81 来世も必ず
夜。夕食を終えた後、リシェルは家のテラスに設置されたテーブルに、シグルトと向かい合って座っていた。シグルトの提案で今日は外で食後のお茶をしようということになったのだ。いつもなら居間のソファでくつろぐのだが、たまには場所を変えるのもいいだろうという思いつきらしかった。
丸い月がくっきり見え、あたりは明るく、夜風も涼しく心地良い。テーブルの上で、セイラの用意してくれたお茶がいい香りをあたりに漂わせている。
「ミルレイユ様とのお茶会は楽しかったですか?」
「はい、とっても」
問われてリシェルは心からそう答えた。考えてみれば、女同士で集まってお茶をするなど、初めての経験だった。口下手なリシェルは、二人の尽きないおしゃべりに圧倒される部分もあったものの、とても楽しい時間を過ごすことができた。
「行かせてくださってありがとうございました。午後、お仕事お手伝いできなくてごめんなさい」
「それは別に気にしなくていいんですよ。しかし、ミルレイユ様とディナですか……どうせみんなで私の悪口でも言っていたんでしょう?」
「あ、えっと……」
シグルトに冗談めかして言われ、リシェルはとっさにごまかせず、口ごもる。
「図星ですか。君、わかりやすいですね」
正直な反応を見せる弟子に笑って、シグルトはティーカップを持ち上げ一口啜った。
「まあ、君が楽しかったならそれでいいですよ。悪口を言われた甲斐があったというものです」
特に気にした風もなく、優しく微笑む師に申し訳なく思いつつ、リシェルはミルレイユ達との一時を思い出していた。
「ミルレイユ様、本当に素敵な方ですよね。お綺麗で、お優しくて、気品があって、でも気さくな方で……」
「そうですね。意外と毒舌で失言が多いのは直していただきたいところですが」
リシェルも一口お茶を飲んでから、ためらいがちに切り出す。
「あの……先生」
「なんです?」
「先生、昔、ミルレイユ様と縁談の話があったって聞きました。ディナとも……」
「ああ、確かにありましたね。そんな話もしたんですか。それがどうかしました?」
シグルトはなぜそんな古い話をするのかわからないようで、首を傾げている。
「その……先生にはどう思ってらしたのかなって……」
もう自分以外の誰にとっても昔のことで、別にいまさら話題にする必要もないのかもしれない。そう思いつつも、リシェルはどうしても聞いてみたかった。
「どうって……まあ、断るのがめんどくさいなぁとは思いましたよ。特にミルレイユ様の場合は言い出したのが陛下でしたからね。嫌ですってはっきり言うわけにもいかないし、うまく断るのが難しくて……一部の貴族が反対してくれて助かりましたけど」
「それだけですか? その、ちょっとは検討……というか、いいかもって思ったりとかしなかったんですか?」
「縁談話は確かにいろいろありましたけど、全部お相手本人の意思じゃなく、その親や親族の、私を利用したいっていう周囲の思惑によるものですからね。そんなのに心動かされるわけないじゃないですか」
「そう、なんですか? で、でも、ミルレイユ様はあんなに素敵な方だし……ディナだって美人で優秀な魔道士なのに?」
珍しくしつこく食い下がって聞いてくるリシェルに対し、シグルトは目を丸くしていたが、ふと口の端を吊り上げた。
「……ああ、君、もしかして妬いてくれてるんですか?」
「べ、別にそんなんじゃないですけど」
とっさに否定しつつも、言われて考えてみる。これは嫉妬なのだろうか?
シグルトに縁談話が数多くあったことは求婚されるずっと前から知っていた。どうして全部断っているのだろう、もしかして身寄りのない自分を引き取ったせいで結婚を遠慮しているのかと、申し訳なく思うことはあっても、それだけだった。だが、ミルレイユやディナという身近な人間とそういう話があったと聞かされてから、なんだか胸がざわざわとするのだ。顔も知らないご令嬢方との縁談話とは違う。
いくらシグルトが乗り気でなくとも、そういう話が出た以上、一瞬でも彼女たちを結婚相手として、異性としてどうかという目でみたはずだ。そう思うとどうにももやもやする。ミルレイユもディナも魅力的な女性だ。どう考えたって、自分よりもずっと。シグルトだって、そう思わないのだろうか?
