71 アーシェの過去
『あ』
廊下の角を曲がったところで、偶然にもばったりと鉢合わせたリシェルとディナは、お互いを認識すると同時に声を上げた。
『……』
立ち止まり、向かい合うものの、どちらも黙ったまま。法院の各塔を結ぶ回廊には、二人の他にも幾人もの魔道士たちが歩いている。彼らは、動かない彼女たちに少し怪訝そうな顔をしながら、二人を避けて通り過ぎていく。
リシェルがディナと会うのは、あの日――ディナにシグルトとの婚約を反対されて以来だ。なんとなく顔を合わせにくくて、特に連絡もせずに数日が経っていた。それはディナも同じだったのだろう。
リシェルが言葉を探している内に、ディナの方が気まずい空気を破った。
「……久しぶりね、リシェル」
「ひ、久しぶり、ディナ」
「……リシェル、その、今、ちょっとだけ時間ある?」
「あ、うん、大丈夫……」
どこかぎこちなくリシェルが頷くと、ディナは今いる回廊から、外の中庭に出るように促した。昼過ぎの忙しい時間帯、回廊を渡る他の者たちは皆、足早に通り過ぎるだけで、庭に出てくる者は他になく、確かに庭でならゆっくり話せそうだ。
木陰に設置されたベンチの一つに二人並んで腰掛ける。ディナは両手に抱えていた何冊もの本や書類やらを、自らの隣にどさっと置いた。
「調べ物?」
なるべく普段通りを心がけて、リシェルは話題を振る。
「うん。私、ミルレイユ様の足の治療法を探していてね。これはさっき図書館で借りてきた資料なの」
そういえば、クライルがディナは王女の足の治療に協力していると話していたのを、リシェルは思い出した。
「ミルレイユ様、良くなりそう?」
「正直に言うと、今の所難しいわね」
いつも自信たっぷりの彼女にしては珍しい、弱気な発言だ。
「ディナの魔法でも治せないの?」
「もちろん、魔法で今日にでも歩けるようにはできるわよ。でもそれはあくまで、一時的なものなの。私の魔力が持続している間だけ。本当に治ったわけじゃない。私が常に魔法をかけ続ければ効果は続くけど……まさかこの先一生、四六時中ずーっと魔力を送り続けるなんて真似できないし。さすがの私もぶっ倒れちゃうわ」
ディナは顔を上に向けた。後ろで一つに結んだ橙色の髪が揺れる。リシェルもつられてそれに倣った。上には、穏やかな青い空が広がっていた。目を凝らせば、その空を薄っすらと輝く、透明な薄い膜が覆っている。王都を守る守護結界だ。
「それを考えると、六導師ってやっぱりすごいわよね。年中休みなく、王都にいる間、守護結界に自分の魔力を提供し続けてるんだから。いくら六人で分担しているとはいえ、結構な負担よ。並の魔道士なら、のほほんと普通の生活なんて送れない」
リシェルは任務中、パリスがクライルと自分を刺客から守るため、一晩中宿に結界を張っていたことを思い出した。普段は時間をきっかり守るパリスが、寝坊して度々朝の集合時間に遅れていたのは、それだけ魔力を使って疲労していたのだろう。
シグルトは宿一軒とは比べ物にならない、王都という広範囲に結界を張るため、四六時中魔力を提供している。結界維持に必要なすべての魔力を一人でまかなっているわけではないにせよ、相当な負担であるはずだ。だが普段のシグルトは、ごく普通に日常生活を送っており、そのような負荷がかかっている様子は微塵も感じられない。
(朝寝坊が多いのは、ただ小説を読んで夜ふかししているせいだし……)
夢中になれる趣味があることはよいことだが、重責を負っている身体のためにも、規則正しい生活を送ってもらいたいところだ。
「ブラン様以外、どいつもこいつも人間性に問題ありだけど、導師たちの実力は認めざるおえないわね。悔しいけれど」
「ブラン様以外って……ガーム導師も問題ありなの?」
ディナの言葉に引っかかって、リシェルは首を傾げた。きちんと話したことはないが、ガーム導師はディナの祖父であるし、悪い人であるようには思えなかった。
ディナは大きくため息をつく。
