は強い。だが、それ以上に強力なシグルトの魔力を流し込まれ、耐えきれず、魂にも影響を受けてしまった。このままずっと目覚めない可能性もある。仮に目覚めたとしても、果たしてどんな状態になっているか……彼が彼自身でいられるかどうか。ブランは眠り続ける弟子の姿を思い出して、うなだれた。
「仕方ないでしょう。腹にあいた大穴を塞ぐなんて、かなり強い治癒魔法を使わないと出来ませんから。そして、あの状況で魔法を使わなければ、彼は死んでいた」
「わかってる。別にお前を責めてるわけじゃない。あの傷は俺じゃ治せなかったし、感謝してるんだ。お前ならパリスを気に食わないからって、見殺しにしてもおかしくなかったし」
「それも考えましたが」
「考えたのかよ……」
「彼を助けると、リシェルに約束してしまいましたから」
「パリスはまたリシェルに助けられたわけか……」
ブランは少しシグルトの方へ身を寄せると、口元に手を当て、声を小さくして尋ねる。
「シグルト、リシェルにはちゃんと謝りに行ったのか?」
「……」
もとより精彩を欠いていたシグルトの顔がますます曇った。
「行ってないのか?」
「どんな顔して会いに行けって言うんです? きっと私の顔なんて見たくもないでしょう」
「うん、まあ……でも、このままってわけにもいかないだろ? その……何であんなことになったのか、事情は知らんが、お前も反省してるなら誠心誠意謝るべきだろ?」
「わかってますよ……本当に、なんであの子に当たるような真似をしてしまったのか……」
深い、後悔を含んだため息を吐き出し、シグルトは椅子の肘置きにもたれ、頬杖をついた。
見下ろす先では、ブランと話している間中戦っていた剣士たちの試合が、ちょうど決着したところだった。次の出場者たちが名を呼ばれ、舞台上にあがってくる。
シグルトの眉間に皺が寄った。
「責めるべきはあっちだったのに……」
小さなつぶやきの先にいるのは、今まさに舞台上に立った黒髪の騎士の姿。
彼の相手となる別の騎士も舞台上に上がり、次の試合が始まった。――と思った直後に勝負はついた。数度斬り結んだだけで、黒髪の騎士は相手の懐に入り、その喉元に自身の剣先を突きつけていた。
あまりにも早い決着に、誰もが状況をすぐには理解出来なかった。場が一瞬静まり返り――次の瞬間、反動のようにどっと人々の歓声と拍手が轟いた。
「きゃー! エリック様〜!」
その中に一際大きな、聞き覚えのある黄色い声が混じっている。みればディナが舞台に向って両手を振り、喜びに飛び跳ねていた。後ろで束ねられたオレンジの髪が、馬の尻尾のように激しく揺れる。彼女も午後の魔術大会に出場する予定のはずだ。
人々の興奮と熱気が渦巻く中、エリックはいつもの醒めた表情のまま、淡々と剣をおさめ、舞台を降りていく。だが、何か感じたように、ふと導師たちがいるバルコニーを振り返った。
黒い瞳と一瞬だけ視線が合う。シグルトは無意識にぎりっと歯噛みしていた。騎士がすぐに目を逸らし、背を向け舞台を降りると、大きく息を吐き出す。
「……はあ……最近は慣れたと思っていたのですが……殺したいのを我慢するのって、なかなかしんどいものですね。歯がすり減って無くなりそうだ」
「は? 殺……え? 俺?」
友の物騒なつぶやきを耳にして、隣のブランは顔を引きつらせた。
「本当に……消してしまえたらよかったのに……そうすればあの子だって……」
勘違いして青ざめる友を無視して、シグルトはすぐに始まった次の試合を見るともなしに眺めつつ、再び物思いに沈んだ。
大会は決勝戦に近づき、会場内はさらに熱気を帯びていった。その原因は、初戦で会場を沸かせた黒髪の騎士。彼はその後も一敗もすることなく、毎戦ものの数秒で勝利を勝ち取っていく。
その圧倒的な強さは会場をすっかり魅了し、さらにはその美貌が婦女子の心を狂わせ、今大会は例年にない異様な盛り上がりを見せていた。
決勝戦の舞台には、当然のように彼が登った。対する相手は昨年の大会優勝者、国王直属騎士団の副団長を務めるユーメント公爵家の次男だ。さすがの強敵に、今まで通りすぐに勝敗が決するようなことはなく、試合は接戦となり、それがさらに会場を盛り上げた。
剣を振るう騎士を見て、ロゼンダは自らの赤い唇を、同じく赤く塗られた指先でなぞりながら、妖艶に微笑む。
「ふふ、あの黒髪の子、本当に強いわね。クライル王子付きの騎士だったかしら? なんて綺麗な顔……魔道士でなくてもいいかも……と思ってしまうくらい」
「ああ、彼はやめておいた方がいい」
ロゼンダの隣に座るヴァイスが、穏やかに忠告した。
「どうして?」
「君のその美しさを失うことになる」
「どういうことかしら?」
「彼は厄介だということだよ。君にとっても、僕にとっても」
ヴァイスはじっと黒髪の騎士を見つめながら、すっとその赤い目を細めた。
「……まさか、あの子供が覚醒するとはね。念のため、危険は排除しておいたほうがいいかもしれないな」
赤い瞳がちらり、とロゼンダの隣に座るルゼルを見やる。幼い少年姿の導師は、大きな椅子にすっぽりとその小さな体をうずめていた。頬杖をつき、不機嫌さもあらわに、床に届かない足を時折ぶらぶらとさせるその様子は、その外見通りの年相応の子供のようだ。
ヴァイスの赤い唇の両端が、にぃっと吊り上がった。
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