93 自覚
リシェルは王城の堅牢な門を見上げて立っていた。
タニアと別れた後、リシェルは衝動的に法院ではなく、王城へ向かって走り出していた。エリックがいるはずの、王城に。
エリックに会いたい。会って、確かめたい。今すぐに。
エリックは多分クライルと一緒に王城内にいるはずだ。既に何度も出入りしている王城だが、今日はシグルトについてきているわけでも、ミルレイユに招かれているわけでもない。勝手に入ることなど出来ないし、どうやってエリックに会えばいいのか。
途方に暮れて、王城の正門を見上げ、突っ立っていると、不意に横から声をかけられた。
「あれ、リシェルちゃんだ。どうしたの?」
見れば、ダートンが目を丸くして立っていた。防具類を身につけているところを見ると勤務中のようだが、買い物帰りなのか、両手に袋を提げている。ここで彼と会えたのは運がいい。
「ダートンさん! あの、その、私……エリックさんに用があって……お会いできませんか?」
「隊長に?」
ダートンは少し怪訝そうしたが、すぐに笑顔になった。
「じゃあ、ついておいでよ。今日は隊長、城にはいないから。今日は大将の護衛じゃなくて、兵舎で若手の兵士たちに剣の訓練つけてくれてるんだ。多分そろそろ終わると思うから、話せると思うよ」
「ありがとうございます!」
深く詮索はせずに、快く案内してくれるダートンに感謝しつつ、リシェルは彼の後について行った。
ダートンと歩いてしばらくして、兵舎へと着いたリシェルは、そのまま併設されている訓練場へと案内された。
広い敷地の真ん中で、大勢の兵に取り囲まれ、二人の男が練習用の木剣で打ち合っていた。一人は若い兵、もう一人は黒髪の長身の男――エリックだ。
相変わらず無駄のない動きで迫る攻撃をいなし、あっという間に相手の喉元に剣先を突きつけた。相手の兵士はすでに息を切らし、疲労しきった様子でその場に膝をつく。対してエリックの方は涼し気な顔で淡々と剣を収めると、足の踏み込みがどうだとか、相手に兵士に何やら助言している。
「エリックさん……」
彼の姿を見て、リシェルは緊張で鼓動が早まっていくのを感じた。
「今日はここまで」
「ありがとうございました!」
エリックが終了を宣言し、兵たちが訓練の礼を言うと、ダートンは声を張り上げた。
「隊長! お客さんですよー!」
その場にいた全員が一斉にこちらを見て、リシェルは思わず縮こまった。知っている顔と知らない顔、半々くらいだろうか。
「可愛い子だな……魔道士? まさか隊長の彼女?」
「違うって。お前知らないのか? ほら、シグルト様の……」
「あーリシェルちゃんだぁ」
兵たちがひそひそ囁く中、エリックと目が合う。まさかリシェルが自分に会いにくるとは思っていなかったのだろう。珍しく驚いた様子で、固まっている。だが、周囲の好奇の目に気づくと、すぐに表情を消し、つかつかとリシェルへ歩み寄ってきた。
「あの、エリックさん、私――」
「ついて来い」
歩みを止めずにリシェルの横を通り過ぎると、そのまま足早に行ってしまう。リシェルはダートンと兵たちに一礼すると、そそくさと彼の後を追った。
背後でダートンの「訓練お疲れ様。差し入れだよ」と言う声と、直後にあがった兵たちのわっという歓声が聞こえ、遠のいていく。
振り向きもしないエリックの背を追って着いた先は、兵舎裏の人気のない空き地だった。
「……急に来て、何の用だ?」
ようやく足を止めたエリックは、リシェルと向き合うのを避けるかのように、近くの壁に腕を組んでもたれる。
以前の宴会の時と同じ、よそよそしく、素っ気無い態度に怯むまいと、リシェルは胸元のローブをぎゅっと握り締めた。服の下にある、エリックからもらったペンダントの固い感触を確かめる。
「さっき……タニアさんという方に、偶然お会いしました。ご存知……ですよね? カロンに昔住んでいた方です」
エリックがわずかに目を見開いた。さっと視線をそらし、俯く。動揺しているのは明らかだ。
「その方が、私のことを……エレナちゃん、と」
「……」
「そして……エリック君は…………お兄ちゃんも、無事なのか……って」
過去の記憶を失っていることを打ち明けると、タニアは自分が知っていることを話してくれた。
