75 嫉妬
宴は盛り上がりを見せていた。笑い声が絶えず、そこに陽気な歌声と盃がぶつかる音が混じりあう。
リシェルもこの場の雰囲気を楽しんでいた。旅の途中ではリシェルに対してどこか遠慮しているように思えた騎士や兵たちも、今は酒が入っているせいか、親しげに話しかけてくれる。離れたテーブルに連れて行かれたパリスの方を見やれば、彼もまた、ザックスや他の兵たちに囲まれ、からかわれ、なにやら賑やかにしている。リシェルは思わず微笑んだ。
彼らが無事で本当によかったと思う。同時に、もう彼らと共に旅をすることも、会うこともないのだという寂しさも感じた。もう二度とこの賑やかな輪の中に入ることはできないのだ。
この先はきっと、シグルトの妻として、あの家で静かに暮らしていくのだろう。これまでと同じように。立派な魔道士になって、ディナやパリスのように彼らと肩を並べて戦う日はもう来ない。
先程まで話していた兵たちとの会話が一段落し、しばし一人になったリシェルは、手にしていたグラスに残っていた、わずかなジュースを飲み干した。と、間髪入れずに空になったグラスに紫の液体が注がれる。
「はい、どうぞ。ジュースでいいんだよね?」
「クライル様……」
いつの間にか、すぐ横にガラス瓶を手にしたクライルがいた。
「ありがとうございます」
王子が酌をしてくれるという恐れ多い状況も、相手がクライルだとあまり畏まらずに受け入れられた。彼はこうやって各テーブルを回っては、皆に酒をついで回り、一人ひとりを労っているのだ。こういうところが、彼の人気の理由なのだろう。
彼はリシェルの隣の席に陣取った。
「結婚式の準備は順調?」
「正直、私はあまり何もしてないんです。少人数でこじんまりやるつもりだし、先生がいろいろ進めてくれていて……」
「はは、なんかわかる気がするな〜。張り切っているシグルトと、振り回されるリシェルちゃんって構図が目に浮かぶよ」
クライルはけらけらと笑い、軽い調子で言った。
「よかったらさぁ、結婚式、僕も呼んでよ」
「え? えっと……」
リシェルは思いがけない頼みに、言葉に詰まった。彼のせいで厄介ごとに巻き込まれはしたが、憎めない人柄であるし、意外とリシェルを気遣ってくれる面もあり、個人的にクライルのことは嫌いではない。だが、彼は国王には相当嫌われている。その彼を結婚式に招いたとあっては、国王のシグルトへの心象がまた悪くなりかねない。今日だって、それを危惧してシグルトは来なかったのだ。シグルト自身がこの王子をよく思っていないというのもあるが。
「あれ? 駄目?」
「それは、その……」
「わかってるよ。僕が出席したら、シグルトが叔父上にいい顔されないかもって心配してるんでしょ?」
「……!」
内心の思いを言い当てられ、リシェルは動揺した。
「ふふ、僕だって叔父上が僕のことを嫌ってることくらいわかってるよ。あからさまに態度に出る人だしさ。姉上には結構優しいんだけどねぇ。まあ、僕は母親が平民だし、遊んでばっかだからさ、こんな奴が王家にいるってのが気に食わないんだろうね」
嫌われていることなどまったく気にしていないかのように、能天気に語る。彼はその軽薄な態度とは裏腹に、自分の立場や周りがきちんと見えているようだった。
「大丈夫。迷惑かけないように、ちゃんと目立たないようお忍びで行くからさ。どうしてもリシェルちゃんの花嫁姿見たいんだぁ。姉上も気にしてたしさ。ね、お願い? とりあえずシグルトに聞くだけ聞いてみてよ?」
「……わかりました」
押しの強い王子にせがまれ、リシェルは頷く。露骨に嫌そうな顔をするシグルトが脳裏に浮かんだ。
「ありがとね。あ、でもお忍びって言っても護衛は必要だから、あいつはついて来ちゃうかもしれないけど」
へらへら笑いながら言うクライルの視線の先を追えば、テーブル三つばかり離れた席に、エリックの姿があった。そして、そのすぐ隣にはディナの姿も。エリックの方は時折盃を傾けながらも、いつも通りの鉄仮面だ。だが、ディナの方は酔いもあってか、頬を赤く染め、目をきらきらさせながら、彼に熱心に話しかけている。二人が視界に入った途端、胸がちくっと痛んだ。
