78 墓荒らし
ルーバスの額を冷や汗がすべり落ちていった。
今、彼の目の前には黒い大理石の円形の台座があった。台座の上には外縁に沿って六本の細い柱が立っており、上部にある天蓋を支えている。ちょうど円形の台座の上に小さなあずま屋がのっているような具合だ。大理石には至るところ隙間なく、彫刻を施されている。そのすべてが、星、月、太陽、魔術文字といった魔道具でよく使われるモチーフのもの。そして、柱と柱の間には、ガラスではなく、うっすらと白い光の膜が輝いていた。魔法による結界だ。
その結界の奥――台座の中央に置かれているのは、白い大理石の壺。こちらもところせましと彫刻が施され、いくつも大きな紫水晶が埋め込まれていた。ルーバスは、魔術学院の生徒だった頃に一度だけ目にしたそれを、食い入るように見つめていた。
不意に、ぼやけていた壺の輪郭が明瞭になる。結界が消えたのだ。
「一時的に結界を解いた。早くそれを持って来い」
後ろから尊大な声が響く。しかしその声音は子供のもの。ルーバスは恐る恐る振り返り、声の主を見やる。声の主――導師のローブをまとい、腕組みして立つ黄緑の髪の少年、ルゼルを。
「し、しかし、本当に大丈夫でしょうか?」
この壺を守る結界は導師であれば解くことができる。だが、結界が消えても壺自体にもなんらかの古い魔法が仕掛けられている可能性は十分にある。触れて安全とは言い切れない。何しろ三百年前、この壺を作り、この場に設置したのは、大魔道士ガルディアの六人の弟子達なのだ。
「大丈夫だ。早くしろ」
弟子の不安になど、ルゼルはまるで取り合わない。なかなか壺を取ろうとしないルーバスに眉が釣り上がっていく。
「何してる? 大丈夫と言ってるだろう? 早くしろ!」
「……で、でも本当に、ガルディア様の遺灰を盗むのですか? もし、こんなことがばれたら――」
ルーバスはなんとか自らの師の考えを改めさせようと、祈りながら問う。
シグルトが国王からお咎めなしとなり、その弟子との婚約が公になって以来、ルゼルは荒れに荒れていた。八つ当たりで、何度無意味な罵詈雑言と暴力を振るわれたことか。だが、それにはまだ耐えられた。偉大なる大魔道士の遺灰を盗み出すなどという、見つかればいかに導師といえど極刑を免れない罪の片棒を担がされることに比べれば。
しかし、弟子の祈りは予想通り届かず、ただ師の苛立った神経をさらに逆なでするだけだった。
「うるさい! お前はボクの指示に黙って従ってればいいんだ! 能無しのくせにボクに口答えするな!」
ここは法院の中心、天の塔の最深部にある大魔道士ガルディアの墓堂だ。この遺灰が納められた骨壺がある台座以外、何もないただっ広い空間。子供特有のキンキンとした声は、高い天井に反響して堂内によく響き渡った。
「………」
何を言っても無駄だ。ルーバスは諦め、壺に向き直った。
命令に逆らって師に殺されるか、壺に仕掛けられているかもしれない魔法で殺されるか。まだ壺の方が生き残れる可能性がある。
恐る恐る、テーブルの中央へと両手を伸ばす。壺に手が触れる寸前――恐怖を堪えるため、目をぎゅっと閉じ、一気に壺を掴んだ。
冷たく硬い感触に、そっと目を開けば自らの両手に静かに収まった白い壺が見えた。
「よし、特に壺自体には魔法は仕掛けられてないようだな。それを持って来い」
ルゼルも壺に危険がある可能性があることはやはり承知していたのだろう。だからルーバスに壺を取らせたのだ。
だが、ルーバスに抗議することなどできない。ルゼルの言うことは絶対なのだから。哀れな弟子は慎重に壺を持って行き、師に手渡した。
玩具を渡された子供のように、嬉々としてそれを受け取ったルゼルは、うっとりと白い壺を見つめた。
エテルネル法院の創設者、大魔道士ガルディアの遺灰が納められた骨壺。ガルディアが焼身自殺したあと、彼の六人の弟子たちはその遺灰を集め、この壺に封じた。
「大魔道士ガルディアの遺灰。これにはガルディアの強大な魔力の痕跡が強く残っているはず。これを使ってもっと強い魔物を作り出してやる。そして、今度こそシグルトを……!」
期待と復讐心にその黄緑の瞳をぎらぎらと輝かせながら、ルゼルはそっと壺の蓋に手をかけた。たいした力もかけずに、それはすっと開く。