シグルトの視線から逃れるようにうつむき、テーブルの上に置いたティーカップの中のお茶を見下ろす。注がれた茶色い液体の中に映るのは不安げな自分の顔。カップを握る両手に自然に力が入った。
「ただ……その、先生なら、あの二人みたいな……もっと綺麗で身分や才能もある、素敵な人と一緒になれるのに……私みたいな、何にも持ってない人間と結婚しちゃって、本当に後悔しないのかなって……」
「しませんよ、後悔なんて」
即答され、再び顔を持ち上げれば、柔らかく細められた紫の瞳と視線がかち合い、心臓がどきりと跳ねた。
「私はね、今まで結婚なんて興味もなくて、考えたこともなかったんです。君が初めてだったんですよ。結婚したい、ずっと一緒にいたいと思ったのは」
真っ直ぐにこちらに向けられる眼差しは誠実で、リシェルは素直に彼の言葉を信じることが出来た。月の光を受けてほのかに輝く白銀の髪が、月光花を連想させ、求婚された日のことを思い出す。
あの時も彼は、こうやって真っ直ぐに自分を見て、想いを伝えてくれた。
「君、もう少し自信もったらどうですか? 私にしてみれば、ミルレイユ様もディナも、ただの生意気で口ばかり達者な、べちゃくちゃうるさい小娘ってだけなんですが」
「え、なんて失礼な……」
「本心ですから。内緒ですよ」
シグルトはくすっと笑って、カップを握るリシェルの左手に手を伸ばした。するりと指先で、リシェルの指輪が嵌った薬指を撫でる。
「私が結婚したいのは君だけです」
甘やかなささやきと、優しく、しかし熱っぽい眼差し、そして薬指に触れられる感覚とに、リシェルの顔がかぁっと赤く染まった。
シグルトは苦笑した。
「君、これくらいでそんなに照れて大丈夫ですか? 結婚式で誓いのキス、まさか拒否したりしないでしょうね?」
「えっと、それは……」
そうだ。あまり考えないようにしてはいたが、式当日は口づけを交わさなければならないのだ。しかも、人前で。想像するだけで緊張と恥ずかしさで胃が痛くなってくる。
「いきなり人に見られてる中で本番っていうのも余計緊張するでしょう? やっぱり今のうちにたくさん練習しておいたほうが――」
「だ、大丈夫です! 当日頑張りますから」
リシェルは懸命に首をふるふると振って遠慮する。
シグルトの笑みがやや意地の悪いものに変わった。
「口づけくらいでそんなに頑張らないといけないなんて……その後どうするんです? まさか新婚旅行で部屋を別にしろなんていいませんよね?」
「え?」
言われて、リシェルは硬直した。これも無意識に考えるのを避けていたが、結婚式後は当然初夜で、その後は寝室もずっと一緒なのだ。夫婦なのだから。
つと――再びシグルトの指先がリシェルの薬指を指輪から爪先まで、舐めるように幾度か往復した。紫の瞳が妖しく揺らめく。
「……練習しておきましょうか? 今夜でも」
固まったまま、今度はさぁーっと青ざめていくリシェルを見て、シグルトが吹き出した。
「冗談です。そんな顔しないでいいですよ。式当日だって、君が嫌なら何もしませんから。君がいいって言ってくれるまで待ちます。……まあ、なるべく早くしてくれると、こちらとしては助かりますが」
リシェルの指に触れていた手で今度は自身の口元を抑え、肩を震わせながら言う婚約者を、リシェルは安堵しつつ、じっと見つめた。
先程まで感じていた、もやもやとした感情は消えていた。子供の頃からいつもそうだ。どんな不安も、悲しさも、彼はすぐに取り除いてくれる。
「先生ってお優しいですよね……なんでみんな性格悪いなんて言うんだろう……」
「……え? みんな私のことそんな風に言ってるんですか?」
「あ、違うんです! えっと」
うっかり内心の思いを口に出してしまい、リシェルは焦ったがもう遅い。
シグルトは苦笑いしつつ、肩をすくめた。
「確かに私、優しいの君にだけですからね。しかし性格悪いって……心外だなぁ。確かに昔はちょっと気の短いところもあったけど、最近は寛容になったと自負しているんですが。気に食わない相手もすぐ消――怒ったりしないで、話し合いで分かり合おうと努めてますし」
「そうですよね。怠け者で不真面目でだらしないだけで、先生はすごくいい方なのに……ひどい誤解です」
「君も結構ひどいこと言ってますが……まあ、私は君にさえ好かれていたら、他の人間からどう思われても気にしませんが」