「ふふ、ディナ頑張ってるねぇ。エリックもまんざらでもなさそうじゃない? あの容姿だからさ、あいつに寄ってくる女の子って多いんだけど、誰に対しても無関心でさ。すぐに無視してどっか行っちゃうんだよね。でも、ディナのことはいつも邪険にしない。僕の見た限り、明らかに他の女と接し方が違う」
「……」
それは、リシェルも感じていたことだ。注意してみていればわかるが、エリックはディナに対しては明らかに態度が柔らかい。彼はリシェルに対しても何かと気遣ってくれたし、何度も助けてくれた。無愛想な彼が本当は優しい人間であることはリシェルもわかっている。だが、リシェルに向けてくれたその優しさが、今は他の人間に向けられているのを見ると……どうしてだか、胸が苦しい。
「まあ、僕はあいつ、リシェルちゃんには特別優しいと思うけどね。てっきり僕はあいつ、リシェルちゃんに気があるんだと思ってたくらいだもん」
「そんなこと、ないです……」
クライルの言葉を、リシェルはうなだれながら否定した。
この会場に来て、エリックと目が合ったのは、ただの一度だけ。それもすぐ逸らされた。他の騎士や兵たちは皆魔道士三人のもとに代わるがる話しかけに来てくれたが、彼はリシェルのもとへは近づこうともしなかった。幾度か彼に話しかけようと試みたが、その度に彼はさっと違う方へ行ってしまった。避けられているのは明白だ。やはり、シグルトと婚約したことが気に食わないのだろうか。それとも、自分のことなど、もうどうでもよくなったのか。
(一緒に来てくれって……お前さえ傍にいてくれさえすればって……言ってたくせに……)
アンテスタの森で、腕を掴まれ、一緒に来るよう説得されたときのことを思い出す。まるで、愛の告白のような、あの情熱的な懇願。それが嘘だったかのように、今のエリックはリシェルの存在を無視している。無視して、ディナの傍にいる。
「まあ、リシェルちゃんにはシグルトがいるしね。諦めてディナの方にいったって感じ?」
遠くで、ディナが笑う。つられたように、エリックが薄く微笑んだ。
(なんで、笑うの? なんで、私の方を見てくれないの?)
無意識に手が首元へ伸びる。服ごしに感じる小さな硬い感触。襟の中に隠してはいるが、今もエリックにもらったネックレスは着けている。今日会ったときにこれをつけて気に入っていることを伝えたら、彼に喜んでもらえるかもしれないと思って。だが、彼は自分を見ようともしない。
「シグルトもエリックも美女と付き合えて羨ましいなぁ。僕なんてどう頑張っても失恋確定なのにさ。もう嫉妬しちゃう!」
唇をとがらせ言うクライルの言葉を聞いて、リシェルはビクッと肩を震わせた。
エリックとディナが一緒にいるのを見るとこみ上げてくる、この不快感。
ああ、そうだ。今、わかった。
これは、嫉妬だ。
誰に対しても無愛想で冷たいエリックが、自分に見せてくれた優しさ。それが、自分に対してだけ向けられる、特別なものだと思いたかった。独り占めしたかった。自分だけが特別だと……そう信じたかったのだ。
そんな身勝手な想いで、大切な友達に嫉妬している。
(私って、なんて嫌な奴なんだろう……)
湧き上がる自己嫌悪を飲み込もうと、リシェルは反射的に持っていたグラスを傾け、中身を一気にあおった。喉がひりつく。顔が熱い。頭がぼんやりしてくる。だが、同時に暗く沈んだ気持ちが少し軽くなっていく気もした。
「あれ、リシェルちゃん? なんか顔赤いよ? もしかして……」
クライルが首を傾げ、自身の手にしている瓶に貼られたラベルを確認すると、わざとらしく叫んだ。
「あっれぇ? ごめんごめん、これジュースじゃなくてお酒だった! 今ジュース持ってくるね」
「……いいです」
「え?」
「もう一杯下さい」
リシェルは空になったグラスを、クライルの前のテーブルにがんっと音を立てて置いた。
「リシェルちゃん、お酒飲まないんじゃなかった?」
「いいんです。私だってもう大人ですから、飲めます」
普段の遠慮がちな態度とは違い、リシェルはまっすぐクライルの目を見て、きっぱり言い切った。明らかにいつもと様子が違う。
「いや、でもぉ……うーん、ちょっとやりすぎちゃったかな?」
クライルは眉を下げ、頬をぽりぽりと指でかきながら、苦笑した。
「いいからください」
常なら絶対に取らない不躾な態度を見せるリシェルに、クライルは肩をすくめた。
「ま、いっか。こういうリシェルちゃんも可愛いし! じゃ、はい、どうぞ」
