79 悪魔のささやき
「新婚旅行、ケセラ湖畔とタトール島とレニビアの温泉……どこがいいと思います?」
「いや、俺に聞かれてもな……」
大真面目な顔で尋ねてくるシグルトに、ブランは顔を引きつらせた。
「というか、なんで俺の部屋に来るんだよ?」
法院内にあるブランの執務室。
突然訪ねてきた友は、勝手にテーブルに持ってきた紙や冊子を並べ始めた。見ればすべて観光地や保養地のパンフレットだ。朝からずっと執務机に座り、忙しなく今日処理すべき書類と格闘しているというのに、許可もなく目の前で新婚旅行の行き先を検討し出した男には、さすがのブランもうっすら殺意を覚えた。
「仕方ないでしょう。旅行先はリシェルには内緒にして驚かせる予定なんですから。自分の執務室だとあの子がいますから、こっそり調べるの難しいんです」
「だからって俺の部屋に来るなよ……勤務時間中だぞ? 俺ら仕事してるんだが」
ブランがちらりと、自身の執務机の隣に設置された小机に座るパリスを見やると、弟子もまた困惑の表情を浮かべていた。
「私のことはお気になさらず」
「いや、気になるだろ……というか、お前が気にしろ。いろいろと」
しかし、部屋の主の言葉など無視して、シグルトはソファに陣取り、大量のパンフレットに目を通している。どうやらどうあってもここに居座る気らしいと悟って、ブランは大きく息を吐いた。
「本当に行くんだな。新婚旅行」
「ええ、既に陛下の許可は頂いていますから、他の導師からも反対はされないでしょう。あ、不在中、私の分の仕事、そっちに回しますのでよろしくお願いしますね」
「まじか……」
新婚旅行に行く、という話を聞いて嫌な予感はしていたのだ。ブランは胃がきりきり痛むのを感じた。
「お前が謹慎してた時の仕事も、俺がだいぶ引き受けてたんだが……他の導師は非協力的だし……」
「ええ、本当に助かりますよ。君がいてくれて。持つべきものは友達ですね」
にっこり笑顔を向けてくる友に、ブランはどっと疲れを感じた。
「調子いいな……こっちは過労で死にそうなんだが」
「私の分の仕事はそんな真面目にやらなくていいんですよ。適当に、片手間にやっておいてもらえれば」
「いや、駄目だろ、それ……」
生来、生真面目な性格のブランは、友に押し付けられた仕事も性分できちんとこなしてきた。適当にやれと言われても無理なのだ。こんなに仕事を押し付けられては、そのうち本当に過労でどうにかなってしまうかもしれない。
だが、近づきつつある新婚生活に浮かれきっている親友にとっては、そんなことは些事なのだろう。一体なぜこんな男といつまでも友人関係を続けているのか。ブランはよく人から言われるように、自分はお人好しなのだろうなと思った。
諦めとともに問う。
「で、いつ行くんだよ?」
「結婚式の後すぐ発ちます」
「ずいぶん慌ただしいな。半月以上休み取るんだろ? 翌日ゆっくり出発すればいいじゃないか」
「セイラに乗っていけば移動はそんなにかかりませんから」
「セイラ使うのかよ……飛んでいる間、ちゃんと姿隠しの魔法忘れるなよ?」
既に討伐されたとされる伝説の魔竜が白昼堂々、悠々と空を飛んでいるところを目撃されたら、国中大混乱だ。浮かれ気分で、対策を忘れないよう、ブランは釘を刺した。
「わかってますよ」
「でも、それにしたって式当日じゃなくてもいいだろ?」
「いや、当日じゃないと。式場選びもかなり頑張ったんです。ここまできたら初夜の場所にもこだわりたいですし」
さらりと言い放ったシグルトの言葉に、場の空気が凍りついた。ブランが再び弟子に視線を送れば、彼は顔を真っ赤にして固まっている。
しかし、シグルトの方は周りの反応などお構い無しで、真顔で資料に目を落とし、顎に手を当て考え込んでいる。傍から見れば、その真剣な様子は魔道の真理を思索する大魔道士にしか見えない。
「うーん、やっぱり一番ロマンチックでいいのは、風光明媚なスターリの湖城ですかね……湖の周りに月光花が咲いてて夜景も綺麗だし、ローラの小説でも出てきますし……パリス君」
