76 及第点
振り返った先には、地味なローブ姿の男。人目を忍んでか、フードを目深に被り、顔はよく見えない。だが、先程の声は間違いなく、憎い男のものだ。
「……またわざわざお迎えか。相変わらずの過保護ぶりだな」
アンテスタの時といい、この男はなぜこうもタイミングよく邪魔しに現れるのか。
「ええ、まあ。もう何年も親代わりとしてこの子を守ってきましたから。そして、これからも守り続けます」
シグルトは言いながら、エリックの横をすたすたと通り過ぎていく。自らの弟子、婚約者の元へと。
「これからは夫として、ですが」
男の後ろ姿が眠る少女に近づいていく。
――ああ、まただ。また、奪われる。この男に。彼女を。目の前で。
その瞬間――エリックの中で何かがぷつりと音を立てて切れた。
今までこの男を前にしても、ぎりぎりで保ってきた、理性の糸が。
湧き上がる怒りに、エリックは衝動的に腰の剣を引き抜いていた。切っ先を男の背に真っ直ぐに向ける。月の光に照らされて、銀色の刀身がぎらりと不穏に光った。
「……何のつもりですか?」
シグルトは振り返らなかったが、その場で足を止めた。
「決まってるだろ? 今ここであんたを殺す」
「無理ですよ。君に私は殺せません」
背後から剣を突きつけられているというのに、動揺のかけらもない。その余裕が、さらにエリックの苛立ちを掻き立てる。
「大魔道士様には誰も勝てないって? だが、今の俺は六年前とは違う。あんたの魔法は俺には効かないし、この剣先があんたの体にほんのわずかでも触れれば、あんたは魔力を失う。そうしたら俺の勝ちだ」
自分には、魔道士に対抗しうる力がある。その力を必死で磨いてきた。目の前の男を殺すために。もう自分は六年前の無力な少年ではないのだ。
「破魔の力が完全に目覚めたというわけですか。おめでとうございます」
何の驚きもなく、シグルトは言う。既にエリックに異能があることは気づいていたのだろう。
「まあ、その力があったところで、君に私は殺せませんが」
「試してみるか?」
たった一歩。たった一歩踏み込めば、剣先が男の背に届く。
仮に何か魔法を使われたとしても、自分には効かない。もはやノーグの魔法も効かないのだ。この男の魔法も無効化できるはず。
魔力さえ奪ってしまえば、この男は無力だ。体術や剣術の類はおそらく出来ないだろうし、仮に多少心得があったとしても、日々鍛錬を積んだ自分に勝てるはずがない。それこそ赤子の手をひねるように、たやすく命を奪えるだろう。
たった一歩進むだけで復讐を遂げられる。
そして――彼女を奪い返せるのだ。
やれる。今の自分なら。
確信とともに一歩を踏み出そうと、足に力を込めた瞬間―ー
きぃぃんと冷たい金属音が響き、持っていた剣が上へ跳ね上がる。
横手から現れた人影を認識すると同時に、エリックは剣を打ち下ろし、自身に迫ってきた刃を退けた。そのまま後退して距離を取る。
目の前に現れたのは、黒い服に身を包んだ若い女。その右手には抜き身の短剣が握られている。陶器のような白い肌が月の光で青白く浮かび上がり、感情のない藍色の瞳で、じっとエリックの方を見据えるその様は、幽霊のようだった。見覚えのある女だ。
「ヴァルセイラ……」
魔竜の登場に、一瞬本能的に気圧されるが、すぐに気を取り直す。竜の姿になって襲われればさすがに分が悪いが、今ここで変身を解くことはしないだろう。こんな街中であの巨体に戻れば、王子のいる酒場も含め、周辺に少なからず被害が出る。
女はすぐに斬りかかってきた。月の光を受けた短剣が、光の線を描きながら、エリックに迫る。動きが早い。エリックは必死で女の斬撃を受け流す。女の獲物は短剣で、こちらは長剣。こちらのほうが優位なはずだが、まばたきもせぬ間に距離を詰められ、長剣の利を生かせない。おまけに一撃がかなり重い。女の力とはとても思えなかった。もちろん、その正体は竜なのだから何もおかしくはないのだが。