空になったグラスに再び、紫の液体が注がれる。リシェルはそれをまた一気にあおった。
気分がふわふわと軽くなっていくと同時に、いろいろなことがどうでもよくなっていく。まだ侵食されずに残っている理性が、さっきの態度はさすがに王子に失礼ではなかったか、帰ったらシグルトに怒られるのではないかという不安を呼び起こしたが、それもすぐにふわっと形を失って消えた。
「リシェルちゃん、いい飲みっぷりだねぇ」
クライルは感心したように言うと、すっとリシェルの方へ身を寄せた。二人の距離がかなり近くなる。普段であれば逃げようとするところだが、リシェルは動かず、とろんと赤くなった目で、すぐ横のクライルを見返すだけだ。もはや誰が見ても酔っていた。
「ねぇ、リシェルちゃん。これはシグルトとの結婚に当たって、君への忠告なんだけどさ……」
クライルは周りに聞こえないような小声でささやく。
「絶対にシグルトを裏切らないほうがいい」
「?」
「基本的には僕とシグルトって、愛に一途な似た者同士で、共感できる部分も多いんだけどさ。一つ、僕とシグルトで決定的に違うところがある」
クライルはこれがもっとも重要な点だと強調するかのように、一拍おいて続けた。
「僕は相手の幸せを最優先に考えるけど、シグルトは必ずしもそうじゃないってとこ」
「先生は優しいですよ? いつも自分のことより、私のことを一番に考えてくれて。出会ったときからずっとそうです」
酔いが回っているせいか、まるでのろけているかのような反論をするリシェルに、クライルは薄く笑う。その緑の目には、哀れむような色があった。
「リシェルちゃんの前では、本当にうまく猫被ってるみたいだねぇ。でもさ、君は気づいてないけど、あいつ、もう叔父上も霞むくらいの、まれに見る自己中だからね? 基本的に自分のことしか考えてないよ。目的のためなら何でもするし、他人がどうなったって構わない。本当にどういう育ち方したらあんなやばい奴になるんだろ? 今はリシェルちゃんの愛が欲しくて、いい人ぶってるけどさ、もし君の心が手に入らないとわかったら――――何しでかすかわからないよ、あいつ」
その時、隣のテーブルからわっと歓声が上がった。騒がしさを増した空間で、クライルは逆にさらに声を落とす。
「ごめんね、リシェルちゃん。あんなおっかない奴とくっつけちゃって。本当は君の初恋を応援したいけど、僕にも事情があってさ。君がいつかあいつの本性を知って、絶望しないといいんだけど。僕は君の無事を――幸せを祈ってるからね。これは本当の本当だから」
「クライル様、よく聞こえなかったです」
自身の滅多にない、嘘偽りのない言葉を聞き逃し、首をかしげる哀れな少女に、クライルはいつものへらっとした笑いを浮かべ、すっと身を引いた。今度は周囲の喧騒に負けないよう、リシェルにはっきり聞こえるように声をはる。
「何でもないよ。ねぇ、リシェルちゃん。ところで、シグルトって家だとどんな感じなの? 家でも先生って感じ? それとも、もうリシェルちゃんにデレデレしまくり?」
「なんでそんなこと聞くんですか?」
「うーん、脅迫ネタ探し?」
「なんですか、それ? よくわからないけど、じゃあ、教えますから、もう一杯下さい」
リシェルは三度、空のグラスを王子相手に遠慮なく突き出した。
クライルの先程の忠告も、質問も、よく理解できずに酔った頭の中ですぐに溶かされ消えていく。
けれど、そんなことはどうでもいい。
魔道士を諦めたこと、エリックの冷たい態度、ディナへの嫉妬、そのことに対する罪悪感。そして自己嫌悪。
全部、このまま酔って忘れてしまいたかった。
「ふふ、仰せのままに〜」
クライルは再び手に持つ酒瓶を傾けようとした―――が、横手から現れた手がそれを奪い取る。
「あ、エリック?」
一体いつの間に来たのか、ついさっきまで遠くのテーブルにいたはずの自身の護衛騎士に、クライルは目を丸くした。
「……もうやめておけ。酒に弱いくせに、飲みすぎだ」
エリックは主から奪った酒瓶を別のテーブルに置きながら、眉を寄せ、リシェルを見下ろす。
「別にいいじゃないですか。ほっといて下さい」
目も合わさず、投げやりに返答する赤ら顔の少女に、エリックは深いため息をつくと、今度は主に向かって言った。
