90 花嫁衣装
「……結婚式のドレス……試着に行きたいです」
その日の仕事から帰るなり、いつものように様子を見に現れたシグルトに、リシェルは切り出した。
「急にどうしたんです?」
いつも部屋に入っても、冷たく顔を背けられていたシグルトは、久しぶりにリシェルの方から話しかけられ、少々驚いた風だ。リシェルは不自然にならないよう、続けた。
「仕立て屋さんにサイズ調整するから来てくださいって言われてるんですよね? 早く行かないと式当日に間に合わないかもしれませんし。それに、部屋に閉じこもっていると気が滅入るし、外に出たいんです。……駄目ですか?」
シグルトは答えず、しばしじっとリシェルを見つめる。内心の想いを見透かされているようで、リシェルの心臓は早鐘を打っていたが、必死で顔に出さないよう無表情を保つ。
やがて、シグルトはふっと微笑んだ。
「……もちろん、私が一緒なら構いませんよ。では、明日行きましょう。ちょうど仕事も休みですし。試着が終わったら久しぶりに外でお茶でもしましょうか」
リシェルはほっと胸を撫で下ろした。これで家の外に出れる。家の外に出れさえすれば――
「リシェル、夕食まだですよね? 今日は下で一緒に食べません?」
「…………はい」
頷くと、シグルトはにっこり笑う。リシェルの態度が軟化してきたと喜んでいるのだろう。その笑顔に気まずさを感じて、リシェルはそっと目をそらした。
「わぁ、リシェル様、すごくお綺麗ですよ!」
ドレスの着替えを手伝ってくれた女性店員の声が、室内に楽しげに響いた。
いつもシグルトと通っている王都の仕立て屋。試着のためにあてがわれた一室で、リシェルは視線を持ち上げ、目の前の大きな鏡を見た。
鏡の中には白い花嫁衣装をまとった自分が立っている。繊細なレースと細やかな花の刺繍に飾られた美しい純白の生地。広がるスカート部分は絨毯の上に優雅に広がっている。可愛らしくも上品なデザインは、あまりこだわりのない自分に代わって、シグルトがやたら熱心に、ああでもないこうでもないと仕立て屋と相談して決めたものだ。彼が、リシェルの――花嫁のために作ってくれたウェディングドレス。
今日は試着だから、化粧もしていないし、髪も下ろしたままだ。それでも、目の前の自分は確かに花嫁だった。
「よかった、サイズも微調整もいらないくらいぴったりですね。今、シグルト様をお呼びしてきますね!」
年配の女性店員は喜々として、部屋の外へ出て行った。間を置かず、再び扉が開く。
部屋に入ってきたシグルトは、リシェルを見るなり、目を見開き、惚けたようにしばらく突っ立っていた。
「シグルト様ったら見惚れてしまって。ねえ、お綺麗でしょう?」
「ええ……女神か天使でも現れたのかと思いましたよ……」
「先生、おおげさです……」
女性店員に問われ、照れることもなく花嫁への賛辞を口にするシグルトに、リシェルもさすがに気恥ずかしくなってくる。
シグルトは気持ちを落ち着けるように深く嘆息すると、リシェルに歩み寄り、柔らかく微笑む。
「リシェル。本当に……綺麗ですよ」
心底嬉しそうなその笑顔を見て、ずきんとリシェルの胸が痛んだ。自身に注がれる恍惚とした眼差しに、思わずうつむく。
もし、何も知らないままだったら――
きっと自分は今、彼の笑顔を見て、同じように幸福感に満たされていただろう。
でも、今心に湧いてくるのは……彼を欺いていることに対する罪悪感と、彼と喜びを分かち合えないという悲しみだった。
「はあ……もうこのままで家に連れて帰りたいくらいです」
「それは式当日になさってくださいね。当日はもっとお綺麗ですよ」
女性店員はなかなか部屋から出ていこうとしないシグルトを追い出すと、リシェルがドレスを脱ぐのを手伝ってくれた。
「噂では聞いてましたけど、シグルト様、本当にリシェル様に夢中なんですね」
「え、噂?」
「ええ、大魔道士様は国王陛下や居並ぶ高官の前で弟子を愛している、彼女以外を妻にするつもりはない、ときっぱり宣言された。その愛の宣言に陛下もいたく感動され、自分の娘をシグルト様に……と考えていた貴族たちはみな諦めた、と。王都ではみんな知っている話ですわ」