激しい剣戟が続く。次第に女の動きにも慣れてきた。防戦一方だったのが、いくどか斬り込めた。すべて紙一重でかわされたが。
やがて、二つの剣の刃が噛み合い、剣を介しての押し合いになる。エリックは相手に隙を作るべく口を開いた。
「竜なのに剣も使えるのか。たいしたもんだが、かつての“ヴァーリスの厄災”が人間に尻尾を振って、人間の真似事をさせられてるとは、あんたも落ちぶれたもんだな」
だが、挑発にも女は何の動揺も見せない。間近にあるその藍色の目には、何の感情も――敵意すらなかった。どうやらこの女に感情はないらしい。使い魔というものが皆そうであるのかは知らないが、少なくともこの女はただ主の命を遂行するだけの、意思を持たない人形なのだろう。なら言葉での挑発など無意味だ。エリックはそう判じた。
「エリック君、君こそ“たいしたもん”ですよ。セイラ相手にここまで戦えるとは……驚きました。頑張ったんですね。私に復讐するために」
女の向こう側――高みの見物を決め込んだ憎い男が感心したように、称賛を送ってくる。
「では、もうひとつ確認を」
不意に――横手から魔力の発生を感じた。視界の隅で、地面から暗紫色の色をした魔力の矢が数本飛び出し、自分へ向かってくるのが見えた。
エリックは避けなかった。目の前の女との押し合いで、今避ける余裕はない。そもそも、避ける必要はないのだ。
魔法の矢は、エリックの体に触れる直前で、ふわりとぼやけ、形を失い、そのまますべて消失した。
「ふむ、私の魔力もちゃんと無効化していますね。剣技といい、破魔の力といい……これなら及第点ですね」
満足げなシグルトの呟きが、エリックの怒りに火をつけた。
「何を……偉そうにっ!」
六年間、血を吐くような辛い訓練に耐えてきたのは、この男に認められるためでも、称賛されるためでもない。
この男を――――殺すためだ。
エリックが怒りに任せて一気に剣を押し返すと、女がよろめいた。すかさず、女の短剣に自身の剣を巻きつけるようにして振り上げる。短剣が女の手を離れ、宙を舞い、遠くの茂みの中へと葉音を立てて落ちた。
女の姿をした竜は自身の牙の代わりを失ってもなお、主を守ろうと立ちふさがる。その細い喉元に剣先を突きつけた。
「どけ。斬るぞ」
「斬るも殺すもご自由に。私にとってそれはただの使い魔の一匹に過ぎませんから。でも……あの子にとっては長年生活を共にした家族のようなもの。いなくなったら悲しむでしょうね」
ただ黙って、一言も発さない下僕に代わり、シグルトが答える。エリックはぐっと剣の握りをきつく握りしめた。
「……そんなことで俺が剣を納めるとでも?」
「そんなこと、ね」
くすっと、フードの下でシグルトが笑いをこぼす。
そのままローブをひるがえし、再び階段の方へ歩き出す。
「おい! 待て!」
制止するも、シグルトは止まらなかった。
目の前の女を斬り捨て、あの男の背に剣を突き立てろ。
そう心は叫ぶのに体が動かない。
丸腰になって剣を突きつけられても微動だにしない、目の前の魔竜への本能的恐怖か。
あるいは――いまだにある自身の迷いのせいか。
エリックの逡巡の間に、シグルトは階段で眠る少女の元まで行くと、その華奢な体を両腕で軽々と抱え上げた。いかにも慣れた動作だった。この六年、この男は何度もこうして少女をその腕に抱き上げてきたのだろう。エリックは奥歯をぎりっと噛みしめる。
シグルトが振り返った。フードの下、こちらを見る彼の顔は、明らかにエリックをあざ笑っていた。
「君もこの子のことが大事なくせに。泣かせたくない、苦しませたくないから、いまだに自分の正体をこの子に明かさないのでしょう?」
「……!」
図星をつかれて、女の喉元に突きつけた剣先がわずかに震えた。