「王子、彼女を少し向こうで休ませます。よろしいですね?」
「えー、僕もうちょっとリシェルちゃんとお話したいんだけど?」
すぐにぎろり、と黒い双眸に睨まれ、クライルは肩をすくめた。降参の意と別れを示すため、両手を上げひらひらと振る。
「はいはーい、わかったよ。いってらっしゃい。ごゆっくり〜」
エリックはリシェルの腕を掴んで立たせた。
「放してください!」
「いいから来い」
リシェルは抵抗したが、酔った小柄な少女の抵抗など長身の騎士にとっては無意味だ。エリックはいささか強引に、少女を引きずるように会場の扉へと向かう。
クライルは頬杖をつきながら、二人の後ろ姿を見送った。ちらりとエリックがもといたテーブルに視線を送れば、ディナが兵たちから喝采を受けながら、豪快に酒盃をあおっている。強いのは戦いの場だけではなく、酒の席でものようだ。本当に、先程自身の隣りにいた少女とはまるでタイプが違う。クライルは苦笑しながら、今度は自分が自身の酒盃をあおると、独り言ちた。
「ねえ、エリック。君、本当は誰が本命なの?」
熱気に満ちた建物の外へ出ると、ひんやりとした空気が肌を冷やした。建物の中からは、いまだ盛り下がることのない皆の喧騒が漏れ聞こえてくる。中庭へと降りる階段の最下段、手すりに持たれる形でしゃがみこんだリシェルに、エリックは給仕に持ってこさせた水の注がれたコップを差し出した。
「ほら、水」
「いりません」
リシェルは一瞥もくれずに、つっけんどんに拒否した。
「……かなり酔ってるようだな。飲んでおけ」
エリックはなおもコップを受け取らせようとしたが、リシェルは顔を背けたまま声を荒らげた。
「私が酔ってたって、エリックさんには関係ないじゃないですか! 私に構わないでください!」
「……めずらしく機嫌が悪いな」
エリックは諦めたのか、コップを傍の階段の上に置いた。そのまま、放って置くつもりはないという意思を示すように、リシェルの前に立つ。
高い位置から注がれる視線から逃れようと、リシェルはうつむきながら言葉を続けた。
「私は……先生と結婚するんです。魔道士になるのも諦めます。もう決めたんです。先生を信じようって。そんな私のことなんて……嫌いになったでしょう?」
「……お前は、結局あいつを信じることを選んだんだな。魔道士も辞めるというなら、もうお前と今後関わることもないだろう」
そんなことはない。お前のことを嫌いになってなんかいない。
心のどこかでそんな返事を期待していたリシェルは、エリックの淡々とした、突き放すような言葉に、にじんできた涙をこぼさないよう、ばっと顔を上げた。見上げた先には、明るい月を背景に、いまだに見る度どきりとする、圧倒的な美貌があった。その怜悧な美しさの中に、アンテスタで彼が見せた情熱は、ほんのわずかも見いだせなかった。
なんだか、無性に腹が立ってくる。
「エリックさんは勝手すぎます!」
いまだ酔いで理性がきちんと働いていないせいで、攻撃的になるのを止められなかった。
「一緒に来いとか、意味深なこといろいろ言ったくせに、今日は私のことずっと無視して! ディナとばっかり仲良くして!」
「……なんでディナが出てくるんだ?」
ずっと不機嫌そうな無表情を貫いてきたエリックが、そこで初めて困惑を見せた。
自分からディナの名前を出してしまったせいで、ずっと酒で抑えていた彼女への嫉妬心と自己への嫌悪が、じわっと涙とともにあふれ出してくる。リシェルは抱え込んだ膝に顔を埋めた。涙も、自身の醜さも見られたくなかった。
こんな自分は見られたくないのに、自分の気持ちをわかってほしいという気持ちは止められない。
「私、エリックさんのことがわかりません。エリックさんは優しくしてくれるし、助けてくれるし、ネックレスくれたし……あなたは記憶を無くす前の私を知ってて……私との間に特別な何かがあるのかもって思って……でも結局何も話してくれないし、今は冷たいこと言うし。今日は私とは話も……目も合わせてくれなくて……ひどい、です……ひどい……」
言葉の最後はすすり泣きへと変わっていく。
エリックは、自分を守ろうとするように小さく丸くなる少女をしばらく見つめていた。やがて、かすかに表情を歪めると、彼女に向かってそっと手を伸ばす。だが、その手は触れる寸前、何かを思い出したように引っ込んでいく。エリックはゆっくり踵を返した。
