73 決断
夕食後の時間は、静かだった。台所から響く、セイラが食器を片付ける音。開いた窓の外から聞こえる夜虫の声。そこに時折、本のページをめくる音がするだけ。シグルトもリシェルも、夕食時におしゃべりを楽しんだ後、居間で各々読書をして過ごしていた。
シグルトは居間のソファにゆったり身体をもたれ、本を読んでいる。珍しく恋愛小説以外の本を読んでいると思ったら、結婚式の式場の資料だった。そこに載っているのは、ほとんどが王都内にある小さな教会ばかり。
国一番の大魔道士の結婚式となれば、貴族や導師たちも大勢呼んで、大規模に執り行われなければならないのかと、リシェルはずっと気が重かったのだが、それはシグルトがあっさり否定した。
「たいした付き合いもない貴族や導師たちを呼ぶつもりなんてありませんよ。来るのはどうせ、私に取り入りたいとか下心がある連中だけですから。誰か呼ぶにしても、私の両親はもう他界していますし、親族とも疎遠ですし……せいぜい、師匠とブランくらいですかね」
「先生、友達いませんもんね……」
「君に言われたくないですね。君だっていないでしょう?」
思わずぽろりと漏れてしまった率直な感想に、鋭い反撃を食らって、リシェルは言葉に詰まった。確かに、友達と呼べるのはパリスとディナくらいだ。パリスは多分、招待したら来てくれるだろう。だが、ディナは……シグルトとの結婚を祝福する気はないとはっきり言われてしまった以上、出席してもらえない可能性が高い。
ふと、黒髪の騎士のことが頭に浮かんだ。リシェルがシグルトと婚約したことは、彼ももう知っているはずだ。彼はどう思っているだろうか? 怒っているだろうか。忠告したのに、と呆れているだろうか。いずれにせよ、彼にも祝ってはもらえないだろう。
この結婚を心から祝福してくれる人は数える程しかいないのだ。小さな教会でごく身内だけの結婚式にしよう、ということですぐに話はまとまった。
「別に私は、君と二人きりの結婚式でも構いませんけどね」
シグルトはそう言って笑った。ここ数日は二人でいくつか目ぼしい式場を見学に回ったが、シグルトのほうがあれこれとこだわりが強く、リシェルよりもはるかに熱心だった。
今もすぐ隣で、式場の資料を黙々と読み込むシグルトを、リシェルはちらちらと見やった。手に持っている魔道書の文字はまるで頭に入って来ない。どうやって切り出そう。どうやって説得しよう。悩むばかりでなかなか言い出せない。このままでは就寝時間になってしまう。リシェルは読んでいた本をそっとテーブルに置くと、意を決してシグルトに話しかけた。
「あの……先生」
「なんです?」
資料に目を落としたまま答えるシグルトに、リシェルはおそるおそる続ける。
「二日後に、クライル様がアンテスタでの任務成功を祝う宴をするそうなんですが……」
「ああ、あれですか。私にも来ないかって誘いがありましたよ」
「行かれるんですか?」
シグルトも出席するならば、自分も問題なく参加できる。思わず声を弾ませたリシェルが問うと、シグルトは顔を上げた。呆れ顔だ。
「まさか。あの馬鹿王子主催の宴に参加なんてしたら、それこそ国王に目をつけられますよ」
「……そう、ですよね」
確かに、シグルトがクライルの誘いに応じたら、国王の心象は悪くなるだろう。せっかく王都を離れた件がお咎めなしとなったのに、またクライルの味方をしているのではないかと疑われかねない。
明らかに声を沈ませたリシェルを、シグルトはじっと見つめた。
「それで? 王子の宴がどうしたんです?」
「それが、その…………私もクライル様にお誘いいただきまして………………行って来ていいでしょうか?」
師の眉が寄ったのを見て、リシェルの声は後半小さくなっていった。
「……私がいいと言うと思います? そんな男ばかりの酒の席に行くだなんて」
シグルトの答えは予想通りのもの。だが、リシェルは食い下がった。
「でも、ディナも来ますし……私だけ先に先生と帰ってしまったから、できれば皆さんに謝りたくて……」
シグルトはどさり、と手にしていた資料の束を目の前のローテーブルに幾分乱暴に置いた。
「別に謝る必要なんてないでしょう。君がいなきゃ、私はアンテスタなんて行かなかった。私が行かなければ、戦いが長引いて、ラティール騎士団にはさらに被害が出ていたでしょう。あの馬鹿王子も騎士団も、むしろ君に感謝すべきですよ」
