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83/106

83 あげるよ

 外はひどい雨だった。

 窓ガラスを大粒の雨が激しく叩いていく。


 明日には止むといいのだが。ルーバスは窓の外を眺めて、ため息をついた。


 ガルバ山のゴブリン退治のため、王都を遠く離れてもうひと月近く経っていた。予想よりもずっとゴブリンの数が多く、掃討にかなりの時間が掛かってしまった。ようやく任務を終え、帰路についたものの、あと少しで王都というところで、こんな豪雨に見舞われ、急遽近くの町で、配下の魔道士たちとともに宿を取っている。雨が止めば早朝に出発し、王都に着くのは明日昼頃だ。たかがゴブリン退治にどれだけ手間取ったのかと、帰ったらルゼルにどやされることだろう。


 少年のかん高いわめき声を思い出し、再びため息を吐き出しながら、目の前の机に向き直った。今は、宿の部屋で一人、今回の任務の報告書を書いている途中なのだ。だが、激しい雨音に集中力を乱され、先程から全く筆が進まない。

  

 ぼんやりと、机の上に広げた、法院から持ってきた資料を眺める。白い紙の上にそっと手を添わし、これを一緒に拾ってくれた少女のことを思い出す。艷やかな黒髪、優しく細められた薄紅色の瞳、何の悪意もなく自分を励ましてくれた可愛らしい唇――


 あの日から、彼女の笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。忘れようとしても、何度も何度も気づけば思い出してしまう。思わず、その名をつぶやく。


「リシェルさん……」


「本当に可愛いよね、彼女」


「……!」


 すぐ耳元でした男の声に、ルーバスは驚きのあまり椅子から床に転がり落ちた。椅子が派手な音を立ててひっくり返る。

 

 みっともなく床に尻もちをつき、見上げれば、先程まで確かに自分一人であったはずの部屋に、若い男が立っていた。

  

「やあ、こんばんは。すまない、驚かせてしまったみたいだね」


 濃紺のローブによく映える長く、美しい金髪。男は緋色の瞳を細めて微笑んでいた。


「あ、あなたは! ヴァ、ヴァイス導師!?」

 

 ルーバスの頭は激しく混乱していた。

 なぜ、彼がここにいる? 一体いつからいた? 部屋に誰かが入ってくる気配など感じなかったのに。


「勝手に入って悪かったよ。大丈夫かい?」


 ヴァイスは眉を下げ、申し訳無さげに手を差し出してくる。反射的に握り返した、ひんやりとした手に助けられ、ルーバスはよろよろと立ち上がった。


「遅くまでご苦労様。悪いんだけど、今、少し話せるかな?」


「あ、あなたがなぜここに……?」


「うん、君と話がしたくてね」


「わ、私とですか?」


「そう、君と」


 ルーバスは目の前の美貌の青年をまじまじと見つめた。


 六導師の一人、ヴァイス・ルグラン。まだ導師になって一年足らず。年は確か二十四だったか。導師の中では最も若輩だ。

 

 彼については謎が多い。魔術学院では成績が振るわず、中途退学。その後、先代導師リトーの屋敷で使用人として働いていたらしい。弟子というわけではなく、あくまで使用人。法院にも出入りしていなかったから、昨年リトーが突然自らの一番弟子として彼を導師会議に出席させるまで、誰も彼のことを知らなかった。彼についてはリトーの隠し子だとか、妻を亡くして以来独り身だったリトーの愛人だったとか、様々な噂と憶測が飛び交ったが、真実はわからない。


 だが、その実力は確かだった。弟子となって間もなく、次々と高難度の任務を一人でこなし、その力を証明してみせた。リトーの説明によれば、ヴァイスは魔術学院在籍時はたいした実力はなかったが、その後も諦めず独学で修行を続け、最近になって突然強い魔力が発現したため、弟子にすることを決めた――ということだった。確かに修行を始めて何年も経ってから魔力が開花する者は稀だが存在する。