お互い顔を見合わせて笑い合う。
それから再びお茶を飲もうとティーカップに目を落とした時、自身の婚約指輪が目に入り、リシェルは昼間の会話でミルレイユが言っていたことをふと思い出した。
「そういえば先生、今日ミルレイユ様に聞かれたんですけど、魔道士の結婚って、魂の羅針盤を交換するものなんですか?」
「ああ、ミルレイユ様もローラの最新作読んだんですね」
シグルトはリシェルの質問だけで察したらしく、言い当ててみせた。
「先生も?」
「彼女の新作は発売日に必ず買って、その日のうちに読んでますから」
最近慌ただしくしていたにも関わらず、そこは忘れていなかったらしい。相変わらずの熱狂的な読者であるようだ。
「私にもそれ、作れますか?」
「うーん、初級レベルの魔道具ではありますが……君にはちょっと難しいかもしれませんねぇ」
シグルトにもらってばかりの自分にも、何か彼にプレゼント出来るかもしれないと、期待を込めて聞いてみたが、あっさり否定され、リシェルはがっかりした。
「じゃあ、私が先生のを頂けるんですか?」
「魂の羅針盤ねぇ……まあ、君が欲しければもちろんあげますが……私は浮気もしないし、結婚したら仕事は出来る限りさぼって君の傍にいるつもりだし、君より先にも絶対死にませんから、必要ないとは思いますけどね」
「これ以上さぼらないで、仕事はちゃんとやってください……」
ここ最近、結婚準備にかまけて、以前にもましてシグルトが仕事をおろそかにしているのはリシェルも感じていたから、迷惑をかけるブランや法院の魔道士たちのためにも、弟子として心からお願いする。
もうひとつ、彼の発言で気になったことがあった。
「でも、先生が私より先に死なないとは言い切れませんよね? 長生きする魔法とかあるんですか? けど、事故とか病気とか……それに、普通は奥さんを看取るのが辛いから、先に死にたいって言うものなんじゃ……?」
「死にませんよ。私が死んだ後に、君を他の男に取られたら嫌ですからね。君より先には意地でも死にません。君が死んだ後に、私も後を追います。で、来世も必ず君を探し出して、ずっと君の傍にいます」
真顔で言い切られ、婚約者がどうやら本気でそう思っているらしいことが伝わってきて、リシェルは無意識に少し身を退いた。
「……えっと、先生ってなんていうか……ちょっと変、というか、愛が重い……?」
「ようやく気づいたんですか?」
シグルトはにやりと笑った。
「私の求婚を受け入れた以上、今更嫌だなんて言わないでくださいね。逃げても無駄ですよ。魂の羅針盤なんかなくても、絶対に君を見つけ出しますから」
「先生、ちょっと怖いです……」
引き気味の婚約者に、シグルトはおかしそうに笑った。それから、室内の時計を見て立ち上がる。
「ああ、もうこんな時間か。さあ、そろそろ片付けにしましょう。リシェル、明日は私、朝一で王城に行かなきゃいけないんです。昼過ぎには法院に戻りますから」
「わかりました」
「それから、発注してた君の花嫁衣装、仕立て終わったみたいだから、仕事が終わったら試着しに行きましょう。楽しみだなぁ。君の花嫁姿」
そう言って微笑むシグルトは、心底嬉しそうで、まるで少年のように無邪気だった。
その笑顔に、リシェルは胸が温かくなるのを感じた。
彼といて確かに感じる穏やかな幸福感。エリックといる時の、胸がざわめくような、そわそわ落ち着かない気持ちとはまるで違う。
昼間、一瞬だけクライルの背後に見えた黒髪を思い出す。どうして彼を見るといつも心臓がおかしくなってしまうのか。その答えを知ってはいけない気がした。それは……シグルトを裏切り、傷つけることになる。そんな予感がした。
リシェルはそっとシグルトの笑顔を見上げて思う。
結婚式で彼に愛を誓い、その後身も委ねてしまえば――
このふわふわと不安定な自身の心も、完全に彼に捧げられるだろうか。
(大丈夫。私は先生のことが好き。一番、大切……)
彼を幸せにしたい。彼に幸せになって欲しい。
その気持ちは間違いないものだ。
優しくて、いつだって自分を想ってくれる婚約者。
自分も同じだけの想いを返したい。
何も持たない自分を、彼はこんなにも愛してくれているのだから。
リシェルはそう思っていた。この時までは。
今回もお読みいただきありがとうございました!