86 闇の中
リシェルは、真っ暗な闇の中にいた。
どちらが上で、どちらが下かもわからない。
感覚がおかしくなりそうな、一寸先も見えない、真の闇。
痛い。痛い。痛い。
頭が割れるようだ。
怒り。嫌悪。恐怖。悲しみ。不安。無力感。
そして、絶望。
様々な負の感情が次から次へと渦巻き、激しい衝動となって全身へ広がる。
細胞の一個一個が今にもばらばらになりそうだ。
思考も感情もまとまらない。
自分を保てない。
一体自分はなぜこんなところにいるのだろう?
何をしていたのだろう?
思い出せない。
自分の……名前さえも。
(私は――)
――エレナ!
突然、声が響いた。
痛みと激しい感情の波が遠のいていく。
闇の中、目の前にぼんやりと人影が浮かび上がる。黒髪の、ひどく整った綺麗な顔をした、年の頃十二、三の男の子。
(だ……れ……?)
――こんなところにいたのか。探したんだぞ。
少年が言いながら、柔らかく笑う。
見覚えのある、優しいその微笑みに、心臓がどきんと鳴った。
(エリック……さん……?)
――エレナもアーシェも早く来いよ!
少年はそう叫ぶと身を翻し、走り去ってしまう。黒髪が闇の中へ、溶けて消えていく。
(ま、待って……)
呼び止めようとするも、声は出ない。
存在するかもわからない、踏みしめる感覚もない地面の上を、必死で足を動かし彼の後を追う。
やがて、闇の中、大きな古びた鏡がぬるりと現れた。しかし、すぐ目の前の鏡に自身の姿はない。
鏡に映っているのは、長い黒髪の、年の頃十歳くらいの少女。無表情で、その大きな黒い瞳はガラス玉のように何の感情も宿していない。端正な顔立ちと相まって人形のようだ。
少女の艷やかな黒髪は軽く結われ、耳の上には愛らしい薄紅色の花――リシェルの花が差されている。
そして、少女の横には、その肩を抱いて、並んで立つ若い娘。切りそろえられた灰色の髪が、肩の上で揺れる。
(アーシェ……)
――ほら、やっぱりこうしたら可愛い! エレナは将来、大きくなったら絶世の美女になるわね。
アーシェは鏡越しに、少女ににっこりと笑う。
だが、賛辞にも少女は喜びを見せることなく、ぼそぼそと小さな声だけを返す。
――アーシェ……私は……大きくなれない……
少女の無感動な答えに、アーシェは一瞬悲しげに瞳を揺らしたが、すぐに優しく微笑んだ。
――そんなことない。大丈夫。あなたは大人になれる。病気なら絶対治るから。私の先生ならきっとあなたを助けてくれる。本当にすごい人なの……だから、心配しないで。
――本当? 私を、助けてくれる……?
――私がお願いしてあげる。弟子の最後の頼みくらい、きいてくれるはずよ。
アーシェは鏡の中の少女を目を細めて眩しげに見つめた。
――大人になったエレナ、綺麗だろうなぁ……きっとすごくもてるわ。でも、いい? 選ぶなら、エリックみたいな、いい奴にしなさいね。悪い男を好きになっちゃだめよ。ろくなことにならないから。……私みたいにね。
そう言うアーシェは、自嘲気味に笑いながらも、でもどこか幸せそうで。
――アーシェ……好きな人……いるの?
――振られちゃったけどね。エリックには内緒よ?
――どんな人?
――そうね。……女心をまるでわかってない、意地悪で、自分勝手な、ひどい奴……かな。
――どうしてそんな人……
アーシェは笑って、肩をすくめる。
――さあ、ほんと、なんでだろう? 私はローラの小説に出てくるような、かっこいい騎士や王子様に憧れてたはずなのにね。自分でもわかんない。気づいたら好きになってたの。エレナもいつか恋したらわかるかもね。
――アーシェは……その人に会いたい? ……一緒に、いたい?
少女が隣に立つアーシェを見上げる。表情こそないものの、その大きな黒い瞳に初めて、はっきりした感情が浮かんでいた。不安と、寂しさが。
――私は……アーシェと……ずっと一緒に……いたい……だから、どこにも行かないで……欲しい……
次の瞬間、アーシェの灰色の瞳が切なげに揺れる。
――ごめん、エレナ。ずっと一緒には……いられない。でも、私はいつだって、どこにいたって、エレナの幸せを祈っているから。だから、もしよかったら、時々私のことを思い出してね。私を……忘れないで欲しい。
言いながら、少女の首に両腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。まるで縋り付くように。
――エリックも、ディナも、ブラン様も……先生も、みんな私を忘れないでいてくれるかな?
強く抱きしめた少女の黒髪に、そっと顔を埋めたアーシェは――わずかに震えていた。
――誰かの思い出の中で生き続けられるのなら……消えるのも、きっと怖くないよね――
聞き取れぬほど、小さな声での呟き。
だが、頭の中でそれは鮮明に響く。
(アーシェ……?)