「先生には感謝してます。でも……私は、私自身は、結局何の役にも立てませんでしたから……それに、皆さんの安否も気になりますし……」
倒れたというエリックは本当に大丈夫なのか。ザックスやダートンは怪我などしていないだろうか。短くない旅路を共にした仲間なのだ。この目で無事を確認したい。
不機嫌になってしまった師を前にして、リシェルは縮こまりながらも、その一心でなんとか説得を試みる。
そんな弟子に、シグルトは体を起こすと、険しい表情で向き直った。
「……リシェル、今回クライル王子の任務に同行して、どうでしたか?」
「え?」
「危険な目にあって……怖かったでしょう?」
黒服の刺客が持つ刃のきらめき。ロビンの手が肌を這う感触。見るもおぞましい魔物の咆哮。向かい来る大蛇の鋭い牙。それらが一瞬で脳裏を駆け巡り、思い出した恐怖に肌が粟立つ。リシェルは素直にこくりと頷いた。
シグルトはいつになく真面目な表情で続けた。
「リシェル、いずれきちんと話をしなくてはいけないと思っていましたが……君がもし今後も私の弟子で居続けるなら、また今回のような危険な任務を命じられることもあるかもしれない。それでも、魔道士になりたいですか?」
なりたい。立派な魔道士に。それはまぎれもない本心だ。
だが、思い出してしまった恐怖と、師のあまりに真剣な眼差しに、答えることが出来なかった。
「私は君に魔道士の道は諦めてほしい。私の妻になった後も、今まで通り弟子として一緒にいるのは、周りの人間もやりづらいでしょうし。それに……」
シグルトの紫の瞳がすっと細まった。視線が刃物のような鋭さと冷たさを帯びる。いつもそこにある婚約者を見る甘い熱も、今はなかった。
「とても酷なことを言うけれど、君の師匠としてはっきり言います。君に魔道士としての才能はありません。修行を始めて、自分でもわかっているんじゃないですか? 君の魔力では、下級魔道士にもなれるかどうか……それが、君の実力です」
「……!」
師の言葉がぐさりと心に突き刺さる。
シグルトの言う通り、自分でもわかっていたことだった。最初こそ、初歩の魔法を使えるようになって、浮かれていた。自分にも魔力がある。自分も魔道士になれるのだ、と。だが、パリスにどんなに教えてもらっても、毎日訓練に励んでも、そこから先に進むことがどうしても出来ない。ごく初歩の治癒魔法の成功率も、ずっと不安定なまま。強風を起こす魔法は、いつまで経ってもそよ風も起こせない。
魔道士としてのセンスは悪くない、とパリスは言ってくれた。よく頑張っている、とも。その言葉を信じるならば、原因はやはり、やり方が悪いわけでも、努力が足りないわけでもなく、そもそも持って生まれた魔力が足りないのだ。
つまり、才能がない。そして、才能がなければ、魔道士にはなれない。どれだけ頑張っても、どれだけ願っても。
自分は、おそらく魔道士にはなれない。薄々悟り、しかし希望を捨てられず、完全には受け入れられなかった現実を、こうして師にはっきりと突きつけられると、想像以上にこたえた。
心の傷口からどくどくと湧き出た悲しみは、堪えきれずに目からあふれる。
リシェルの頬を伝う涙を見て、シグルトはうろたえた。師匠としての顔が一瞬で、保護者のものへと変わる。
「リ、リシェル。すみません、その、急にきついことを言ってしまって……」
リシェルは子供のように泣いてしまった情けなさに、またこぼれ出した涙を両手で必死に拭った。
「いいんです。わかってます……私に、才能がないことも……先生の弟子を辞めるべきなんだってことも……ただ、私、少しだけど魔法を使えるようになって、本当に嬉しくて……こんな私でも、先生や、誰かの役に立てるような人間になれるかもしれないって思ったから……だから……」
リシェルはずっと自分に自信が持てなかった。自分が何者かもわからず、ただシグルトに頼って甘えて、生かされているだけの存在。そんな自分でも、魔法という夢中になれるものを見つけ、使うことが出来た。シグルトやパリスからすれば、取るに足りない初歩の魔法。それでも、リシェルにとっては大きな希望になった。頑張れば、自分も魔道士になれる。シグルトにただ守ってもらうだけの名ばかりの弟子ではない。師を助け、彼の役に立てる人間、そして周りからも大魔道士の弟子として認めてもらえる人間になれるかもしれない、と。
