88 嘘
最初に感じたのは、ひどい疲労感だった。
全身が、重だるい。目を開ける気力すら湧かない。
もう一度、このまま眠ってしまいたい。
その眠気を押しのけ、なんとかまぶたを開いたのは、すぐ近くで人の気配がしたからだ。
「先生……」
目を開くと、心配そうに自分を見下ろすシグルトの顔があった。
「……よかった。目が覚めたんですね」
シグルトはほっとしたように言ったが、その表情はどこか硬い。
リシェルはぼんやりした頭で、あたりを見回した。見慣れた自分の部屋。ベッドに寝かされている自分。その横に座るシグルト。既視感のある光景だ。
「私……なんでここに……?」
またいつかの日のように、酒を飲んでしまったのか。いや、違う。今日は確か法院にいたはず。
ひどく記憶が曖昧だ。
リシェルはゆっくり上半身だけ起き上がった。ずきん、と頭が痛み、思わず呻いて手でこめかみを押さえる。
「大丈夫ですか? まだ休んでいたほうがいい」
シグルトに気遣うように言われ、頭の痛みをこらえながら考える。
なぜ彼はこんなに自分を案じているのだろう? 何があった?
今日は朝からシグルトがいなくて、一人で法院で仕事をして、それから――
徐々に記憶が蘇るにつれ、リシェルの顔色が青ざめていく。
「私……ルーバスさんが……急におかしくなって……」
あの時の恐怖が思い出され、無意識に、彼に掴まれた感触の残る腕を手でぎゅっと握りしめる。
「彼はもうここにはいません。大丈夫」
シグルトは労るようにそっとリシェルの頬を撫でた。
「怖かったでしょう? 彼からの呼び出しの手紙を受け取ったのが、国王との会議が終わった後だったので……急いで向かったのですが、君に怖い思いをさせてしまいましたね。見たところ怪我はないようですが……彼に何もされませんでしたか?」
「私は……大丈夫でした。パリスが来て、助けてくれたから……そうだ、パリス……パリスは!?」
血まみれで倒れる友の姿を思い出し、リシェルははっと顔を持ち上げた。シグルトのローブを縋るように両手で掴み、詰め寄る。
「落ち着いて。大丈夫。彼なら生きていますから」
「どこにいるんですか? 会わせてください!」
「……」
「先生? パリスは無事……なんですよね?」
シグルトは答えない。その表情は暗く翳っていた。不安が増していく。
「先生!」
必死の問いかけにシグルトは、重々しく口を開いた。
「彼は……一命は取り留めましたが、まだ意識が戻っていません。腹部に攻撃魔法の直撃をくらったので、かなり危険な状態です。私もできる限りの処置はしましたが……今は法院内の治療室にいて、ブランが付き添っています」
「そんな……パリス……」
身体から力が抜けていく。シグルトのローブから手がすべり落ち、リシェルはうなだれた。
「私の……せいだ……私を助けようとして、パリスは……」
「リシェル。それは違う。君のせいじゃない」
「私が……ルーバスさんについて行かなければ……私が自分のこと、ちゃんと守れたら……パリスは……」
シグルトの慰めも耳に入らず、リシェルは自分を責めた。
あの時ルーバスについて行かなければ。
自分に自分を守れるだけの力があったのなら。
後悔が押し寄せる中、思い出す。
「私……パリスが死んじゃうって思って……そしたら、頭の中で、何かが弾けて……魔力が……」
そう、激しい感情の波が押し寄せ、身体の中から溢れ出てきたあの衝動は……魔力だった。
それも、自分が呑み込まれてしまいそうになるほどの膨大な魔力。
「魔力が……溢れて……?」
リシェルは自身の両手を開き、見下ろした。
稀に、突然に強い魔力が覚醒する者もいるという。まさか、自分もそうなのだろうか。
そっと両手を前に掲げ、集中する。リシェルが唯一いつでも完全に使えていた、光を生み出す初歩中の初歩の術。パリスが教えてくれた、最初の魔法。
だが、どれだけ待っても、リシェルの手の中に光が生まれることはなかった。
「魔法が……使えない……?」
正確には、魔力そのものが今は全く発生していない。まるで、ブランに魔力を引き出してもらう前に戻ってしまったかのように。
「どういう……こと? 私、あの時確かにすごい魔力が溢れてきて……なのに、今は全然……」
シグルトは先程から一言も発しない。見上げれば、彼はただ無表情でリシェルをじっと見つめている。
心の奥底から嫌なものがじんわり滲み出す。不吉な予感と、疑念が。
「もしかして……先生が、何かしたんですか?」
「……」
「先生……私、本当は……魔力が、あるの?」
「……」
「先生!」
口を開かない師に苛立ち、リシェルは声を思わず大きくした。
「先生が答えてくれないなら、誰かに調べてもらって――」
「君の魔力は」
遮って、ようやくシグルトが口を開く。
「少々、人より強くてね。制御しきれず、さっきのように暴走する可能性もあった」
「そんな……さっきみたいなこと、今まで一度だって」
「私が君の魔力を封印して、抑えていましたから」
シグルトの答えに理解が追いついていかない。混乱する頭で必死に考える。
魔力を封印していた? 抑えていた?