「おじいちゃんはね……まあ、あの中ではまともな方だし、悪いことはしていないけど、本当に人を見る目がないというか……前も話したと思うけど、今までこれぞと見込んだ弟子が、みんな問題行動起こしてるのよね。シグルトの親のアルフェレス夫妻は禁忌を破るし、前の一番弟子だったノーグ様は突然どっかに消えちゃうし……他の弟子もいろいろあってね。まあ、それはおじいちゃんのせいじゃないし、仕方ないんだけど、おじいちゃんの良くないところは、周囲があいつはやばい!って忠告しても、まったく聞く耳持たないのよね。で、結局信じた人間に裏切られるっていうのが多くて」
困ったもんだわ、とディナは呆れたように話しているが、孫として祖父を心配しているのだろう。両親を失った彼女にとって、唯一の家族なのだ。
「おじいちゃん、シグルトのことも昔から気に入っているのか、やたら肩持つのよね。うん、やっぱり人を見る目がないわ」
高齢の祖父のことをそう断じてから、話題を戻す。
「……って話がそれたわね。ミルレイユ様の足ね。魔法なしでも歩けるよう、完全に治すには、今のこの国の治癒魔法じゃあ難しいのよね。エテルネル法院は攻撃魔法に関しては群を抜いているけど、治癒系の術は結構お粗末だから。治癒魔法の研究はディアマス王国が随分進んでるらしいけど……国王が各国に戦争しかけまくって、ディアマスとも敵対してるから、とても向こうの魔道士協会に技術提供をお願いできる状態じゃないし……前途多難だわ」
ディナは肩を落としてから、ぽつりと呟いた。
「……アーシェがいてくれたらな」
脇においた資料の山に視線を落とし、そっと手で撫でる。
「アーシェは、ほとんどの魔道士が人を傷つける魔法にしか興味がない中で、人を助ける魔法の研究をしていたから。きっとミルレイユ様の足を治す方法も一緒に探してくれたと思うし、あの子ならきっと見つけられたはずよ」
アーシェの話になって、この間のこともあり、リシェルはどう反応していいかわからなくなった。しばしの沈黙の後、目を伏せたまま、ディナが小さな声で言った。
「……この間はごめんね。リシェル」
「え?」
「会うなり大きな声を出したりして……あなたがあいつと婚約したって話を聞いて、すごく頭に血がのぼっていて……前も反省したのに、やっぱりあいつのことになるとかぁーっってなっちゃう。だめね」
「いいの、気にしないで。私……ディナが私を心配してくれてるって、ちゃんとわかってるから」
リシェルが言うと、資料の山の上で、ディナの手がぎゅっと握りしめられる。
「……私は正直、あなたにこれ以上、あいつと関わってほしくない。あなた、クライル王子を狙った刺客に連れて行かれそうになったんでしょう? それ多分、十中八九、シグルト絡みよ」
ディナはあえて、アンテスタで現れた魔物も、おそらくリシェルを狙ってルゼルが送り込んだものであろうことは言わなかった。あの戦いで騎士団にも少ならからず怪我人が出たから、事実を知ったらリシェルは責任を感じて自分を責めるだろう。だからパリスとも相談して、あの件の真相はリシェルには伏せている。
ディナの本心としては、すべてを明らかにし、ルゼルを糾弾したいところだが、パリスの証言だけでは難しいだろう。導師相手に下手をすれば、こっちが法院を追われかねない。
シグルトが内々に処理する、と言っていたらしいが、今の所、導師会議でルゼルの行動が問題にされることもなく、彼もこの件を公にする気はないようだ。おそらく個人的にルゼルに警告し、今後はリシェルに手を出すなと釘を刺した程度で済ませたのだろう。
だが、あの執念深いルゼルが一度の失敗で諦めるとは思えない。またリシェルが狙われる可能性は十分にある。シグルトがリシェルのことを本当に守るつもりなら、ルゼルの悪事を暴き、法院から追い出すべきではないのか。アーシェが法院を追われた時とは違い、今のシグルトは導師だ。実力的にも、立場的にもそれが出来るはずなのに。シグルトの対応は、ディナの彼への不信感をより強くしていた。
「あいつを恨んでいる奴も、逆にあいつの力を利用してやろうって奴もたくさんいる。この先もあなたは、あいつのせいで危険な目にあうかもしれない。確かにアンテスタではあいつはあなたを助けに来た。でもこの先もずっと、あいつがあなたを見捨てずに最後まで守りぬくとは、私には思えないのよ」
