表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

70/106

70 愚か者の証


 少年はぼんやりと、大きな執務机の上に置かれた花を眺めていた。高級そうな花瓶に溢れんばかりにいけられた、華やかな花は、この部屋の主を連想させる、赤紫色をしている。後ろの窓の外に広がる、爽やかな青空には似合わない、けばけばしい色合いだ。


 その香りもまた、爽やかさとは正反対にある、濃厚で甘く、官能的なものだった。鼻に纏わりついて離れない、この不快な芳香。これが催淫効果のあるものだということは、魔道士なら誰でも知っている。


 さっと音がして、窓のカーテンが突然閉められた。遮光性はさほど無いのか、真っ暗ではないものの、部屋が一気に薄暗くなる。花の色と香りが暗く濃くなり、その毒々しさがさらに増した。


「正直、意外だったわ。本当に来てくれるなんて」


 声に視線を移せば、窓のカーテンを後手に握りながら、この部屋の主が立っていた。今眺めていた花と同じ、赤紫の長い髪を持つその女は嬉しそうに目を細めて微笑んでいる。年の頃は二十代後半の、人目を引く美女だ。


「……ご命令だとおっしゃいましたので」


 少年が平坦な声で答えると、女は彼が座る豪華なビロード張りのソファに、自らも腰を下ろした。少年のすぐ隣、身動ぎすればすぐに触れ合う程の近さに。


「ふふ、素直なのね。ここへ来たことは、オルアン導師には内緒よ? 私、彼には嫌われているから。愛弟子を部屋に呼んだなんて知られたら、彼、怒鳴り込んできそうだもの」


「……かしこまりました」


「いい子ね。従順な子って好きよ」


 女はいたく満足げに笑い、少年の顔に手を伸ばした。赤く塗られた爪先が、少年の白い髪を幾度か梳かし、そのままするりと彼の頬へと滑り下りてくる。


「……ガルディアと同じ、紫の瞳に白い髪、か」


 至近距離で少年の顔を覗き込みながら、女はうっとりしたように呟く。少年は拒否する素振りもなく、無表情にされるがままだ。


「あの魔竜ヴァルセイラを倒した、希代の天才。本当にガルディアの生まれ変わりかもしれないわね」


 薄闇の中、女の赤い唇が、にいっと弧を描く。ばさり、と濃紺のローブが床に落ちた。胸元が大きく開いた、体の線をはっきり浮き上がらせるタイトな黒いロングドレス姿となった女は、少年の頬にかけた手をさらに下へと下ろした。


「さあ、あなたの若くて、強大な魔力は、私をどれだけ美しくしてくれるかしら?」


 女の手が少年の着ている白いローブにかかると、それはいともたやすく彼の肩を滑り落ちていった。赤い爪を持つ、白く細い指が生き物のようにうごめき、器用に少年のシャツのボタンを一番上から外していく。


「ねぇ、あなた、もしかして初めて?」


 手慣れた様子ですべてのボタンを外し終えると、シャツの間から見える若い肌に、踊るように指先を這わせながら、首を傾げ、甘えた声で女は問いかけた。


 ずっと無感情だった少年の顔に、初めて思案するような色が浮かんだ。一拍置いてから、答える。


「……初めて、と言えば初めてですが」


「ふふ、面白い子ね。強がってるのかしら?」


 女は妖艶に笑い、少年の胸板から左肩に向けて手を滑らせると、シャツをずり落とす。そのまま少年に抱きつき、首筋から肩にかけて、愛おしそうに口づけていく。少年の顔には興奮も嫌悪も、その他何の感情もなく、黙って女の行為を受け入れていた。


 夢中で少年の肌を味わっていた女はふと、動きを止めた。


「あら、何? これ?」


 女は少年の左肩下、肩甲骨の上辺りに奇妙なもの見つけて、そっと指でなぞり上げた。

 手の平ほどの大きさの、蜘蛛の巣のように広がる、不気味な黒い紋様。 


「痣? 何かの魔法刻印かしら? 見たことないわね。特に魔力は感じないけれど……」 


「…………別に。ただの――――愚か者の証ですよ」


 少年は投げやりに言って、この部屋に来て、初めて笑った。ひどく自嘲的に、何もかもを諦めきったかのように。








 夕暮れの日が差し込む法院内の廊下を、少年は無表情にぼんやりと歩いていた。彼の白い髪も、まとっている白いローブも、周囲の景色と同じく橙色に染まっている。


「シグルト!」


 突然の大声に、白髪の少年は足を止めた。向こうから、赤髪の浅黒い肌の少年が走り寄ってくる。年の頃は同じだが、彼の方が見上げるほど大柄だ。彼もまた、少年と同じ白いローブをまとっていた。