「え、あ、は、はい!」
急に名を呼ばれ、頬を紅潮させたままパリスは上ずった声でなんとか応じた。
「あの城、確か今はユーメント公爵の所有でしたよね? 滞在させていただけないかお父上に頼んでもらえませんか? もちろんただでとは言いません。なんなら言い値で城ごと買い取っても構いませんので」
「えっと、あの、ち、父に聞いてみます……」
「お願いしますね。リシェルにとって一生の思い出にしてあげたいので」
耳まで赤くなってしまった弟子を、ブランは憐れむような目で見、それから頭を抱えて友に懇願する。
「お前なぁ……頼むからさっさと戻って仕事してくれ」
「今は式と旅行の準備で忙しくてそれどころじゃないんです。まあ、空いた時間で適当に仕事もやってますから」
「お前が導師クビになったほうが法院と俺のためだったかもな……」
ブランはげんなりと肩を落とした後、机の上の置き時計を見て、希望を見つけたように表情を明るくした。
「お、そろそろ昼飯の時間だぞ。リシェル待ってるんだろ? 戻ったらどうだ?」
「そうですね。今日はここまでにしておきましょうか」
シグルトは素直にテーブルの上の資料を手早くまとめると、手近にあった本棚の一角にそれらを納めた。
「なんでそこに置くんだよ!?」
「部屋に持ち帰ったらリシェルに見つかりますから。預かっておいて下さい」
「……わかった。もう何でもいいから帰ってくれ」
心底疲れた声で促され、シグルトは涼しい顔でようやく部屋のドアへと向かった。
「では、邪魔しましたね」
「本当だよ……」
「また来ますので」
「……」
パタン、とドアが閉まり、迷惑な男が姿を消して、ブランはようやく一息ついた。
「ようやく帰ったか。さて、俺らも昼飯に……って、どうした? パリス」
「すみません、僕、ちょっとシグルト様とお話が……すぐ戻ります!」
思い立ったように、パリスは慌ただしく席を立つと、シグルトの後を追って部屋を飛び出した。
「シグルト様!」
廊下で呼び止められ、シグルトは振り返った。先程歩いてきた方から、青い髪の少年が追いかけてくる。
「おや、パリス君。どうしました?」
「あの、少しよろしいでしょうか?」
シグルトの目の前で止まり、少し乱れた息を整えながらパリスは、憧れの魔道士を見上げた。
「なんです?」
「シグルト様。お願いがあります。その……あいつ……リシェルに、魔道士の修行、続けさせてやっていただけないでしょうか?」
「……なぜ、君がそんなことを?」
すっと、紫の瞳が細まる。一瞬気圧されるが、パリスは決意が揺るがぬうちにと、一気にまくし立てた。
「リシェル、本心では魔道士になるの、諦めたくないんだと思うんです。だって、あいつ今まで本当によく頑張ってて……勉強熱心で、いつも予習復習しっかりしてきて。センスも悪くないと思うんです。飲み込みも早いし。基礎的な魔力制御なんて驚くくらいすぐ覚えたんですよ! 確かに魔力は……今は全然出てないですけど、まだ引き出すのが下手なだけだと思うんです。修行を続けていけば、きっと――」
「あの子に魔道士としての才能はありません。それは師匠である私がよくわかっています」
途中で、ぴしゃりとシグルトが遮った。
パリスは目の前に立つ魔道士を見上げた。偉大なるエテルネル法院創設者ガルディアと同じ、白銀の髪と紫の瞳。その魔力もガルディアと並ぶとされる、誰もが認める現代最強の魔道士。子供の頃からずっと、ずっと憧れ続けた存在。彼に声をかけてもらうだけで、彼の言葉を聞けるだけで、嬉しくてしかたなかった。
でも、今は。
どうしてだろう。
ひどく苛立たしい。
パリスはぐっと両拳を握りしめた。
「……そうでしょうか? シグルト様はあいつに全然何も教えてこられなかったじゃないですか。なのに、なぜそう断言されるのかわかりません。リシェルの魔法、ちゃんと見てやったことありますか? 僕はあいつの基礎訓練にずっと付き合って、頑張ってるのをずっと傍で見てきました。才能がないなんて判断されるのは早すぎると思います」
