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94 心臓

「リシェル、あれほど言ったのに、急にいなくなったりして……師匠たちに誤魔化すの大変だったんですよ。どこに行っていたんですか?」


 家に戻り、居間に入るなり、シグルトは淡々と聞いてくる。彼と目を合わせていられなくて、リシェルはうつむきながら答えた。


「……街を……歩いていただけです」


 ぼそぼそとした小声での答えに、シグルトの口の端が吊り上がった。

 

「私を嘘つきだと責めるくせに、自分も嘘をつくんじゃないですか」


「……!」


 シグルトは気づいているのだろうか。兵舎に行ったことに。エリックと会っていたことに。

 追求を覚悟したが、シグルトが次に発したのは予想外の言葉だった。 


「リシェル、愛しています」


 まっすぐに目を見て、まるで挑むように宣言される愛の言葉に、リシェルは戸惑った。


「な、何ですか? 急に……」


「君はどうですか? 私はまだ一度も君に、私のことを愛していると言ってもらったことがない。言ってくれませんか? 今、ここで」


「……!」


 リシェルは言葉に詰まる。

 言えなかった。エリックへの恋心を自覚してしまった自分には。


「……言ってくれないんですね」


 シグルトはつぶやくと、不意に手を伸ばしてきた。


「いいですよ。言葉で言えないなら――」

 

 強引にリシェルを抱き寄せると、あごに手をかけ上向かせ、顔を近づける。唇が触れる寸前で、リシェルはシグルトを両手で突き放した。


「いきなり、な、何するんですか!?」


 わからない。先程からシグルトが何を考えているのか、何をしたいのか全くわからなかった。

 シグルトはわざとらしく首をかしげた。

 

「私は君の婚約者ですよ。なんで拒むんです? 他の男とはしたのに」


 リシェルは息を呑んだ。

 

「……! なんで……」


「今、君を一人にするわけないじゃないですか。使い魔の一匹を君につけていたのでね。驚きましたよ。てっきりブランかディナの所にでも行くのかと思ったら、彼に会いに行くんですから」


「監視してたってことですか?」


「護衛ですよ」


「み、見てたんですか……?」 


はらわたが煮えくり返りましたよ」


 言葉とは裏腹に、シグルトは薄い笑いを浮かべながらおかしそうに言う。だがやはり、その目の奥は少しも笑っておらず、ちぐはぐな言動の不気味さにリシェルは震えた。


「私のことはいつも拒むくせに、彼のことは抵抗もせず受け入れて」


「ち、ちが――」


「で、どうでした? 初めての口づけの感想は? 夢見心地で、ぼんやりして、私から逃げることも忘れて、ふらふらと……あんな美男子に口づけされて、さぞ舞い上がってたんでしょうね」

 

 怒るどころか、愉快そうに言う彼は、窓から差す夕日の光に赤く染まり、異様な雰囲気をかもしていた。

 

 怖い。シグルトのことが。

 リシェルは無意識に一歩後退した。


「な、なんでそんなこと言うんですか? 今日の先生、なんかおかしいです」


 逃げることは許さないとばかりに、シグルトも一歩距離を詰めてくる。


「おかしい? そりゃあおかしくもなりますよ」


 リシェルはじりじりと後ろに引き、シグルトがそれを追い詰める。 


「大切な婚約者が他の男と……おかしくならない方がおかしいでしょうよ」


 どんっとリシェルの足がソファの角に当たった。そのままバランスを崩し、後ろに倒れ込みそうになったところを、シグルトが腕をつかんで支えてくれた。だが、彼はリシェルを助け起こすのではなく、そのままソファの上に仰向けにそっと押し倒す。


「先生?」


 シグルトは無言でリシェルの体の横に手と膝をつき、上に覆いかぶさってくる。こちらを見下ろす顔からは、笑みが完全に消えていた。西日が彼の顔を赤く染め、濃い陰影をつける。


 怖くてたまらない。何か言って欲しくて、リシェルは再び呼びかけようと口を開いた。


「せ――」


 最後まで言うことは出来なかった。

 発しようとした言葉は、重なってきたシグルトの唇に奪われた。

 

「ん……!」


 口を塞がれ、息苦しさにリシェルは顔を背け逃れようとした。だが、シグルトの手が顎を掴み、それを許さない。

 