 ルーバスは唇を噛んだ。自分もそうであったなら。だが、何度夢見ても、その奇跡は起きなかった。


 年下ながら魔力も地位も自分より上の青年に、ルーバスはへりくだって言った。

 

「な、なら、わざわざこんなところまでお越しいただかなくとも、法院でお呼び出しくだされば……」


「うーん、法院……というか守護結界のある王都では、僕は本来の力が使えないからね。だから、こうしてわざわざ来たわけさ」


「そうだ……結界……! 守護結界はどうされたのです!?」


 驚きのあまり忘れていたが、ヴァイスがここにいることの意味を思い出し、ルーバスは声をあげた。

 

 王都を守る守護結界。その維持は六導師の最重要責務だ。六導師が王都を離れれば、魔力の供給が途絶え、結界は弱まる。ゆえに導師たちは他の導師や国王の許可なしに王都を離れることは許されていない。


 まさか彼が、自分に会うという理由で王都を離れることを、国王や他の導師たちが認めたとは思えない。勝手に王都を離れたというのならば、先日のシグルトの事件同様、今頃法院では大問題になっているはずだ。


 だが、ヴァイスの態度には焦りは一切なく、あるのは余裕だけだ。


「ああ、それなら心配ないよ。今も通常通りに維持されているはずだ。そもそも僕はあの結界の維持には何の関係もないし」


「どういうことですか? 結界は六導師の魔力によって維持されているはず……」


 関係がない? 導師であるヴァイスも当然結界に魔力を提供しているはずなのに? ルーバスの戸惑いと違和感が増していく。


「リトー導師が魔力を提供してくださっているよ。ああ、元導師か」


「リトー様はご存命なのですか!?」


 事もなげに言われ、ルーバスは素っ頓狂な声を上げた。


 一年程前、リトーは突如急逝(きゅうせい)した。原因は魔道実験の失敗とされている。詳細は不明だが、自宅の地下実験室で何らかの魔道実験を行っていた最中、魔力暴走による爆発が起き、発見時彼の体は原形を留めぬほどばらばらになっていたという。最高位の魔道士としては、あまりにもあっけない死だった。

 

 そのあまりのあっけなさに、不穏な噂も流れた。本当に事故だったのか――と。


 あらゆる疑惑と不信の中、リトーの死によって、弟子になったばかりのヴァイスが導師に就任した。


 ヴァイスはその美しい微笑みを絶やさぬまま、答える。


「ああ、生きていらっしゃるよ。あの状態を生きている、というならだけど」


 ぞわりと――ルーバスの背筋を悪寒が走った。

 彼は一体何を言っている? わからない。だが、本能が告げる。この状況といい、彼は何かおかしい。彼は――危険だ。

 

 正直、この場から逃げ出したかった。だが、彼に背を向けること。それもまた恐ろしい。


「そ、それは、どういう――」


「まあ、雑談はこのくらいにして、本題に入ろうか」


 説明する気はないらしく、ヴァイスはルーバスの追求をさえぎった。


「本題、とは……?」


「君、シグルト導師の弟子に惚れてるだろう?」


「い、いいいいきなり何ですか!?」


 突然、思いもしない方向に話題を変えられ、ルーバスの声が裏返る。


「はは、隠さなくていいよ。さっき名前を呼んでいただろう? 愛おしそうにね」


「そ、それは……」


 ルーバスは必死で言い訳を考えるが、この異常な状況で冷静さを欠いた頭では何も思いつかない。 


「あの美貌に微笑まれたら、たいていの男は心惹かれてしまうからね。わかるよ」


 ……違う。あの美貌だからではない。

 ルーバスはヴァイスの言葉を内心そっと否定した。

 