十年ほど前、二人の子供を連れた黒髪の女性がカロンの村に現れた。名はリーザ。彼女は東の国の出身で、内戦状態にあった故郷から逃れてきたという。子供たちの名前は、エリックとエレナ。三人は親子で、父親は既に戦で亡くなっていたらしい。リーザたちはカロンの村に温かく迎え入れられ、慎ましやかに暮らしていた。
子供たち――エリックの方は活発で元気な子だったが、エレナの方は性格も大人しく、病気がちでよく寝込んでいた。体が弱いのは母親のリーザも同じだったのか、数年後、彼女もやがて病に倒れ、二人の子供を残して帰らぬ人となった。
――エリック君はしっかり者で、妹想いの、本当に優しい子でね。リーザさんが亡くなった後も、体の弱いエレナちゃんを一所懸命守ってたのよ。
タニアは目に涙を浮かべながら語った。
エリックはエレナの面倒を見ながら、村の人々に助けられ、二人でなんとか生活していた。だが、エレナの病が次第にひどくなっていき、エリックは彼女の病気を治せる魔道士を探しに王都へと旅立った。そして彼が村に再び戻った時、共にいたのが灰色の髪の魔道士――アーシェだった。
「エリックさん……あなたは…………私の兄、なんですか?」
問う声は、緊張で震えていた。
彼は、自分の家族なのだろうか。
彼は……自分の兄なのだろうか。
エリックは黙ったまま。
「答えて……ください」
知りたい。本当のことが。
祈るような気持ちで待っていると、ようやくエリックが口を開いた。
「……違う」
嘘だ。彼は誤魔化そうとしている。
直感がリシェルを感情的にした。
「エリックさん! 本当のことを教えてください! どうして何も話してくれないんですか!?」
「……違うと言っているだろう。もう帰れ。あいつのところに。一人でふらふら出歩くな」
エリックはちらりと一瞥だけくれると、冷たく言い放ち、もう話は終わりだと言わんばかりに、歩き始める。
「エリックさん!」
リシェルは駆け寄ると、エリックの腕を掴み、無理やり引き止めた。逃すまいと、まっすぐに長身の彼を見上げ、目を合わせる。
「私っ……私は、エリックさんを信じます! 信じるなら、過去のことを話してくれるって、そう言ったじゃないですか! だから、教えてください! エリックさんが知ってること全部……全部信じるから! お願いします!」
エリックはじっとリシェルを見下ろした。先程一瞬見せた動揺は消え、今はいつもの感情の見えない無表情だ。
「お前はあいつを信じると決めたんじゃなかったのか? どうした? あいつと喧嘩でもしたか?」
「……私……先生のことが、もう、よく……わからなくて……」
「なら――」
エリックが手を持ち上げ、そっとリシェルの頬に触れた。
「このまま俺と来るか?」
「え?」
柔らかな囁きと、頬に指先だけ優しく触れる感触。そして、すぐ目の前にある、秀麗な美貌に心臓が跳ねる。
その何かを切望するような黒い瞳には、戸惑うリシェルの顔が映っていた。リシェルだけが。
「俺はお前の兄だ」
「……!」
「……そう言ったら、お前は俺の所へ来るか? あの家を出て、あいつを捨てて……二度とあいつに会えなくなっても?」
エリックが兄であるなら。ようやく見つけた家族であるなら。
彼の元ヘ行くのは何も不自然なことではない。兄妹なのだから。
自分を騙し続け、閉じ込めたシグルトから逃げ出した今の自分にとって、エリックの申し出は迷うようなものではないはずだ。
なのに。
リシェルは即答できなかった。
「そ、それは……」
なぜだろう。
もうシグルトのことは信じられないのに。
エリックが自分の兄だと確信しているのに。
言葉に詰まるリシェルを見て、エリックの瞳が切なげに揺れた。
「結局、お前は――」
苦しげに呟き、リシェルから目をそらす。その時、エリックは見つけた。リシェルの足元の影に浮かぶ、麦粒ほどの大きさの一対の赤い目を。目を凝らさねば気づかない程小さなそれは、こちらをじっと注視していた。
エリックは何も言わず、リシェルから手を離した。
「エリックさん?」
「もう帰れ。俺はお前の兄じゃない」
彼の声も表情も、再び冷淡なものに戻っていた。顔を背け、離れようとするエリックに、リシェルは引き留めようとすがりついた。
「嘘です! だってタニアさんが……!」
「人違いだ」
「嘘!」
「嘘じゃない」
「あなたは私の兄なんでしょう? カロンの村で、私達は一緒にいたんですよね? それに、アーシェさんも……!」
アーシェの名に、エリックの長いまつげがわずかにぴくりと震えた。