 婚約者との初めての口づけは、エリックのそっと触れるだけのものとはまるで違っていた。


 すべて食い尽くそうとするかのような、むさぼるような口づけ。甘やかさの欠片もなく、憎しみさえ感じるそれに、恐怖を覚える。なんとか両手でシグルトを押しのけようとするが、彼はびくともしない。


 息が苦しい。時折一瞬だけ唇が離れても、すぐに角度を変えて口づけられる。何度も何度も。十分な空気が得られず、このまま死んでしまうのではないかとさえ思えた。


「やっ……!」


 長く執拗しつような口づけの隙に、リシェルがやっとそれだけ声を発すると、シグルトはようやく離れた。荒く息をつき、必死で酸素を取り込みながら、リシェルは真上にあるシグルトの顔を見上げる。


 情熱的とも言える激しい口づけの後とは思えないほど、彼の表情も目の奥も、冷たく冷えきっていた。


「嫌……ですか。そうでしょうね。好きでもない男にこんなことをされるのは。君は、私ではなく彼が好きなのでしょう?」


「それ、は……」


 いつかきっと、シグルトに対して抱くようになるだろうと思っていた恋心。

 だが、自分はそれをエリックに対して持ってしまった。


 答えないリシェルに、シグルトの無表情が崩れた。泣きそうな程苦しげにぐしゃりと歪む。

 

「なんで、彼なんです? どうして、私じゃないんですか? ずっと君の側にいたのは私ですよ? なのに、どうして――」


 悲痛な問いかけに、リシェルの胸を強烈な罪悪感が襲った。

 

 どうして、シグルトじゃなかったのだろう? この六年ずっと側にいて、守ってくれた人なのに。

 

 どうして、エリックだったのだろう? それほど多くの時を共に過ごしたわけでもない、何を考えているかもわからない人なのに。

 

 どうして……私は……

 

「ごめん、なさい……」


 それしか言えなかった。他になんというべきなのか、わからなかった。

 

 シグルトの目が悲しげに揺れた。それを隠すように、彼は顔を伏せ、手で覆う。表情は見えないものの、わずかに見える口元は自嘲するような笑みを形作っていた。

 

「はは、本当に……自分が馬鹿みたいですよ。君も私と同じ気持ちだと……私を愛してくれていると信じきって……とんだ自惚うぬぼれだったな」


「先生……」


「君に好かれたくて……嫌われたくなくて……いい人を演じて……怖がらせないように、必死に君への気持ちを抑えて……何もかも全部、無駄だったわけだ」


 手を放し再び顔を上げた時――シグルトの顔からは表情が消え、その瞳には彼が時折見せる、深い闇が宿っていた。


「どうせ愛してもらえないなら……もう好きなようさせてもらいます」


 シグルトの手がリシェルのローブにかかった。ぱちん、と留め金を外すと、ローブを無造作に払いける。


「君は私のことは愛していないけれど、恩は感じているんでしょう? 私のためなら何でもできる。君は確かにそう言ってくれた。なら――こういうことだってしてくれますよね?」


 言いながら、今度は指先がリシェルのブラウスの一番上のボタンにかかり、器用にそれを外す。指は次のボタンに移った。彼の意図に気づいて、でも信じたくなくて、リシェルは震える声で呼びかける。


「せ、先生……?」 


「こんなことなら善人ぶってないで、さっさと言えばよかった。恩返ししたいなら抱かせろって」


 冷ややかに見下され、反射的にリシェルは身をよじり、彼から逃れようとしたが――魔力を感じると同時に、体が動かなくなった。ルーバスにかけられたのと同じ、拘束魔法。シグルトが本気なのだと知って、暗い絶望に突き落とされる。 


「ちょっと考えればわかるでしょうに。君に出来る恩返しなんて、これしかないって。私は君のことを好きだと、愛していると散々言ってきたんですから。君が欲しいに決まってるでしょう。なのに、いつまでももったいぶって待たせて……あげく、他の男と――」


 不機嫌さがにじむ声とともに、シグルトの指がうごめき、無慈悲にブラウスのボタンが次々に外されていく。


「私は君を甘やかしすぎたみたいですね。君を救って面倒を見てきたのは私ですよ? 今までどれだけのものを与えてやったと思ってるんです? 恩返ししたいと言うなら、私に身も心も差し出すべきでしょう? なのに……君がこんな恩知らずだとは思いませんでしたよ」