自分に才能がないことに気づき始めても、一度抱いてしまった希望は容易には捨てられなかった。リシェルには他に何もないのだから、どうしたってそれに執着してしまう。ずっと魔法が上手くいかず、半ば諦めかけていたが、ザックスの怪我を治癒できた時には、改めて魔道士になりたい、自分にもまだ可能性はある、と再び希望を抱いた。だが、王都に帰って来てからもやはり成長はないまま。
希望と諦めの狭間でずっと揺れ続けていた。そこへ与えられた師からの決定的な言葉。それは捨てきれなかった希望を粉々に打ち砕き、リシェルを辛い現実へと突き落とした。その衝撃は、予想以上だった。思わず溢れた涙に、リシェルは自覚しているよりもずっと強く、自分は魔道士を夢見ていたのだと気づいた。
「リシェル、君が望むなら、もちろん弟子を続けても……稀ですが何年も修行して、ようやく芽が出る魔道士もいますし……」
シグルトの言葉に、リシェルはしゃくりあげながらも、首を振った。
「いいんです。弟子は辞めます。先生は導師ですから、後継者になれる、もっと優秀な人を弟子にしないといけないんです。私なんかのためにご迷惑はかけられません」
リシェルが意地を張って、弟子を続けたら。きっと優しいシグルトは最愛の、だが才能のない弟子に劣等感を抱かせないように、他の優秀な弟子は取らない。それに、また任務で危険な目にあったら、シグルトは何度でも助けに来てくれるだろう。誰に批判されようとも、リシェルのことを第一に考えて行動するはずだ。
つまり、自分が弟子である限り、ずっと彼に迷惑をかけ続けてしまうのだ。
「リシェル……」
リシェルは涙をすべて拭いきると、師に精一杯、微笑んでみせた。
「ずっと前からわかってたことだったのに……私、優柔不断だから、なかなか決断できなくて……今、先生にはっきり仰っていただいて、ようやく諦めがつきました。ありがとうございます」
「……」
可愛い弟子の夢に残酷な現実を叩きつけ砕いた負い目を感じてか、シグルトはひどく気まずげにしている。後悔に苛まれているかのような、苦しげにすら見えるその様子は、こちらが申し訳なくなる程だ。リシェルは努めて明るく言った。
「弟子としてはお役に立てませんでしたけど、これからは先生の奥さんとして頑張りますから。それに、魔道士になれなくても、きっと私にだって何か他に出来ることがあるはずです。だから、そんな顔しないでください。先生は何も悪くないんですから」
だが、シグルトの顔は暗く沈んだままだった。
「……いえ、私が悪いんです。君を側に置きたいばかりに、君を魔道士にさせるつもりもないのに弟子にして、期待させて……君に嫌われたくなくて、はっきり言うのを先延ばしにして……結果、君を傷つけてしまった。本当に、私は君にひどいことばかりしてますね……」
「そんなこと……」
シグルトは後悔を振り切るように顔を上げると、リシェルの手をそっと取った。
「リシェル、魔道士になりたいという望みだけは叶えてあげられないけれど、他のことなら、私はなんだって叶えてみせます。君は欲がないのか、遠慮しているのか、自分の望みをあまり言わないけれど……欲しいものでも、行きたい場所でも、やりたいことでも、なんだって言ってくれていいんですよ。君の幸せが、私の望みであり幸せなんですから」
婚約者が本気でそう言ってくれていることを察して、リシェルは遠慮がちに口を開いた。
「えっと……じゃあ」
「なんです?」
「弟子を辞めたらもう、ラティール騎士団の皆さんと任務でお会いすることもないですし、最後にご挨拶に行ってもいいですか……?」
「…………君、結構ちゃっかりしてますね。ここで言われたら、駄目って言えないじゃないですか」
弟子の存外なしたたかさに、シグルトは苦笑した。
「……まあ、もう君が私の婚約者だということは知れ渡っていますしね。君にちょっかいをかけようとする愚か者もいないでしょう。……今回だけですよ」
「ありがとうございます!」
よかった。このままみんなと会えなかったら、任務を中途半端にしてしまった後味の悪さをずっと感じたままだったろう。シグルトと帰らず、あの場に残ったとしても、たいして役には立てなかっただろうが、気持ちの問題だ。シグルトの弟子として受けた最初で最後の任務。クライルの祝勝会に行って、きちんと終わりを見届け、気持ちの整理をつけるつもりだった。