「えっと……」
なんだか、少々事実と違う。どうやら噂というのはあれこれ尾ひれがつくものであるらしい。
「貴族の生まれではないとはいえ、誰もが認める国の英雄ですもの。そのうちどこかの貴族のご令嬢とご結婚されるんだろうと思ってましたが……失礼かもしれませんが、選ばれたのがリシェル様だからこそ、みんな祝福しているんだと思います。英雄が選んだのはお姫様でもご令嬢でもなく、愛弟子だった……ああ、打算のない真実の愛なんだなってよくわかりますもの」
女性店員はこの手の話が好きなのか、目を輝かせてよくしゃべった。
(真実の……愛……)
リシェルはドレスを脱ぎながら、考えた。
自分がシグルトに不釣り合いなのはよくわかっている。国の英雄と、何も持っていない孤児。本当なら出会うこともなかっただろう。自分とシグルトを繋いでくれたのはアーシェだ。シグルトの話を信じるなら、彼の自分への執着の原因に、アーシェのことがあるのは間違いないだろう。
病気だったリシェルを助けて欲しいというアーシェの願い。アーシェを守れなかった後悔。故にリシェルを守るという誓い。
すべてが合わさってリシェルへの執着になった。だが……その執着を愛と呼んでいいのだろうか?
「あんなに愛されて、羨ましいですわ」
店員ににこにこと言われ、リシェルは曖昧に笑って返した。
自分は本当に彼に愛されているのだろうか? 本当に愛しているのなら……リシェルの意思を無視して、魔力を奪ったり、部屋に閉じ込めたりするだろうか?
着替えが終わり、来店時のグレーのローブ姿に戻ると、店員が思い出したように言った。
「ああ、そうだ。以前来ていただいた時にご注文のお洋服も出来てるんでした! 今お持ちしますので、少々お待ちくださいね」
彼女は足早に、部屋を出ていく。シグルトが待っているであろう廊下側の扉ではなく、大量の衣装がしまわれているらしい別室の方へだ。シグルトはまだ着替え中だと思って、扉の前で待っているはず。
――今がチャンスだ。
リシェルは部屋の窓を全開にした。この部屋は一階だ。窓から庭に出られる。窓枠をよじ登り、外へと出た。足が地面に着くなり、リシェルは走り出す。
この店には子供の頃から何回も来ている。庭の裏手にも通用口があることは知っていた。そちらからなら、誰にも気づかれずに外へ出られるだろう。
緊張で心臓がばくばくと早鐘を打った。
程なく、小さな鉄格子の裏門が見えてくる。速度を落とさず人気のない裏庭を一気に走り抜ける。
門扉に手をかけた。押し開こうと力をかけ――
「どこへ行くんです?」
背後からした声に、リシェルの身は絶望で硬直した。ぎこちなく振り返ると、シグルトが腕を組んで立っていた。
「先生、なんで……」
「君の考えていることなんて大体わかりますよ。家の外に出れば私の目を盗んで逃げられるとでも思ったんでしょう?」
シグルトは怒るというより、呆れ顔だ。
「何度言えばわかるんです? 外は危ないんです。私のそばを勝手に離れちゃ駄目ですよ」
幼い子に言い聞かせるように言いながら、シグルトは歩み寄ってくる。距離を取ろうとするが、後ろは門扉だ。リシェルはすぐに追い詰められてしまう。
「今日は君とこのあとお茶でもしたかったんですが……どうやら無理みたいですね。さあ家に帰りましょうか」
伸びてきた手をリシェルは振り払った。きっと威嚇するように睨みつける。
「私……いつまで家に閉じ込められていなきゃいけないんですか?」
「だから、閉じ込めるだなんて誤解ですって。言ってくれれば、今日みたいにどこへだって連れて行ってあげますから」
「私は……何も自分で決められないんですか? 外出も、魔道士になることも、何もかも……先生がいいって言わなきゃ、諦めるしかないの?」
言いながらリシェルは、気取られぬよう、後ろ手で門扉の取っ手に手を伸ばした。上手く開けられれば、外に出られるかもしれない。人目がある場所に出れば、シグルトも無理やり連れ戻すなんてことはできないだろう。
「先生は……私の魔力を封印して、嘘をついて、自由を奪って……何がしたいの? 私を……どうしたいんですか?」