それは、つまり。
「どういう……ことですか? 私には強い魔力があって、でも先生が封印していて……それで私は、ずっと魔力を、魔法を使えなかったって……そういうこと……ですか?」
「そうです。ブランに封印の一部を壊されて、少しだけ魔力が漏れてしまっていましたが。今回の君の魔力の暴走も、その封印の綻びが原因でしょう。封印をかけ直したので、もう今回のようなことは二度と起こらないはずです」
シグルトは詫びれもせず、ただ淡々と説明する。
「じゃあ、今の私はまた……もう……完全に魔力が……魔法が使えなくなったって……ことですか?」
「そうです」
事もなげに肯定され、状況を理解すると、湧き上がってきたのは――怒りだった。
「魔力の封印なんて……なんでっ……そんなことを?」
「君の安全のためです」
「それならっ……そうと、なんで……なんで教えてくれなかったんですか!? 私に強い魔力があるって! 先生、私には才能ないって言ったじゃないですか! なんで嘘ついたんですか!?」
「……」
再び口を閉ざすシグルトに、疑念と不信が溢れてくる。
「私を、魔道士にさせたくないからですか?」
「……魔力があると分かれば、君は魔道士になることを諦めてはくれなかったでしょう?」
「どうして、そこまで……嘘ついてまで、私を魔道士にしたくないんですか?」
「……私は、ただ君を守りたかったんです」
(守りたかった? 本当に?)
シグルトの言葉にも少しも不信は拭えない。
リシェルはぎゅっとベッドのシーツを握りしめた。シーツにいくつもの皺がよる。
「私……ずっと法院で魔法が使えないって馬鹿にされて……ひどいこともたくさん言われてきました……先生だって知ってましたよね?」
「……」
初歩の魔法すら使えない、才能のない娘。シグルト様はなんであんなのを弟子にしたのか。どうせ本当は愛人なのだろう――
偶然耳にした陰口、あるいは直接投げつけられることもあった悪口。言葉でなくとも突き刺さる冷たい軽蔑の視線。
「気にしないようにしてたけど、やっぱり辛くて……だから、初めて魔法が使えた時は、本当に嬉しくて……毎日修行……頑張ったんです」
どんな時も修行は欠かさなかった。魔道書だって頑張ってたくさん読んだ。いつまで経っても上達が見えなくても、地道に、精一杯努力してきた。
「でも……魔力が封印されてたなら、私の努力は全部……無駄だったってことですよね? 先生は……毎日毎日、無意味な修行を頑張ってた私を……一体どんな気持ちで見てたんですか?」
シグルトは微かに瞳を揺らしたが、口を閉ざしたまま。リシェルは声を荒げた。
「答えてください!」
「早く……諦めて欲しいと、そう思ってました」
「……!」
師の身勝手な答えに、リシェルは怒りと、悔しさに唇を噛んだ。
「ひどいです……私が今まで、どんな思いで……」
シグルトが魔力の封印などせず、六年前、初めから弟子にその扱いを教えてくれていたのなら。リシェルは今頃それなりの腕の魔道士になっていたはずだ。
もしそうだったなら――
法院で蔑まれ辛い思いをすることもなく、シグルトの弟子として認められ、他の魔道士たちにも受け入れられていたかもしれない。
自分にだって、もっと自信を持てていたはずだ。
何よりも――今回ルーバスに抵抗することだって出来ただろう。
「私に、私に力があれば……パリスはきっとあんな目に合わなかった……」
リシェルはきっと睨みつけるように、その薄紅色の瞳で師を見上げた。
「封印、解いてください」
「駄目です」
「どうしてですか!?」
「……」
いつも肝心なところで黙り込むシグルトに、リシェルの苛立ちと怒りは増していく。
「先生が解いてくれないなら、ブラン様かディナに頼みます」
「やめておきなさい。彼らが怪我をすることになりますよ。私以外の人間が君の封印を解こうとしたら、攻撃を受けるようにしてあるので」
「なっ……!?」
「それにどのみち、彼ら程度の力では私の魔法は解けませんよ」
「なんで、そこまでして……」
理解出来なかった。なぜ、どうして、そうまでしてリシェルが魔道士になることを阻止しようとするのか。
「リシェル、君こそなぜそこまで魔道士にこだわるんです? 記憶を、過去を取り戻したいから? 過去のことならもう話したじゃないですか。君だって納得したはずです」
シグルトの態度は、穏やかながら毅然としていた。
まるで、聞き分けのない子供に対するように。我儘を言っているのは、悪いのは、リシェルであるかのように。
(嘘をついていたのは……先生なのに!)