「……なるほど。私よりも君の方がリシェルのことをわかっていると?」
「あ、いえ。そういうつもりでは――」
一段低くなったシグルトの声に、ぞわっと背筋に冷たいものが走り、瞬時に先程感じた苛立たしさを消し去った。
青ざめたパリスを見下ろしながら、シグルトは無表情に淡々と続けた。
「パリス君。リシェルは家でよく君の話をしていますよ。すごい魔法を使ってたとか、落ち込んでた時励ましてくれた、とか……この間も魔道士を諦めるなって引き止めてくれたって……嬉しそうにね。君にあんな目にあわされたのに、あの子は今では君をとても信頼している。君はずいぶんリシェルによくしてくれているようだね。何の得もないのにあの子にいろいろ教えて、修行も付き合って。君だって忙しいだろうに」
「え、はい、それは……」
「あの子への贖罪のつもりですか? それとも……何か別の理由でも?」
「……!」
探るように自分を見つめる紫の瞳に、心の奥まで見透かされてしまう気がした。パリスは手に浮かんだ汗を拭おうと、無意識に自身のローブを握りしめていた。
「いえ、僕は……ただ、友人として……」
「友人、ね」
パリスの心臓が緊張で、ばくばくと音を立てた。あの日、目の前の魔道士に首を締め上げられた時の恐怖が蘇ってくる。
「私も君には感謝してますよ。リシェルの数少ない友達になってくれて。アンテスタでの任務でも世話になったようだし……私も君には何かお礼をしなくては、と思っていました」
言葉とは裏腹に、シグルトの目の奥は冷たいまま。パリスはごくりと唾を飲み込んだ。審判を待つ罪人の気持ちで、彼の次の言葉を待つ。
「……パリス君、君はずっと私の弟子になりたいと言っていましたね」
ふと、シグルトが口の端を釣り上げた。
「いいですよ。リシェルが弟子をやめたら、君を私の弟子にしても」
「……!」
まったく予想していなかった言葉に、パリスは目を見開いた。
「君を弟子にする気はないと言ったけれど、リシェルが弟子をやめるなら話は別です。私もそろそろ後継者を本気で育てないといけないですしね。若手で君ほど才能のある魔道士は他にいませんし」
「で、でも、僕はもうブラン様の弟子で……」
「正直、ブランより君の方が才能ありますよ。経験の差こそあれ、君ならブランを魔力ですぐ追い抜くはず。彼じゃ君の師匠として不足でしょう。君もそう感じてるんじゃないですか?」
「ぼ、僕は……」
確かにシグルトの言う通りだった。ブランはおそらく導師の中では実力的にもっとも下だ。だからこそ、シグルトに弟子入りを断られ、ブランの弟子になった時は、不満でしかたなかった。他の導師たち――ガームには既にディナがいたし、ヴァイスは出自も経歴も怪しく、ルゼルとロゼンダに関しては実力はともかくよい噂がない。ブランは消去法で選んだ師に過ぎなかった。才能ある自分に相応しくない師匠のもとで、一体どうやってこれから成長していけるのかと、弟子入り当初はずいぶん荒れたものだ。
「ただ、私は弟子は一人しか取りません。何人もいるといろいろ面倒なんでね。リシェルに弟子を続けさせろというのなら、この話はなしですが」
シグルトは薄く笑って、少し身をかがめ、自分より背の低いパリスの顔を覗き込む。
「リシェルが魔道士を諦めるというのは、本人ももう納得しているんです。あの子にこれ以上余計なことは言わず、私の弟子になった方が君にとって得だと思いますが?」
パリスは間近にあるシグルトの顔を見返した。一見優しげに細められたその目にも、柔らかな声にも、しかし好意はない。
あるのは、友と自分の夢を天秤にかけさせられ、戸惑う自分をいたぶる愉悦だった。
「まあ、私はブランと違って甘くないのでね。修行は厳しいですよ。私の弟子になれば、あの子と遊んでいる時間もなくなるでしょうが……その代わり君は将来、ディナよりも、他の導師よりも強くなれるでしょう。その素質が君にはある」