「……どうやら君は、やはりもうすべてわかっているようですね。六年前、私が何をしたか。気づいていなければ、さっさとこの子に名乗り出ていたでしょうから。そう、何もかも、君が思っているとおりですよ」
憎い男の言葉を、エリックは呆然として聞いていた。
最後の――ほんのひとかけら残っていた希望が、消え去っていく。
わかっていた。もうわかっていたのだ。六年前と、何もかも変わってしまったということは。
だが、どれほど確信していても、確定はしていなかった。
それが今のシグルトの言葉で――自分の確信はついに裏付けられ、真実になってしまった。
ずっと追い求めると同時に、逃げてきた真実に。
「そんな顔しないでくださいよ。だから言ったでしょうに。羅針盤の示す先にたどり着けば、君は今以上の苦しみを味わうかもしれないって」
この残酷な現実を作り出した当人は、苦笑し憐れむような目を向けてくる。
「そうだ、頑張ってここまでたどり着いた君に、もう一つ、いいことを教えてあげましょう」
シグルトは自身の腕の中で、何も知らず眠る少女に視線を落とした。一瞬で、目に隠しきれない恋情と執着がにじむ。
「この子はね、今この瞬間も、私の魔力で生かされているんです。私が魔法を解けば、この体は六年前、君が連れてきた時の、元の物言わぬ冷たい身体に逆戻り」
少女の温かさを確認するかのように、彼女の額にそっと唇を落とす。
「彼女は私がいなければ、生きられない」
語るシグルトの顔は、これ以上の幸福はないとばかりに微笑み、紫の瞳は蕩けそうなほど恍惚としていた。
エリックの背筋を冷たいものが走る。
わかっていた。この男がどれだけ冷酷で非情かなんてことは。
だが、今初めてわかったことがある。
この男は――――異常だ。狂っている。
シグルトは顔を上げると、剣を構えたまま硬直する騎士に問う。
「君が私を殺せば、この子も死ぬ。それでも、私を殺したいですか?」
ああ、どうして。
どうしてこうも、自分は無力なのだろう。少しは強くなったなんて、とんだ自惚れだ。剣術も、破魔の力も何の意味もない。今までの辛く、苦しい鍛錬はすべて無駄だった。六年前と何も変わらず、自分は今も無力なまま。
復讐もできない。
大切な人を救うこともできない。
何も……できない。
エリックはゆっくりと――――剣を下ろした。先程まで殺気を放っていた剣先と、視線が力なく地面を向く。
人の形をした竜は、殺気が消えると同時に、主に道を譲るべく、すっとその場から退いた。戦意を喪失した騎士の前に、勝者の魔道士は歩み寄り、労るように諭す。
「私と共にあること……それがこの子にとって一番幸せなんです。わかるでしょう?」
「……エレナは、もう………元には戻れない、のか?」
「……君はそれを本当に望むんですか?」
問われて、エリックの肩がかすかに震える。
男の腕の中で、すやすやと穏やかに寝息を立てる少女の寝顔をそっと見やった。
「アーシェ、私……大好き……」無感情に、しかし意思を持ってそう呟く、小さな幼い声。
少女の冷たくなった手足、開かない瞼、生気の失せた顔。
白い雪の中ひらひらと舞う灰。
頬を薔薇色に染め、薄紅色の瞳をきらきらさせて微笑む笑顔。
脳裏に一瞬で過去の記憶が駆け巡る。
この男は、なんて残酷なことを聞くのだろう。
「……なんで、お前はこんなことをした? 何のために?」
エリックは力なく問う。
どうして、この男は自分から大切なものを何もかも奪うのだろう。こんなことをして一体、この男に何の得があるのだろう。
「……可愛い弟子の、最後の願いを叶えてやりたかった。それだけです」
シグルトは淡々と答える。可愛い弟子――アーシェのためだ、と。
いけしゃあしゃあと言う男に、沸々と、再び怒りが湧き上がってくる。エリックはばっと顔を上げ叫んだ。
「何が可愛い弟子だ! お前がアーシェを殺したんじゃないか!? 燃やして、灰にして、何もかも――!」