「……言ったでしょう? 私は、ただ君を幸せにしてあげたいんですよ」
昨日と同じ質問に、やはり繰り返される同じ返答。リシェルは唇を噛んだ。
「じゃあ、私の……私の幸せが魔道士になることだって言ったら……封印、解いてくれますか?」
「駄目です。言ってるでしょう? 魔道士は――」
「私の幸せをどうして先生が決めるんですか!?」
リシェルは叫ぶと同時に、後手で掴んだ取っ手を力いっぱい下げ、体重をかけて門扉を押し開けようとした。
だが、施錠されているわけでもないのに、門扉はびくともしない。
わずかに魔力の発生を感じる。シグルトが魔力で門を閉じているのだろう。とっくにリシェルの意図など見抜かれていたのだ。
逃亡に失敗したリシェルの上に、影が覆いかぶさる。恐る恐る見上げれば、両手を門扉の鉄格子にかけ、リシェルを両腕で囲い込むようにしながら、シグルトが見下ろしていた。
「……君を幸せに出来るのは、私だけなんですよ」
どこまでも身勝手な主張が降ってくる。リシェルは拳を握りしめた。
「それは、先生が考える幸せですよね?」
「……君は世間を知らない。魔道士になることの不幸も。私の言う通りにした方がいい。私が必ず君を幸せにしますから」
穏やかな、だが選択を許さない圧を含ませた説得に、強烈な反発心が湧き上がってくる。
「私は……幸せにしてなんて……そんなこと先生に頼んだことありません。それに……私が魔道士を諦めて、先生の言う通りに生きたら……幸せになれるのは、私じゃなくて、先生じゃないんですか?」
目の前で紫の瞳が揺れる。
一度口にしてしまえば、心に抱いていた疑念をぶちまけずにはいられなかった。
「私を守って、幸せにしてやったって思えれば、アーシェさんへの贖罪が出来る……罪の意識をなくせるって、そう思ってるんじゃないですか? 先生は……自分のために、ただ私を利用してるだけなんじゃないですか!?」
感情に任せて言い放った後、すぐに後悔の念が湧いた。
シグルトの表情がひどく苦しげに歪んだからだ。この顔を、前にもどこかで見た気がする。こんな顔をしてほしくない。そう思ったはずなのに。彼を……傷つけてしまった。
「確かに……君を守りたいなんて言って……結局、全部自分のためなのかもしれない……私は……最低な人間ですから……」
苦渋に満ちた声を絞り出した後、ほとんど聞き取れぬほど小さくつぶやく。
「でも……あの時、君は……言ってくれたじゃないですか……」
「あの時……?」
いったい何のことだろう? 自分が何を言ったというのだろう?
「リシェル……君がどう思おうと、私は君を愛しています。それだけは絶対に嘘じゃない。たとえ……愛し方が間違っているのだとしても」
愛をささやきながら、悲しみに満ちていた紫の瞳は次第に、仄暗い闇に濁っていく。
「……私は、君を絶対に手放したりしない。絶対に……他の誰にも触れさせない。渡さない。そのためなら、私はどんなことだって……たとえ君に罵られて……憎まれても……」
自分に向けられる感情の大きさに、ぞくりと背筋が凍り、リシェルは無意識に身を引く。鉄の門扉が押されて、がちゃりと音を立てた。
彼を傷つけた後悔より、彼のあまりにも重い執着への恐怖が大きくなっていく。
「さあ、帰りましょう」
「い、嫌です」
「リシェル、我儘を言わないで」
「嫌っ」
こうなっては逃げようがないと理解しながらも、リシェルは子供のように首を振って拒んだ。連れ戻されたら、もう二度と彼からは逃れられないだろう。
シグルトはため息を吐いた。
「困りましたね……本当はこれ以上、君に魔法を使いたくはないのですが……仕方ない」
鉄格子にかけられていた手が離れ、リシェルの顔へと伸びてくる。
(眠らされる――!)
直感的に悟り、リシェルは絶望した。
その時――
「お前達、こんなところで何しとるんじゃ?」
聞き覚えのある声に、顔だけ振り返れば、鉄格子の向こうに、ローブ姿の初老の男が立っていた。ぽかんと目を丸くしてこちらを見つめている。
シグルトの師匠――オルアンだった。
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