一体、彼女は何に怯えているのだろう?
鏡の中、黒髪の少女はやはり表情を少しも変えぬまま――そっとアーシェの背に手を回す。それが、彼女なりの精一杯の答えであるかのように。
抱き合う二人を映す鏡が、すーっとその輪郭を闇に溶かして消える。
――すまない。何もかも全部、私のせいです――
続いてどこからともなく響いてきたのは、若い男の声。
なんとなく視線を持ち上げれば、間近でこちらを見下ろす紫の瞳と視線がかち合う。
(先生――?)
シグルトは白いローブを纏い、その背景はいつのまにか闇から灰色の空へと変わっていた。
眉を寄せ、悲しげに瞳を揺らし、食いしばるように唇を引き結び――その表情は、苦渋に満ちていた。
――君を救うには、この方法しか――
声が、苦痛に耐えるように震えている。
――私を、憎んでいい。恨んでいい。それでも、私は――
今にも涙が零れそうな、その綺麗な瞳。
どうしてそんな顔をしているの?
何がそんなにあなたを苦しめているの?
胸が、どうしようもなく苦しくなる。
(そんな顔、しないで――)
そっと、シグルトの方へと手を伸ばした。
指先が彼の頬に触れる寸前、その姿は幻のように消え失せた。
同時に、灰色の空も掻き消え、世界は再び闇に戻る。
――愚かだな。だが、その愚かさこそが美しい――
突然、頭の中に直接響くように、男の声がした。
ねっとりと絡みつくような、嘲笑含みの、それでいてどこか恍惚とした――
悪寒が、全身を駆け巡る。
闇の中に、紅く光る一対の目が浮かび上がった。
黒一色の世界でそれは血のように鮮やかで。
ズキン、ズキン――
遠のいていた頭の痛みが戻り、早まる心臓の鼓動に合わせて、次第に激しくなっていく。
身体の奥底から、得体の知れない恐怖が膨れ上がる。
逃げ出したいのに、動けない。
叫びたいのに、声が出ない。
息が、出来ない。
呼吸の仕方がわからない。
苦しい。苦しい。苦しくてたまらない。
紅く光る目が、嘲笑うかのように、細まった。
その目を中心として、鮮血を思わせる赤い光線が蜘蛛の巣のように広がり、じわじわと自分に向かってくる。
恐怖、不安、焦燥、絶望。
次から次へと湧き上がる負の感情の嵐が、思考をぐちゃぐちゃに壊し始める。
怖い。怖い。怖い。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。
あれに捕まったら、私は――
(誰か、助けて――)
不意に――視界が遮られた。赤い目も糸も、何も見えなくなった。
誰かがまぶたにそっと触れている。
「――――リシェル」
すぐ耳元で声がした。よく聞き知った声。それは先程の、頭の中で響くものとは違い、空気と鼓膜を震わせて届いた。
「ゆっくり息をして」
言われた通りに、深く息を吸う。新鮮な空気が肺に入り、頭痛がゆるやかになっていく。
「……そう、いい子だ。今、封印をかけ直しますから」
体の中で激しく渦巻いていた感情が、衝動が、瞬く間に収束していく。心に吹き荒れていた嵐が収まり、安堵と静けさが戻ってくる。
「来るのが遅くなってすみません。もう大丈夫」
どうして謝られているのだろう? もう大丈夫? 何か、大丈夫じゃないことがあった?
一瞬、視界が白く光り、映像が浮かぶ。
倒れた青い髪の少年。真っ赤に染まったそのローブ。
あたたかな温もりに押さえられたまぶたから、じわりと涙が溢れた。
「せん……せい……パ、リス……が……」
「パリス君のことも心配しなくていい。必ず助けます。だから、君は安心して、今は眠って」
急激に、立っていられない程の疲労感と眠気が全身を襲った。穏やかな声に導かれるまま、意識がゆっくりと深く、沈んでいった――
シグルトは意識を失い、だらりと脱力したリシェルを背後から抱き止めた。彼女の両目を覆っていた左手を放すと、両腕でその身体を抱え上げ、近くの長椅子の上へと横たえる。
魔力の暴走も完全に収まり、リシェルはぐったりと目を閉じ動かない。その頬に一筋涙が流れ落ちていく。それを指先でそっと拭うと、シグルトはゆっくりと立ち上がった。
「さて――」
離れた場所から事態を見守っていたルーバスは、ごくりと唾を飲み込んだ。目の前の男にかつて刻みつけられた恐怖が蘇り、ひざが勝手に震えだす。
「どういうことか、説明してもらえますか? ルーバス君」
振り返った男の紫の瞳が、凍てつくような冷たさをたたえて、ルーバスを射抜いた。
お読みいただきありがとうございます!
時間に追われてまして、来週日曜に更新出来るか怪しいですが……頑張ります。