少女を背にして、夜空で明るく輝く月を見上げる。恨めしげに、悲しげに。
「……ひどいのは、どっちだ? 俺がようやくお前を見つけたとき、俺がどんな気持ちだったかわかるか?」
ついぽろりと、口にするつもりのなかった思いがこぼれる。酒にはかなり強い方だが、自分も今日は少し、酔っているのかもしれない。
「俺のことなんて完全に忘れて、あいつの側でにこにこ笑って……あいつは何もかも奪った俺たちの敵なのに。それなのにお前は……お前は……」
エリックはぎゅっと両手の拳を握りしめた。
「そんなにあいつがいいのか? そんなにあいつと過ごしてきた時間が幸せだったのか? 俺のことなんか、思い出しもしないくらい?」
ずっと取り戻したいと願った少女が、あの憎い男に向ける笑顔を見たとき。
悟ってしまった。確信してしまった。
もう彼女は自分の知る少女ではない。
変わってしまったのだ、と。
「……俺は、どうすればいい? 何もかも、お前に全てを話せばいいのか? でも、そうしたらお前はきっと苦しむことになる……このまま何も知らないままでいた方が、お前は幸せなんだろうな……だけど……俺は、あいつが憎い。俺から全てを奪ったあいつが、お前を得て幸せになるなんて……到底許せそうにない。今だって、あいつへの憎しみと嫉妬でおかしくなりそうなのに。でも……」
あの男に復讐する。
その誓いだけは決して揺るがないと思っていたのに。今はそこに迷いが生まれていた。
「あいつを殺したら、お前は泣くのか……?」
少女からの返答はない。いつの間にかすすり泣く声も聞こえなくなっていた。
エリックが再び少女に向き直ると――彼女は柱に頭をもたれ、すやすやと寝息を立てていた。頬に涙のあとが見える。
自身の恨み言が届いていなかったことにエリックは安堵すると同時に、虚しさも感じた。
また、この苦悩を自分ひとりで抱え込まなければならない。一人、孤独に。
「俺は……あの頃に戻れるなら……戻りたい。あいつが現れる前の……三人でいた、あの頃に。俺は一体どうすればいい? どうすればいいんだ? エレナ……」
手は無意識に、救いを求めて、自身の胸元へと伸びた。服の下、感じた硬い感触を握り込む。自分をここへ導いた、大切な人からもらった羅針盤。
「教えてくれよ。アーシェ……」
どれだけ願っても、誰も答えてはくれない。
どうすべきかは、自分で決めるしかない。
どんな道を選んでも、おそらく全員が救われる道、幸せになれる道はない。
三人でいた、幸せだったあの頃には、もう戻れない。
どうあっても、誰かに、不幸と、孤独と、苦悩を強いることになる。
その誰かを決めるのが、自分なのだ。
ああ、なんて損な役回りなのだろう。
そんなの、決められるわけがないではないか。
この自分の迷いが、決断から逃げようとする弱さが、彼女への中途半端な態度になって、彼女を傷つけていることはよくわかっている。
目の前にある無邪気な寝顔を見る。
彼女が何も知らないことに対する安堵。
そして苛立ち。
相反する気持ちが湧き上がってくる。
もういっそ。
あの時、アンテスタで彼女の手を引きながら考えたように。
彼女をこのまま攫ってしまおうか。
何も教えず、無理矢理にでも。
彼女はあの男から引き離されて泣くだろうか。
いや、泣いたって構わない。自分と同じ苦しみを、少しは彼女も味わえばいい。
そうでなくては不公平だ。
シグルトからも、ノーグからも逃げて、どこか遠くで、二人で暮らす。
真実から目を背け、過去を曖昧にしたままで。
それでも、彼女がそばにいてくれさえすれば。
それしかない。
もう、それでいい。
悩み続けるのももう限界だ。
「エレナ、ごめんな。俺は――」
固まりつつある決意に背を押され、エリックは眠る少女に向かって、ゆっくり一歩を踏み出した。
だが次の瞬間、凍り付く。
「……やれやれ、あれほど酒は飲むなと言ったのに。本当に困った子だ。迎えに来て正解でしたね」
すぐ背後で、憎い男の声がした。
かなりお久しぶりになってしまいました……
今後は少なくとも二週間に一話はなんとか更新していきたいなと思います。
ここからがいろいろ明らかになっていくところですので、慎重かつ気合をいれてがんばります。
よろしくお願いします^^