魔力を奪われていた怒り、何も知らなかった悔しさ、裏切られていた悲しみ――湧き上がる感情に伴い涙が出そうになるのをなんとかこらえながら、リシェルは思いを吐き出す。
「それだけじゃありません。私はっ……大魔道士の弟子なのに、魔法が使えないってずっと馬鹿にされてきて……頑張って魔道士になったら、みんなに認めてもらえるかもしれないって……」
「今は十分認められているでしょう。私と婚約して、君を馬鹿にする人間なんてもういないんだから」
「そういうことじゃなくて……! 私は、今の私が嫌で……先生に守られているだけじゃなくて、先生の役に立てるような人間になりたいって、ずっとそう思って……!」
シグルトは深く嘆息した。そっとリシェルの手を取り、なだめるように諭す。
「リシェル。どうしてわかってくれないです? 私は君に役に立って欲しい、何かをして欲しいなんて思ってない。そんなこと考えなくていいと以前も言ったでしょう? 必要ないんですよ。私はただ、君にそばにいて欲しいだけなんです。ずっと、私のそばに」
必要ない――
握られた手の温かさとは反対に、リシェルは心が冷えていくのを感じた。
いつか恩あるシグルトの役に立ちたい。シグルトが誇れるような弟子になりたい。自分の目標であり、ずっと抱いてきた思いを、あっさりと切り捨てられ、芯を失ったようにシグルトへの信頼がぐらぐらと揺れ出す。
「リシェル、君に魔力なんて必要ありません」
シグルトは微笑む。いつものように。この六年、何よりも信じ、いつだって安心をくれた、優しい微笑みがそこにあった。
「君のことは、私が守りますから。この先一生、ずっと」
シグルトの両腕がリシェルの身体を抱き寄せ、包み込んだ。その手が長い黒髪を愛おしげに撫でていく。
「リシェル、嘘をついていたことは謝ります。君に辛い思いをさせてしまったことも。でも、どうかわかって欲しい。私は君を守りたい。失いたくないんです。君を、愛しているから」
温かな腕の中、耳元で囁かれる甘やかな言葉。
きっとそこに嘘偽りはない。
彼は本気でリシェルを守りたい、愛していると、そう思っているのだろう。
でも。
守っているのだから、何をしても受け入れられる。
愛しているのだから、何をしても許される。
彼がそう考えているのなら、それは――
リシェルはシグルトの胸を思い切り両手で押し返し、抱擁を拒否した。
「……愛してるって……守ってやるって言って……結局先生は、私を自分の思い通りにしたいだけなんじゃないですか? そんなの……ルーバスさんと一緒じゃないですか!」
シグルトは一瞬驚いたように目を見張ったものの、すぐにその顔から表情を消した。
リシェルはベッドから降り、シグルトの横をすり抜け部屋の扉へと向かう。
「どこへ行くんです?」
「先生には関係ありません!」
どこへ行こうというはっきりした目的があったわけではなかった。ただもう、今はシグルトと顔を合わせていたくなかった。
シグルトの手がぐいっとリシェルの腕を掴み、引き戻す。
「外へ出ては駄目です」
「放して!」
シグルトの手を振り払おうとし――
突然、強い立ちくらみに視界が暗転し、体が傾いだ。
「あっ……!」
よろけたリシェルの体を、シグルトが素早く支え、有無を言わさず横抱きにする。
「下ろしてください!」
抵抗を試みるも、ふらつく頭では手足に力も入らない。あっさりベッドに連れ戻され、横に寝かされる。
起き上がろうとしたところを押さえられ、シグルトの手が伸びてきて視界をうばわれた。温かな温もりと魔力の発生を感じると、急激に強い眠気が襲ってくる。
「な……にす……」
「魔力の暴走は、かなり身体に負荷がかかりますから。自覚しているよりずっと身体は疲弊しているはずです。きちんと休みなさい。しばらく法院での仕事もしなくていい。それから……ルーバス君はあの場から逃げて、見つかっていません。危ないですから、当分この家から出ないでください」
視界を塞がれた闇の中、シグルトの声が降ってくる。今にも意識が沈みそうになるのを必死でこらえるが、抵抗虚しく、まぶたはどんどん重くなり、徐々に閉じられていく。
目を覆う温もりが離れた。足音ともに気配が遠いていくが、もう目を開くことも出来ない。強烈な眠気に呑み込まれていく中、部屋の扉を開ける音がした。
「……今日は君の花嫁姿が見れると思って、楽しみにしていたのですが……残念です」
意識を手放す寸前、聞こえたのはシグルトの呟きと――
がちゃり、と外から扉に鍵をかける、冷たい金属音だった。
お読みいただきありがとうございました!
今回もぎりぎりでしたが日曜更新出来ましたー。
こういうヤンデレ感のあるシーンは書いてて楽しいです笑
ブクマもちょっと増えてる〜ありがとうございます