シグルトにとってリシェルは、確かに今は自分を慕う素直で可愛い、愛おしい存在なのだろう。だが、もしリシェルが彼に逆らったら? 彼を信じなくなったら? その時シグルトは彼女を守るだろうか。いや、きっと見放すだろう。アーシェが彼にとって、誰もが羨む将来有望な弟子から、不祥事を起こして師の顔に泥を塗り、その名声を貶める存在となった時、あっさり彼女を見限ったのと同じように。ディナはそう確信していた。
「なんとか考え直せない? リシェル」
ディナはリシェルの薄紅色の瞳をじっと見て、彼女がなんとか考えを改めてくれることを願った。
だが、申し訳無さそうな顔をしながらも、リシェルははっきりと首を振る。
「……あいつのことが好きだから?」
リシェルは答えず、ただ曖昧に微笑んだ。
「先生の話が、先生にとって都合のいいもので、信憑性がないんだってことは、私もわかってるの。でも、それでも私は先生を信じたい。これが恋なのかはわからないし、ディナの言う通り、ただ私を拾って育ててくれた先生を、無条件に受け入れているだけかもしれない。でも、この信じたいっていう気持ちは……きっと、特別なもので……私にとって、大切なものだから」
これが恋であろうと、育ての親への思慕であろうと、どちらにせよ、リシェルにとってシグルトが特別な存在であることに変わりはない。信じていたい。失いたくない。その気持ちの源泉が恋だろうと師弟愛だろうと、そんなことは大した問題ではない。結論は同じなのだから。散々悩み、考え抜いた末にリシェルはそう思い、シグルトの求婚を受けたのだ。
ディナはしばらく、リシェルをじっと見つめた後、口元を緩めた。
「あなたって、見た目は気弱そうなのに、一度決めると頑固よね。そういうところも、出会った頃のアーシェにちょっと似てる」
「私なんかがアーシェさんに似てるなんて……一体どこが……?」
「そういう自分に自信のないところとか、よ」
ディナはくすりと笑う。
「自分に……自信がない?」
アーシェも自分に自信がなかったというのだろうか。天賦の才能に恵まれ、誰もがも認めた天才魔道士が?
「そう。自分に自信がなくて、自分に価値があるって思えなくて……きっと子供の頃に住んでいた村で、ひどい扱いを受けていたせいでしょうね。初めて会った時は、なんだかびくびくしていて、暗い子だなぁって思ったわ。魔術学院に入学してきて、初めの頃は本当に目立たない、おとなしい子だったのよ。学院で容姿のことでをからかわれても、何も言い返さなくて……なのに、私が悪口を言われた時は代わりに抗議してくれて。自分に自信がなくて普段おどおどしてるくせに、人のことになると一生懸命になる。その頃のアーシェと、なんだか似てるのよね、リシェルって。昔の自分と重なったから、カロンでアーシェはあなたと一緒にいたのかもしれないわね」
初めて聞くアーシェの意外な過去。驚きつつも、きっと子供の頃から才能を発揮し、完璧な魔道士なのだとばかり思っていた彼女に、自分と似た部分があったと知って、リシェルは少し親近感を覚えた。
カロンで自分がどのような境遇にあったのかわからないが、身寄りもなかったというし、もしかしたらアーシェの子供時代のようにあまり幸せではなかったのかもしれない。それでアーシェは、ディナの言うように、リシェルに過去の自分を重ね、同情して側にいてくれたのだろうか。
ディナの話に、少し期待が生まれた。自分も変われるだろうか、アーシェのように。
「なんだか意外……アーシェさんは子供の頃から天才で、強い人だったんだと思っていたから」
「そうね……アーシェは学院を卒業するまでに本当に変わったわ。それは、アーシェに目標があったからよ。自分を村から救い出してくれた、シグルトのような強い魔道士になりたい、そしていつかあいつに恩返ししたいっていう目標がね。自信のなさの裏返しで、あの子は本当に必死で、一生懸命だった。学院の誰より、勉強して、鍛錬を積んで……アーシェには一度こうと決めたら、何があっても貫く頑固さ……強さがあった」
決めたことを貫く強さ……そんなものが自分にあるだろうか。確かにシグルトには意外と頑固だと評されることはあるが、同時に流されやすさも自覚していたリシェルは自問した。
「誰も勝てない程の努力で、素晴らしい成績と実績を積み重ねて、自分で自信を手に入れて……念願のシグルトの弟子になってからも、ますます精進して……“大魔道士シグルトの弟子”に相応しい自分であるために」