「………………………は?」
ルゼルは壺の中を見つめたまま、動きを止めた。
「ルゼル様? ………………兄さん?」
何事かとルーバスが訝しげに兄に呼びかけると、ルゼルは呆然と呟いた。
「…………ない。何もない。空だ」
壺の中には空虚な闇が広がっているだけだった。ルゼルは壺をひっくり返したが、灰はおろかほこりすら出て来ない。ルゼルの体がわなわなと震えだす。
「……っ! ちくしょう! 誰か先に持ち出した奴がいたんだ!」
ルゼルは金切り声をあげ、持っていた壺を振り上げると、思い切り床に叩きつけた。石で出来た壺は魔法で強化されているらしく、ひび一つ入ることなく、床の上を硬い音を立ててごろごろと転がる。
「帰るぞ! ルーバス!」
少年はローブを翻し、足音も荒く出口へ向かって歩き出す。ルーバスは慌てて、壺を拾い、蓋をすると、台座の上に元通りに戻した。
そして、急いで怒り狂う兄の背中を追う。兄の企みが成功しなかったことに、ほっとしながら。
月が明るい。
お陰で、法院の中で最も高いこの“天の塔”上層階にあるバルコニー――ここからでもよく見えた。こんな真夜中に、法院正門に向かって伸びる地上の道を歩く二人の人影。前を行く小柄な人影は足早に、続くひょろりとした背の高い人影は、前の人影を必死で追いかけていた。
「あれでもお仕置きが足りなかったようですね……」
シグルトはバルコニーに立ち、彼らを見下ろしながら、ため息混じりに呟く。殺されかけても、絶対に諦めないルゼルの執念には本当に恐れ入る。その情熱と実力を、もっとましなことに使ってくれればよかったのだが。
「やれやれ、ルゼルにも困ったもんじゃのう」
不意に後ろでしわがれ声がしたが、シグルトは振り返らなかった。この声の主もまた、自分同様、ガルディアの墓堂に侵入者があれば察知出来るよう監視魔法を仕掛けていることは知っていたし、今日も遅かれ早かれ来るだろうとは思っていた。
「まさか、ガルディア様の墓を暴きにくるとは……さて、どうしたものかの?」
暗い室内から月の光の当たるバルコニーに現れたのは、一人の老人――ガームだった。
「別に……放っておけばよいでしょう。あの墓にはもう、何もないのですから。そして、何もなかったということを彼らは誰にも言えないでしょうし」
シグルトは地上の二つの人影が正門まで到達するのを見届けながら、淡々と答えた。
「何もないから墓荒しをしていいことにはならんじゃろ? 墓のことだけでなく、近年のあやつの振る舞いは目に余る。こっそり禁術を使用しているという噂もあるしの」
ガームは己の白く長い髭を手で梳きながら、深いため息を吐く。
「あやつだけではない。ロゼンダもヴァイスも黒い噂が絶えん。何やら国王と組んで、こそこそ企んでおるようじゃしな。誰も彼も……導師でさえも、私利私欲のために魔法を悪用し、他人を害し、ガルディア様の定めし掟を破り……今の法院は、魔道の正しき向上と、世の秩序と安寧を守るという本来のあるべき姿から離れてしまっておる。そうは思わんか? のう、シグルト?」
「……別に、興味ありませんね」
「またそのようなご冗談を。本当に一体なぜ、彼らを罰しないのです?」
突然、ガームががらりと口調を変えた。いつもどこかとぼけた調子の彼にしては珍しく、声にも真剣味が宿る。
「貴方様には、彼らを罰する権利と、法院を正す義務がありましょう? 他ならぬ、貴方様には。……ガルディア様」
「その名で呼ぶな、と言ったはずですが。ガルディアはとっくに死んだのですから」
相変わらず振り向かないまま、シグルトは声にわずかに不快さを込めて言った。
ガームは髭を梳いていた手を放し、胸に当てると、年下の導師に向かってうやうやしく頭を垂れる。
「お怒りはごもっともです。お許し頂けるなどとは思っておりませぬ。我が不肖の弟子たちが貴方様の墓を暴いたこと、ご遺灰を使って死者蘇生の禁を犯し、貴方様を安らかな眠りから無理矢理目覚めさせたこと……お詫びのしようもございません」
シグルトは眉を寄せた。自らに新たな命とシグルト・アルフェレスという名を与えた“両親”のことは思い出したくもない。