 忌々しげに吐かれる言葉を、リシェルは呆然と聞いていた。いつだって優しかったシグルト。過去を悔い、アーシェに託されたリシェルを守ると誓ったのだと語っていたシグルト。


 だがこれが、彼の本心だったのだろうか。すぐには求婚を受け入れず、魔道士をなかなか諦めなかったことも、結婚まではと口づけも許さなかったことも。自分の意のままにならないリシェルを、彼はずっと苦々しく思っていたのか。助けてもらった恩があるのだから、当然自分に従い、自分のものになるべきなのに、と。


 ふと、ボタンを外す手が止まった。シグルトはじっとリシェルの首元に視線を落とす。


「これ、彼にもらったんでしょう?」


 シグルトは指先に、リシェルがしているペンダントの鎖を引っ掛けた。鎖に通された、花を模した薄紅色のガラス細工がゆらゆらと揺れる。

 

 シグルトは眉をひそめると、そのまま指に力を入れ、首からペンダントをぶちりと引きちぎった。


「……!」


 シグルトの手の中で薄紅色のガラスが、窓からの西日を受けてきらきらと光る。


「私が気づいてないと思ってました? 私と婚約した後も、大事そうに毎日こそこそつけ続けて……本当に、気に食わない」


 吐き捨てるように言うと、シグルトはペンダントを手の中にぎゅっと握り込んだ。わずかな魔力の発生と発光の後、再び彼が手を開くと、そこには銀の鎖も、薄紅色の花もなく、ただ同じ色の粉だけがさらさらと彼の手から零れていく。


 エリックからもらったペンダントは、もう跡形もなかった。


 シグルトが自分の身も心も傷つけようとしているという事実。ペンダントを粉々にされたことそのものよりも、それがリシェルの心を切り裂いた。目に涙が滲む。


「……先生なんで……こんな……ひどい……」


「ひどい、ね。私と結婚の約束をしておいて、他の男に懸想けそうする方がよっぽどひどいと思いますがね」


 シグルトは小馬鹿にしたように笑う。


「それにね、君に好かれたくていい人ぶってきたけれど、私はもともとこういう人間なんですよ。世間知らずで馬鹿な君は、私を信じ切っていたけど。昔のように私だけを信じて、私だけに心開いてくれるいい子のままでいてくれれば、私は君を穏便おんびんに手に入れられて、君も何も知らず、お互い幸せになれたのに。君ときたら何の警戒心も抱かず、いろんな男にふらふらとついて行って……君を弟子になんてしたのがそもそもの間違いでしたね。家に閉じ込めて、誰にも会わせず、鎖にでも繋いでおくべきでした。これからはそうしましょうか」


 目の前にいるこの人は一体誰なのだろう。六年間側にいてくれた、優しい保護者はもうどこにもいない。いや、最初からそんなものは作られた幻でしかなかったのか。

 リシェルの目から、ついに一筋涙が溢れた。


「……泣くほど嫌なんですね」


 リシェルの頬を伝う涙を、シグルトは存外に優しい手付きでぬぐった。一瞬、いつだったかの時のように、やりすぎた、と謝ってくれるのではないか期待してしまうほどに。だが、彼の暗い瞳に優しい光が戻ることはなかった。むしろ、そこにある闇は深くなっていく。


「でもね、どれだけ私のことを嫌っても、どれだけあの騎士のことが好きでも、彼のところへは行けませんよ。君は私の側にいるしかない」


 涙をぬぐった指先は、そのままゆっくりと頬を滑り、首筋をたどり、ボタンが外れたブラウスの隙間に入り込んだ。つと素肌を下へとなぞっていく。それは、リシェルの胸の合間で止まった。


「もう一つ、教えてあげましょうか。君のこの心臓がこうして動いているのは、一体誰のお陰だと思います?」


 シグルトが指さす先で、心臓がどくどくと音を立てる。


「この心臓はね、今この瞬間も、私の魔法で、私の魔力で動いているんですよ。私が術を解いたら君は死ぬ。君を生かすも殺すも私次第、というわけです」


 そう言うシグルトの顔には、捕らえた獲物に絶望を突きつけることを愉しむかのような、嗜虐しぎゃく的な笑みが浮かんでいた。


 思いもよらない宣告を受け、目を見開き怯えるリシェルを見て、満足気に目を細めた後、すっと表情を消す。


「せいぜい、私の機嫌を損ねないように気をつけるんですね」


 底冷えするような低い声と、冷酷さを宿して見下ろしてくるその目。震えながら、リシェルは悟った。自分とシグルトの関係は、強者と弱者なのだ、と。自分が気づかなかっただけで、ずっと前から。師弟関係、婚約者同士という聞こえのいい言葉で誤魔化され、勘違いしていたに過ぎない。