 惹かれたのは、あの笑顔だ。

 何の悪意も敵意も蔑みもない、ただただ純粋で、善意と優しさだけの微笑み。母以外で自分にあんな笑顔を向けてくれた人間など、記憶にある限り、彼女だけだった。


「別に……私は……ただ、可愛らしい方だな、と思っただけで……」


「触れられるものなら触れたい。抱きしめられるものなら抱きしめたい。そう思っただろう?」


 ……思った。

 触れたい。抱きしめたい。もっと近くで自分の名を呼んで欲しい。またあの優しい微笑みを自分に向けて欲しい。

 だが、それは自分のような人間にはおおそれた、叶わぬ夢だとよく分かっている。


「そ、そんなこと……彼女はシグルト様の婚約者ですし……」


「そう、彼女はシグルトのものだ。今はね」


 ヴァイスが一步、近づいて来た。 


「でも、欲しいだろう?」


 目の前に、彼の美しい顔が迫り、細められた緋色の瞳がじっと自分を見つめる。血を連想させる、その不吉な瞳。心の底まで見透されているかのような不安感がせり上がってきた。


 ヴァイスが声を落とし、内緒話でもするようにささやいた。


「欲しいなら、奪ってしまえばいい」


「は? 一体何を……」


「シグルトを殺してしまえばいい。そうすれば、彼女は君のものだ」


 ヴァイスはいい考えだと褒めて欲しいと言わんばかりに、まるで子供のように人懐っこく、にっこりしてみせた。発言と表情の乖離かいりが、この美貌の青年をますます不気味にする。


「何を仰るのです! シグルト様を殺すなんて……そんなことできるわけがないじゃないですか! あの人に勝てるわけがない!」


 ルーバスは飛び退き、ヴァイスから距離を取ると叫んだ。


 あの日――シグルトがルゼルの部屋に来た日。その圧倒的な魔力とルゼルの悲鳴によって植え付けられた、最強の魔道士への恐怖心は今も少しも衰えていない。あの日以来、彼の姿をみかけるだけで、数秒息が止まるほどだ。


 ヴァイスは怯える男に憐れむように眉を下げた。


「そうだね。ルゼル導師……君のお兄さんも随分ひどく彼にやられたようだしね。君の力じゃ無理だろうね」


「なぜ、それを知って……」


 アンテスタの魔物の件で、シグルトがルゼルを痛めつけ、脅迫したことは誰も知らないはずだ。それに、自分とルゼルが兄弟であることも公にはなっていない。プライドの高いルゼルは、ルーバスのような無能が実弟であると知られるのは恥だと思っているから。そのくせ自分の言うことに何でも従う従順な弟を、便利な道具として側に置きたがっていた。


 アンテスタの件も、自分とルゼルが兄弟であることも、どうやってヴァイスは知り得たのか?

 一体彼は何者なのだろう?


 ヴァイスは芝居がかった悲しげな表情で、胸が痛むと言わんばかりに、そっと胸元を抑えた。


「ああ、この世界は残酷だよね。力ある者だけが、すべてを許され、手に入れる。君の兄が傍若無人ぼうじゃくぶじんに振る舞えるのも、シグルトが美しい花嫁を手に入れられるのも、彼らに力があるからだ。無力な君は日々ただ虐げられ、恋する娘を遠くから指をくわえて見ているだけ。……かわいそうに」


 ルーバスはうなだれた。

 

 ……そうだ。まったくその通りだ。

 兄ルゼルが弟である自分を日々無能とののしり、道具のように扱い、それでも彼に従うしかないのも。

 シグルトが毎日当然のように、美しい少女を側に置き、自分が恋い焦がれるあの笑顔を向けられているのも。


 全部、彼らに力があるから。

 全部、自分に力が無いから。

 

「力が欲しいだろう?」


「え?」


「君の兄よりも強く、シグルトにも並ぶ力を得られるとしたら……君はどうする?」


 幼い頃から強い魔力を発現させ、生まれたときから決して勝てない強者として自分の前にあり続けた兄ルゼル。その兄を、いとも簡単に屈服させたシグルトの力。

 あの力が手に入るというのなら……欲しいに決まっている。


 だが。


「そんなこと……無理です……私の魔力は、もう……」


 ルーバスだって、ただ自らの無力を嘆いていたわけではない。いつか兄を超えてやると、修行に明け暮れた時期もあった。だが、もう十年、魔力量にはなんの変化も見られない。さすがにもう悟った。兄を超える日は来ない。いや、兄を超えるどころか、他の上級魔道士に遅れを取ることさえあった。