懐かしそうに語っていたディナは、そこで一息置いた。
「……全部、あいつのために」
アーシェはシグルトを尊敬し、慕い、彼に相応しい弟子であろうと努力と研鑽を重ねてきた。その弟子を、シグルトは手にかけた。親友の想いを知っていた分だけ、ディナの中でシグルトへの憎しみは大きくなったのだ。
「……リシェル、あなたの気持ちはわかったわ。でも私はやっぱりシグルトが嫌いだし、あなたたちの結婚を祝う気にはとてもなれない。でも……」
ディナは少し悲しそうに、だが優しく微笑んだ。
「私にとって、リシェル、あなたは友達だから。たとえ、あなたがシグルトの妻になっても」
憎くて仕方ないシグルトの妻になることを選んだ自分を、これからも友達と呼んでくれる。ディナの言葉にリシェルの胸が熱くなった。
「ありがとう……ディナ」
「……って、どうしたの!?」
今にも涙が零れそうな程、瞳をうるませ始めたリシェルに、ディナは動揺した。
「ごめん、嬉しくて……ずっと不安だったの。先生と結婚するって決めたけど……私もディナに嫌われちゃうんじゃないか、友達じゃいられなくなっちゃうんじゃないかって……」
シグルトの求婚を受け入れると決めてから、何の迷いも不安もなかったわけではない。一番の懸念はディナのことだったのだ。果たして彼女が“親友を殺した男の妻”になる自分を、これからも受け入れてくれるのか。せっかく得た初めての女友達を、失ってしまうのではないか。そうなってしまっても仕方ないと覚悟しつつも、やはり想像するだけで苦しかったのだ。
照れ笑いを浮かべながら、目をこすって涙を拭くリシェルに、ディナは笑った。
「馬鹿ね。そんな心配する必要なかったのに。嫌いになんてなるわけないじゃない。あいつのことは大嫌いだけど、あいつはあいつ、あなたはあなたでしょ?」
ディナもまた、自分を“シグルトの弟子・婚約者”としてではなく、“リシェル”個人として見てくれる、数少ない存在なのだと気づいて、リシェルはまた涙が溢れそうになった。
「あいつのことが嫌になったら、いつでもうちにいらっしゃい。何かあったら相談するのよ?」
「うん。ありがとう、ディナ」
リシェルが笑って頷くと、ディナも微笑んでリシェルの頭を優しく幾度か撫でた。姉が妹にするような、親愛に溢れた触れ方に、リシェルはどこかこそばゆいような、温かな気持ちになった。アーシェが彼女と親友であった理由がわかる気がする。
やがてディナは立ち上がると、脇に置いた資料を抱え上げた。
「さて、そろそろ仕事に戻ろうか。会議の時間、おじいちゃん眠りこけて忘れていそうだし、起こしてあげないと」
リシェルも続いて腰を上げ、二人で再び回廊へと戻るべく歩きながら、ディナが思い出したように言った。
「あ、そうそう、今日城に行ったんだけど、馬鹿王子にあってね。あなたに伝言があるわよ」
「クライル王子から?」
「二日後の夜に任務成功の祝いの宴をするから来て欲しい、ですって。パリスも参加するって約束されられたみたいよ。私も行くつもりだし、リシェルも行くわよね?」
「うん、行きたい!」
即答してから、ちらりとシグルトの顔が脳裏をよぎる。シグルトはクライルのこともラティール騎士団のこともあまりよく思っていない。リシェルが行くことを許してくれるだろうか。
あの日――ディナにシグルトとの婚約をやめるよう言われた日、シグルトは少々様子がおかしかった。用事から帰ってきて、リシェルと顔を合わすなり、「……君は面食いなんですか?」などとわけのわからない質問をしてきたかと思えば、突然結婚相手を選ぶ上での助言をし始めた。
いいですか、男は外見より中身が大事なんですよ。特に結婚相手は。きちんとした職について、世間的な信用と経済力があり、経験豊かで、いざという時君を守れる強さがある男を選ぶべきです。私のような。君のように世間知らずでお人好しな子は特に、頼りになる年上の大人の男のほうがいいでしょう。
まるで父親が娘にするかのような話に呆気に取られた。なぜそんなことを言うのだろう。「私もう先生と婚約してますよ」と言うと、シグルトは安堵したように微笑んだ。それから、シグルトは仕事そっちのけで結婚式の準備を進め出した。少々焦りすぎではないかと思うほどだ。