 ルーバスの言葉が蘇った。

 弱い者は強い者に従うしか無い。


「君は私から離れられない。一生私の側にいるしかない」


 リシェルの耳元に口を近づけ、呪いをかけるかのようにシグルトはささやく。心臓を指していた手が、白い素肌を上へと滑り、リシェルの肩からブラウスをずり落とした。


「君は私のものです。絶対に、誰にも渡したりなんかしない。絶対に――彼にも――――奴にも――――」


 熱に浮かされているような呟きと吐息が首筋にかかり、口づけに変わる。素肌に与えられる、幾度も唇が吸い付く感触と、執拗にてのひらい回る感覚。


 次第に激しくなっていくそれらに、リシェルはただされるがまま、震えていた。

 彼の嘘を知って、もうシグルトのことを信じられない。そう思っていた。

 

 それでも、どこかでまだ信じていた。

 嘘をついても、魔力を奪っても、閉じ込めても……それでも彼は自分を直接傷つけることだけは絶対にしないだろう、と。


 その最後の信頼が裏切られ、絶望にリシェルは目を閉じた。

 再び涙が頬を伝っていく。


 その時――

 玄関の方から、大きな声が響いてきた。

 

「おーい! シグルト! いるんだろ!? 俺だ!」


 ブランの声だった。ぴたりと、シグルトの動きが止まった。


 驚いて反射的に玄関の方へ身をよじったリシェルは、そこで自分が動けることに気づいた。

 とっさに両手でシグルトを力いっぱい押しのけ、彼の下から逃れると、振り向きもせずに玄関に向かって走り出す。


「リシェル!?」


 玄関の扉を力いっぱい押し開いたリシェルの前に、導師のローブ姿のブランが立っていた。


「ど、どうした?」


 目に涙を溜め、髪を乱し、肩からずり落ちるほどはだけたブラウスの前をき合せて突然出てきた少女に、ブランはあっけに取られ、面食らっていた。リシェルは何か言おうと口を開きかけ――めちゃくちゃになった感情と思考では、結局何も言葉にならず、ブランの横を走り抜け、その場を逃げ出した。


「お、おい!」


 何も言わず去っていくリシェルを、ブランは引き留め追いかけようとしたが、途中ではっとしたように薄暗い家の中を振り返る。


「シグルト、あいつまさか――」


 ブランはそのまま勝手知ったる友の家に上がりこむと、扉が開いたままになっている居間に入った。

 

 そこには、放心したように力なくぐったりと、ソファにもたれる友の姿があった。そばの床には、リシェルが普段着ているグレーのローブが乱雑に投げ出され広がっている。何があったか察したブランは怒りでこぶしを握りこむと、足音荒く友に歩み寄った。


「シグルト! お前リシェルに何した!?」


 シグルトのローブの襟元えりもとを両手で掴み上げ、無理やり起き上がらせると、激しい口調で問いただす。


「ブラン……どうしてここに?」


 シグルトはぼんやりと虚ろな目で、怒り狂う友を見返した。


「セイラが急に呼びに来たんだよ! お前が大変なことになってるからすぐ来いって!」


 言われて、シグルトはブランの背後――いつの間にか居間の片隅にたたずむ、自身の忠実な下僕を見やった。黒い服のメイドは丁寧に頭を下げる。


「ご命令でもないのに、勝手なことをして申し訳ございません。……ただ、ご主人様が“止めて欲しい”と思っていらっしゃるように感じ取れましたので」


「……そうですか。ブラン、今回も邪魔しに来てくれたんですね」


「おい! どういうことか説明しろ!」


 怒鳴り散らすブランに揺さぶられながら、シグルトは床に落ちているリシェルのローブに視線を落とした。


 うなだれ、力ない声でつぶやく。


「……本当に最低だな、私は。間違えてばかりだ。いつも、いつも――」


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