 法院の魔道士たちに、あいつは導師の弟子に相応しくない、実力不足だと陰で言われ、馬鹿にされていることもよくわかっている。


「そう、君はもうとっくに魔力の限界に達してしまっている。これ以上いくら修行したところで、今以上の力を手にすることはない」


 ヴァイスの断定が、心に突き刺さる。

 もう自分は、一生、この情けない自分のまま――


「個々人の魔力の限界は決まってる。その限界を超えるすべは無い。……たった一つの方法を除いて」


「あ、あるのですか? 方法が……?」


 思わぬ希望を示され、ルーバスの声が期待に震える。

 

「ある」


「それは一体……?」


 すっと――ヴァイスが、左手の人差し指を真っ直ぐ立て、自らの唇に押し当てた。まるで秘密だというように。


 人差し指の向こう、唇がにぃっと弧を描く。 


「他者の魂を喰らうこと」


 男にしては赤みを帯びた唇が、ルーバスの求めてやまない方法を上機嫌に語る。

  

「魔力とは魂の波動だ。なら、他人の魂を取り込めばその魔力が得られる。単純な話だろう?」


 ルーバスはごくりと唾を飲み込んだ。確かにありえないことではない。だが、それは――


「この方法なら、例えば、まったく魔力の無い人間であったとしても、魔道士の魂を喰らいさえすれば、その魔力を得ることが出来る」


「た、他人の魂を喰らう……? そ、それではまるで――」


 悪魔ではないか――

 人の願いを叶え、代わりにその魂を奪い喰らう魔物。近年その存在が確認された事例はなく、今やその実在も不確かな、伝説やおとぎ話の類となりつつあるもの。だが、大魔道士ガルディアは悪魔を召喚し、契約を交わすことを禁術として定めている。少なくとも彼の時代には実在していたと思われる、禁忌の存在。


 悪魔は、魔物の中でも特に強大な魔力を持つという。その理由が、人間の魂を喰らっていることなのだとしたら。

  

「しかし、そんなこと……人間に出来るわけが……」


「何、心配はいらない。前例があるからね」


 ヴァイスは不安と期待にその小さな瞳を揺らす哀れな男に、優しく語りかける。


「かつて同じ方法を試した男がいたんだ。結果、彼は人間ではありえない、絶大な魔力を手にした」


 絶大な魔力……なんと魅惑的で甘美な響きだろう。

 それがあれば……自分もシグルトのようになれるだろうか?


「なれるよ、君も。彼のように。皆から畏怖され、逆らう者をねじ伏せ、何をも恐れる必要がない、強者に。君も、なれる」


 ヴァイスの蠱惑こわく的な微笑と甘いささやきが、恐怖心と思考をしびれさせていく。


「シグルトを殺し、自分が最も強い者だと示せば、彼女だって君を愛するようになるだろう」

  

 目の前に鮮明に、あの時の美しい少女の微笑みが浮かび上がる。


 自分が最強の魔道士に成り代われるのなら――

 彼女を手に入れることが出来るのなら――

 

 たとえ悪魔になったとしても、構わない。


 赤い唇が凶悪なまでに、はっきりと笑みを形作る。整然と並んだ白い歯が、今にも喰い付こうとするかのように、き出しになった。

 

「あげるよ、君に。君たち魔道士が神とも崇拝する、かの偉大なる存在にも匹敵する強大な力を、ね。その代わり――――」


 ルーバスは、自身の輝かしい未来を思い描き、恍惚としながら、すべてを了承し、頷いた。


お読みいただきありがとうございました!

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