リシェルも連日、式場の下見やら宝飾店やらに連れ回されている。二日後の夜も何か予定が入っていなかっただろうか。
(皆の安否も知りたいし、参加を許してくれるといいんだけど)
「ふふ、エリック様も来るだろうし、思いっきりおしゃれしていかなきゃ」
ディナの口から騎士の名前が出て、リシェルの思考は中断した。
そうだ。クライルが宴に来るなら、護衛である彼もまた、当然来るだろう。
「あの……エリックさん、倒れたみたいだけど大丈夫だった?」
クライルの話では、ディナが彼を看病していたと聞いた。甲斐甲斐しく世話をやくディナと、それを微笑んで見つめるエリックの姿を想像し、胸の奥がどこかざわつくのを無視して、リシェルは尋ねた。
「エリック様が倒れた時は本当にびっくりしたわ。血が止まらなくてね。治癒魔法をかけても全然効かないの!」
リシェルの治癒魔法もエリックには効かなかった。魔法が効かない特殊体質だという彼の話は本当だったらしい。
「あれは焦ったわ。まさかエリック様が破魔の力を持っていただなんて……」
「破魔の力?」
リシェルもパリスの指導の元、それなりに魔道書を読むようになったが、初めて聞く言葉だ。
「魔力を消し去る特殊な力のことよ。その力を持つ“悪魔狩り”って呼ばれる人たちが、昔大陸東方部にはいたらしいけれど、私も実際に会うのはエリック様が初めてよ。破魔の力を持つものは皆黒髪だって言われてるけど、本当だったのね」
「悪魔……狩り?」
不意に――――
リシェルの肌がぞわりと粟立った。
自分でもなぜだかわからない。心の深い底、失った記憶の領域から何かが浮かび上がる。だが、それが意識上にまで上がってくることはなかった。ただ、不安のような、期待のような、その陽陰すら判然としない漠然とした感情だけが湧いてくる。
多分、自分は知っていた。悪魔狩り。その言葉を。その存在を。
「悪魔狩りには一切魔法が効かないのよ。魔道士泣かせの相手よね。それだけじゃない。彼らが敵意とか憎悪とか、負の感情を抱いて触れた相手は、数日に渡って魔力を失うらしいわ。だからアンテスタであの魔物、エリック様が切りつけた後から魔力を使わなくなったのね。直接触れなくても、手に持った武器で斬りつければ魔力を喪失させられるっていうのは文献にも書いてなかったし、知らなかったな。エリック様に協力してもらって破魔の力の研究論文でも書こうかしら?」
ディナは魔道士としての好奇心もあらわに、いくぶん興奮気味に語っていた。
「リシェル? 聞いてる?」
「え? あ、うん。エ、エリックさんってやっぱりすごい人だったんだね」
反応の薄い友人に、ディナが怪訝そうな顔をするのを見て、リシェルははっと我に返り、慌てて応じた。
心の奥底から浮かび上がってきた、説明もできないあいまいな感情が消えていき、気のせいだったのかとも思えた。
「あの美貌からしてもう普通じゃないけど、剣の腕もすごかったし、そんなレアな能力持っているだなんて……もうますます惚れちゃうわね」
今度はディナの言葉に、どきりとする。自分が王都へ帰った後、二人の関係はどう変わったのか。ディナのおかげでエリックが助かったというのなら、二人の距離は相当縮まったはずだ。ディナは積極的だし、エリックの方もディナのことを気に入っているように見えた。もしかしたら――今はもう恋人同士なのかもしれない。
ざわざわと落ち着かない、またも自分では名前がつけれらない感情が湧いてくる。
「あの、あのね、ディナ……ディナってエリックさんのこと――――」
「あら、シグルトの小鳥ちゃんじゃない」
リシェルのおずおずとした問いかけは、しかし突然乱入した声にかき消された。
驚いて足を止め、ディナと同時に振り向いた先――――そこに立っていたのは、微笑みながら立つ、一人の女。
濃紺のローブと、艷やかな赤紫の長髪の対比が色鮮やかだ。その身にまとう妖艶な雰囲気は、夜の気配が強く、明るい真昼の中庭には似つかわしくない異質さで、彼女の存在を際立たせていた。
「ロゼンダ導師……」
お読みいただきありがとうございました!
次話は再来週末に更新出来るように頑張ります。