「……アーシェの願いを叶えるためなら、私は何でもする。何を犠牲にすることも、禁忌を犯すことも厭わない。それがたとえアーシェ自身を傷つけることであっても……」
「アーシェの願いって何だ? こんなことがアーシェの願いだったっていうのか!?」
そんなはずはない。
彼女がこんなことを望むはずがない。
彼女なら……きっと、いや絶対に、エレナが無事であることを願ったはず。
この異常な男の、おぞましい実験の材料にされることなど、望んだはずがないのだ。
それまで穏やかだったシグルトの口調が鋭いものに変わった。
「君にアーシェの何がわかるっていうんです? たかだが半年一緒にいたくらいで、知った風な口をきかないでください」
ぎらりと光る紫の瞳に、思わずエリックは気圧された。この男の自分を見る目には常に敵意があったが、それが今この瞬間、殺意に変わった。肌が粟立ち、直感的に悟る。破魔の力があっても、この男がその気になれば、自分の命を奪うなど容易いだろう、と。
だが、シグルトはすぐに目をそらした。
「……まあ、君にわかってもらおうとは思いませんし、説明する気もありませんが」
再び歩きだすと、エリックの横を通り過ぎていく。歩きながら、ふと何でもないことのように言う。
「ああ、そうだ……君に会えたついでです。ノーグに伝えてください」
「……! あんた知って……」
思わぬ名前が出て、エリックは目を見開いた。自分とノーグの繋がりに気づかれていたのか。
「彼はどうも私を国王寄りの人間だと思っているようですが……私はあなた方の邪魔をする気はありませんよ。ただ――この子の力が欲しいのか、禁術使用の証拠を掴んで私を失墜させたいのか、どちらが目的か知りませんが、これ以上この子を狙うのはやめることですね。これは警告です。聞いてもらえないなら――私もあなた方に容赦しません」
平坦な口調の中、最後の言葉だけ温度が冷え切っていた。
「では、これで失礼しますよ」
「待て! まだ聞きたいことがある。なぜ俺を殺そうとしない? 六年前も、今も――」
足を止めないシグルトに、エリックは必死で食らいつく。
ずっと疑問だった。六年前、なぜこの男は自分を殺さなかったのか。仮にそれが子供への温情だったとしても、なぜ今も殺そうとしないのか。クライル王子付きの騎士だからか。だがノーグとの繋がりを知っているのなら、反乱軍に与する者として自分を殺す大義名分は十分にある。すべてを知る自分は、邪魔なはずだ。生かしておく価値などないはずなのに。
「それに、六年前のあの時、エレナは――」
「――これ以上質問に答えるつもりはありません。早くこの子を連れて帰らないと、風邪を引いてしまいますから。ですが……」
シグルトはそこで、ようやく一旦足を止めた。
「そうですね……もし君が私に一撃でもくれることができたなら、その時は何でも答えてあげますよ」
男は言った。お前には無理だ――そう言わんばかりの嘲りの笑みとともに。
「もっと強くなれるよう励んでくださいね。……では。正直、できればもう、君とは会わないと嬉しいのですがね」
シグルトは酒場から漏れる光の届かない、闇の中へと消えていく。彼の忠実な下僕もまた、それに付き従い、エリックには一瞥もくれることなく主と同じ闇に溶けていった。
張り詰めていた空気が弛緩し、エリックの耳に酒場の喧騒が届いた。そういえば周囲の音が今まで聞こえていなかった。あの男が何かしていたのか。それとも極度の緊張のせいか。
エリックは剣を鞘に納めた。カチャン、と冷たい金属音が響く。エリックは鞘を握りしめ――腰のベルトから力任せに引きちぎると、振りかぶり、思い切り地面に叩きつけた。
酒場から聞こえてくる楽しそうな仲間たちの賑やかな笑い声を聞きながら、エリックはただ、地面に力なく横たわる、この六年、毎日握り続けた自身の剣を、じっと見つめていた。無気力な、黒い瞳で。
お読みいただきありがとうございました!