ガームの弟子、アルフェレス夫妻は、二人揃って魔道士として非常に優秀で、異常とも言える探究心を持っていた。一方、人として持つべき倫理観は欠如していたため、いくつものおぞましい実験をためらうことなく繰り返していたという。自らの探究心を満たすためならば手段を選ばない彼らが、その研究すら禁じられている禁術に興味を持つのも必然だったのかもしれない。
そして、二十八年前、彼らはついに、その探究心を抑えきれず、禁忌を犯す。誰にも悟られることなく、大魔道士ガルディアの遺灰を盗み出し、それを元に肉体を再生させ、その魂を呼び戻すことに成功したのだ。
死者の蘇生。
この禁術を成すため、彼らは多くの人命を犠牲にした。
そうして現世に赤子の姿で復活したガルディアに、彼らはシグルトと名付け、自分たちの子として育てた。育てた、という言い方には語弊がある。ガルディアとしての記憶を持たない幼子に、彼らが訓練と称して繰り返したことは、虐待と言ってもいい魔道実験だけだったから。
アルフェレス夫妻が禁術を使ったことに最初に気づいたのは、彼らの師であるガームだった。ガームは弟子たちを処刑した後、他の導師たちには彼らが死者蘇生の禁術研究をしていたとだけ報告し、真相は誰にも明かさなかった。当時六歳だったシグルトも何も知らされず彼に保護され、魔術学院の寮に入れられることになる。
シグルト自身がガルディアとしての記憶と自覚を取り戻したのは、学院の生徒だった八歳の時だ。授業でガルディアの墓の見学に来た時――すべてを思い出した。そう、すべてを。
あの時はこの世に戻ってしまった現実に混乱し、恐怖した。真っ青になって震える同級生を案じて、ブランが側で呼び掛け続けてくれていなかったら正気を失っていたかもしれない。
ガルディアとして生きていた時は、弟子たちも、そのまた弟子たちも自分を神のごとく信奉していた。自分の言うことは絶対であり、それに従わぬ者などいなかった。だからまさか、厳しく定めた禁忌を破って、自分を蘇らせようなどと考える者が後の世に現れようとは……自ら命を絶ったあの時は思いもしなかった。
「……まったくですね。せっかく決意して、あれだけ苦しんで死んだというのに」
当時を思い出し、思わずこぼれたシグルトの呟きに、ガームは首を振った。
「……偉大なる貴方様がなぜ自害などされたのか、深いお考えがあってのことと拝察いたします。私ごときが知るべきことでもありますまい。しかしながら」
老人は一歩進み出ると跪き、シグルトを見上げる。古い樹木のように深い皺の刻まれた顔の中で、目だけが月の光を受けてきらめいていた。
「貴方様が現世に蘇られたこと。これは天の思し召しでございましょう。貴方様にはまだ成すべきことがあるはず。今の腐敗した世を正せるのは貴方様だけです。どうか正体を明かし、我らをお導きください。ガルディア様」
シグルトは視界の隅で老年の導師が深く頭を垂れるのをとらえながら、なお振り向かず、ぼんやりと眼下を眺めた。
月に照らされて浮かび上がる、導師が司る六本の塔。その元に付随するいくつもの建物。それらを守り、外界から隔絶するように取り囲む石壁。夜風にはためく六芒星の織られた旗。かつて自らがすべてをかけて作り上げ、君臨した、魔道士たちの城。熱望し、戦い、ようやく手に入れた居場所を。
だが、今はもうどうでもいい。
こんなもの、欲しければ誰にだってくれてやる。
導くだとか、世直しだとか、面倒なだけ。
何もしたくない。
世の中がどうなろうと知ったことか。
この世のすべてがどうでもいい。
どうでもいいのだ。
彼女のこと以外、すべて。
「……ガーム導師」
「はっ」
シグルトはようやく、肩越しにガームを振り返った。
「あなた、本当に人を見る目がないですね」
「…………はい?」
まったく予想外のことを言われ、世を憂う老人はただただぽかんと、崇拝する若き魔道士を呆けたように見上げた。
真夜中の冷たい夜風が、老人と若者の間を吹き抜け、二人のまとうローブをなびかせ、乱し、弄んでいった。
お読みいただきありがとうございました!
じわじわ伏線回収に入っております。
次話も次の日曜更新予定……ですが、ちょっと厳しいかも……?(詳しい更新予定はTwitterでお知らせしてます)