悪魔のささやき。
シグルトの蠱惑的な微笑と声に、パリスが連想したのはそれだった。
「考えておいてくださいね」
少年の青い瞳の中に心の揺らぎを見て、シグルトは満足気に言い残すと、濃紺のローブをひるがえして去っていった。
シグルトの弟子になれる。
憧れの大魔道士の弟子に。
子供の頃からの夢が、叶う。
パリスは突然突きつけられた、一度は諦めた夢の実現の可能性に、呆然とそこに立ち尽くしていた。
だが、すぐに後ろからした声に、意識を現実に引き戻される。
「ったく、シグルトの奴……」
「ブラン様! 聞いていらしたんですか?」
振り返れば、廊下の影にブランの姿があった。
「悪い。ちょっと気になってな」
ブランは盗み聞きしていたことにバツが悪そうにしながら、パリスの方へ歩み寄る。
「何というか……あいつ、お前に嫉妬してるんだろうな。お前とリシェル、ずいぶん仲良くなったみたいだから」
シグルトがわざわざブランの部屋に来て、新婚旅行だの初夜だのの話をしたのも、パリスに聞かせるためだったのではないか。ブランの所でなくとも、リシェルに見つからない場所など、法院内に他にいくらでもある。
「しかし、それにしても……大人げないというか……いや、わかってはいたが、やっぱり性格悪いな、あいつ……」
弟子にしてやるから、リシェルにもう関わるな。
シグルトのパリスへの提案は、要はそういうことだ。
ブランはため息をつきながら、頭をぼりぼりと掻いた。おそらく、シグルトはブランが途中から傍で聞いていたことも気づいていたはずだ。友の前で堂々とその弟子を引き抜こうとするその性根には、やはり問題があるとしか思えない。
「いや、もう本当、なんで俺、あいつの友達やめられないんだろう……」
一体何度目になるかわからない問いを自身にぶつける師を、パリスは戸惑いながら見上げた。
「ブラン様、僕は……」
「パリス、俺のことは気にするな。好きにしろ」
「え?」
ブランはぽんっと、パリスの肩に手をおいた。
「シグルトの言ったことは事実だ。俺より、お前の方が才能がある。すぐに俺を追い抜くだろう。俺がお前に教えてやれることは少ない。あいつはリシェルにはあんなだが、実際には教えるのも相当上手いんだ。俺より、あいつの弟子になったほうがお前は伸びる」
「そんな――」
「それに、リシェルのことも……事情は言えないが、俺はあの子は魔道士になるべきだと思ってた。だからお前にリシェルの修行を頼んだんだ。だが、あの子がシグルトと結婚してこの先ずっとあいつの傍にいることを、魔道士を諦めることを選んだっていうなら……それでいいのかもしれないと思ってる。魔道士は危険が多い仕事だし、頭のおかしい奴も多いしな。正直優しいあの子にこの世界が向いているとは俺も思えない。お前がいうように、リシェルにも本当はまだ魔道士への未練があるのかもしれないが、一応本人も納得してるんだ」
ブランは弟子に優しく微笑んだ。
「でも、俺は嬉しかったぞ。リシェルの、友達のために、あのシグルトに意見するなんて、なかなか出来ることじゃない。お前は本当に変わったよ。人間的にすごく成長した。その成長を見せてもらえただけで、俺は師匠として満足だ」
どこまでも思いやりにあふれた師匠の言葉。肩に置かれた手と同様、とても温かい。パリスのことを本当に想って言ってくれているのが伝わってくる。
「シグルトの弟子になるのは、パリス、お前の夢だったんだろう? お前は、俺にも、リシェルにも遠慮することなんてないんだ」
「ブラン様……」
ふってわいたこの状況。かつての自分なら大喜びしていたはずだ。
だが、どうしてか嬉しさは湧いてこなかった。
あれほど望んだ夢が叶うというのに。
自分自身の変化に戸惑いながら、パリスはただ黙って、師匠を見上げることしかできなかった。
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