喜ぶリシェルに、シグルトはやや表情を引き締めた。
「その代わり、二つ約束してください」
「何ですか?」
シグルトは握ったリシェルの左手を持ち上げると、懐から何かを取り出し、そっとその薬指に滑らせた。
彼が手を放した後、リシェルは自身の左手をまじまじと見た。薬指の付け根が光っている。そこにあったのは、淡い薄紅色の宝石が嵌められた指輪だった。銀の土台部分には葉と蔦の意匠が細かく施されている。
「これは……」
先日シグルトと行った、王都で最も有名な宝飾店で見たものだ。どれが好きかと問われて、真っ先にこの指輪に目がいったが、値札を見て絶句した。すぐに目をそらしたものの、やはり気になって何度もちら見していた、繊細なデザインが美しい指輪。
「婚約指輪ですよ。君は言わなかったけれど、これが一番気に入っていたようだったから」
シグルトは気づいていたらしい。日頃職務には怠慢なくせに、リシェルのこととなると素晴らしい観察眼を発揮する師には恐れ入る。
「あ、ありがとうございます……」
「約束の一つ目は、この指輪をこの先いつでも身につけておくこと。いいですね?」
「は、はい」
リシェルは、指輪のはめられた薬指を、右手でぎゅっと包み込んだ。石と金属の硬い感触が、今までどこか曖昧でふわふわしていた、婚約者としての自覚を強く促してくる。
「それから、二つ目ですが、くれぐれもお酒は口にしないこと。君はあまり強くないようだから。約束ですよ?」
「はい」
初めての夜会で少し口にしただけで酔ってしまったのだ。自分はおそらくあまり酒に強くはないのだろう。リシェルは素直に頷いた。
シグルトの紫の瞳が妖しく光る。
「……もし酔って帰ったら、何をするかわかりませんからね。私が」
含みを持たせた言い方に、リシェルは背筋を正した。
「き、気をつけます」
シグルトはくすっと笑うと、テーブルの上の資料を手に取り、立ち上がった。
「さて、と。もうこんな時間ですか。それじゃあ私はお風呂に入ってきますかね」
そのまま自室へ帰るべく、資料を片手に扉の方へと歩き出す。その後ろ姿をみて、リシェルはふと昼間のことを思い出した。
「あ、そういえば。先生」
シグルトの背に向かって問いかける。
「今日、ロゼンダ導師が仰っていたんですけど……先生の左肩の黒い痣、まだあるのかって」
ばさばさっ
シグルトの手から、資料の束が落ち、床の上で散らばり広がった。
「先生?」
シグルトがゆっくりと振り返る。その動きはからくり人形のようにぎこちなく、青ざめた顔面は引きつり、冷や汗が浮いていた。
「リシェル、あの、彼女とのことは、その、若気の至りと言うか何というか、お互いただの遊び……あ、いや、私はそんな不誠実な男ではないんですが……ただその、昔は彼女の方が立場が上で、逆らえなくてですね。業務の一環、そう、仕事のようなもので……」
「あの、お話が見えないんですが?」
突如様子がおかしくなった師に、リシェルは大きな目をぱちくりさせて首を傾げている。
「怒ってないんですか?」
「え? 何ですか? 私はただ、先生がどこかお怪我でもされてるんじゃないかって心配してるんですけど」
「え? ああ、心配……」
リシェルの言葉と態度に、危惧した状況ではないことをさとり、シグルトの肩から力が抜けた。彼女の純粋さと鈍さに感謝しつつ、安堵の息をつく。
「大丈夫ですよ。痣なんてありません。彼女の勘違いでしょう」
「本当ですか?」
自分を心配させまいと嘘をついているのではないか。疑うリシェルに、シグルトはにやっと笑うと、自身のローブの襟元に手をかけた。襟がずり落ち、鎖骨のあたりまであらわになる。
「心配なら脱がせて確認してみます? このまま浴室に一緒に行きましょうか? 一緒に入って――」
「結構です! 私部屋に戻ります!」
からかわれていると知って、リシェルは顔を赤らめ立ち上がると、師の横を足早にすり抜け居間を出ていった。
どたばたと階段を駆け上がる音が消えると、シグルトは襟にかけていた右手を離し、今度は自身の左肩をそっと掴んだ。
その顔に切なげな微笑みが浮かぶ。
「……本当に、大丈夫ですよ。もう消えましたから……完全にね……」
小さな呟きは、誰の耳にも入ることなく、夜の静けさに溶けていった。
新年あけましておめでとうございます!
今年こそ完結させたいです。
今年もよろしくお願いいたします。