「私は病気だったの? 病気の私を助けて欲しいって、最後にアーシェさんが先生に頼んだっていう、先生の話は本当? エリックさんもその場にいたんですか?」
「アーシェが最後にあいつに頼んだ? あいつがそう言ったのか?」
はっとしたように、エリックが再びリシェルに視線を戻す。
「やっぱりアーシェさんのこと知ってるんですね?」
「……」
「どうして何も話してくれないんですか?」
「……帰れ」
ここまできてもなお、何も話そうとしないエリックに、リシェルは苛立ち声を上げた。
「何か兄妹だって言えない事情でもあるんですか!?」
エリックが突然、リシェルの両肩を強引に掴んで引き寄せた。驚いて見上げた顔は、眉根を寄せ、怒っているようにも、苦悩しているようにも見えた。そして漆黒の瞳にあったのは――深い悲しみだった。
「エリックさ――」
突然――リシェルの唇に、温かいものが触れた。
視界いっぱいに、焦点が合わずにぼやけたエリックの顔がある。
肩を掴まれる力の強さとは裏腹に、唇に触れる感触はひどく弱々しく、優しいものだった。
一瞬のことだった。
何が起こったかわからない。
唇に感じた温もりはすぐに離れていく。
「……妹にこんなことすると思うか?」
エリックが囁き、唇に吐息がかかった。
口づけされたのだ……と、ようやくリシェルは理解した。
「わかったら早く帰れ」
呆然とするリシェルに、エリックは背を向けた。
「俺がお前に近づいたのは、お前を利用して、あいつに復讐したかっただけだ。だが……もういい。どうしたってあいつには勝てないとわかったからな。復讐はやめるから安心しろ。本当に、俺とお前は何の関係もない。だから、もう来るな。……俺のことは忘れろ」
そのまま、一度も振り返ることなく、去っていく。
エリックの背を見つめながら、残されたリシェルは無意識に指先で唇に触れた。
唐突に奪われた、生まれて初めての口づけ。だが、動揺と混乱はあっても、不思議と怒りも不快感も湧いてこない。ルーバスに奪われそうになった時はあれほど嫌悪感を抱いたというのに。
兄ではないと否定され、拒絶された悲しみと同時に――どこか安堵している自分がいる。
兄妹ではないのだ、と。
やっとわかった。
いや、本当はずっと前にわかっていた。
目を背け続けた、自分のエリックへの気持ち。
もう、認めざるおえない。
(ああ、私、エリックさんにずっと――)
恋、してたんだ――
それから、どこをどう歩いたのか、わからない。
混乱と戸惑いで、何一つ考えがまとまらず、兵舎を出た後はただただ街の中を歩いた。
考えるべきことは他にもあるのに、頭の中にはどうしてもエリックのことしか浮かんでこない。
ようやく恋心を自覚した相手との初めての口づけは、しかし物語のように甘いものではなく、自分を遠ざけ、拒絶するためのものだった。
彼は、本当に自分の兄ではないのだろうか。どちらにせよ、カロンで共に暮らしていたことは間違いないのに、なぜ彼はそれを隠そうとするのだろう。アンテスタでの彼は、おそらく自分に真実を伝えようとしてくれていたはずなのに。
エリックのことがわからない。エリックの考えも、自分のことをどう思っているのかも……
近くの木の上でカラスが大きな声で鳴き、羽ばたいた。物思いに沈んでいたリシェルは、そこでようやく我に返った。
(ああ、そうだ……私、ブラン様に会わないと――)
だが、前を見てはっとする。すぐそこにあったのは、シグルトの家。気づけば太陽はだいぶ傾き、家の白い壁は茜色に染まっていた。どうやら、ぼんやりしていたせいで、我が家への歩き慣れた道を体が勝手に辿ってきてしまったらしい。
慌てて引き返そうと、振り返った半ばで、息が止まりそうになった。
目の前にシグルトが立っていた。
「おかえり、リシェル」
すべてを焼き尽くすような眩しい夕日を背に、シグルトの全身は逆光で影を帯びていた。
「どうしたんです? 家に入らないんですか?」
いつも通りの、穏やかな声と表情。
だが、常とは違う不穏な気配に、リシェルは身をすくませた。
「さあ、帰りましょう」
シグルトの手が伸びてきて、そっと背を押し促してくる。
こちらをじっと見下ろす紫の瞳が、光を失い、濃い闇色に染まっているのを見て、リシェルの背筋をぞくりと冷たいものが走っていった。
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