 赤髪の少年は、目の前まで来ると、怪訝そうな面持ちで問う。


「ここにいたのか、シグルト。オルアン導師がずっと探してたぞ。どこ行ってたんだ?」


「ロゼンダ導師の部屋です。偶然お会いして、今から来るように、と呼ばれまして」


「……!」


 答えを聞いた瞬間、赤髪の少年は大きく顔を引き攣らせた。


「お、おおおお前、い、行ったのか?」


「ええ」


「な、ななななな何、し、してっ……たんだ?」


「……わかってるでしょう? 君だって前に誘われていたじゃないですか」


 美貌の導師に誘惑され、動揺し硬直していた彼を、彼の師匠が呼んでいる、とシグルトが嘘をついて助け出してやったのはついこの間のことだ。

 赤髪の少年の顔が、浅黒い肌にも関わらず、はっきりと分かるほど真っ赤に染まる。


「え? ぐあっ……おあ、えあ?」


「大丈夫ですか? ブラン」


 突然呂律がおかしくなった友人に、シグルトはやや呆れ顔だ。

 赤髪の少年――ブランの方は、一呼吸置いて気を落ち着けると、ぐっと眉を寄せた。


 六導師の紅一点であるロゼンダの悪癖は有名だ。若く、才能ある魔道士を自らの執務室に連れ込んでは、淫らな行為に耽っている。彼女は若い魔道士たちと肌を重ねることで、その魔力と自らの肉体の波長を合わせ、自身の若さを保っているという。見た目は妙齢の美女だが、実際の年齢はガーム導師とさほど変わらないらしい。不老不死の術は存在していないし、そもそも大魔道士ガルディアがその研究すら禁じているから、彼女の術の効果はあくまで“老化を遅らせる”だけで“不老”ではないはずだが、それでもさすがは導師といったところだ。その才能を他のところで発揮してくれればいいのに、とブランは常々思っていた。


 彼女との行為後は、誰もが数日はひどい疲労感と無気力感、魔法の使用がうまくいかなくなるといった症状に見舞われることから、彼女は“男の精気を吸い取る色狂い魔女”などと陰口を叩かれている。だが、導師である彼女の誘いを断れば、法院内での出世に響く可能性もあるため、拒否する者はほとんどいなかった。

 

 嫌々ながらの者もいる一方で、実年齢はともかく見た目は妖艶な美女であるロゼンダの誘いに、自ら喜んで応じる者も少なくない。


「お前、なんで……あの人のこと好きなのか?」


 目の前の友人は、とても後者とは思えなかった。彼と知り合ってかなり経つが、恋愛話はもちろん、年頃の少年らしい猥談にも興味を示さない彼が、ロゼンダの求めに望んで応じたとは思えない。


 案の定、友の答えは予想通りのものだった。


「いえ、別に。むしろ化粧の匂いがきつくて苦手ですね。最初はお断りしたんですが、命令だと言われてしまいましたので」


 ロゼンダは基本的に誘いはしても命令はしない。命令だとして強制すれば、他の導師たちに権力の乱用だとして問題にされる可能性があるからだ。あくまで双方同意の上、という体を取るため、誘うに留めている。だが、己の今後を考えて、導師たる彼女の誘いを断る者はほとんどいないから不都合もない。


 それが今回シグルトには命令だと言って、有無をいわさず強制的に部屋に来させた。よほど彼のことが気に入っていて、逃す気がなかったのだろう。


「オルアン導師に言えばよかっただろ?」


 導師の命令に逆らえるのは同じ導師のみ。シグルトの師であるオルアンは、もともとロゼンダの行いを日頃から苦々しく思っているから、彼女が自分の弟子にちょっかいをかけたと知れば、猛然と抗議し弟子を守ったはずだ。


「子供じゃあるまいし。告げ口したところで余計な揉め事が増えて、師匠の機嫌が悪くなるだけです。黙って従っていれば、ちょっと疲れるだけで済みますから。別に大したことじゃない」


 この会話自体が億劫だと言わんばかりに、面倒くさそうに言う友に、ブランは大きく息を吐き出す。自らの心配がまるで届いていないかのような友の態度に、苛立ちを紛らわすように、自らの頭をがしがしと乱暴に掻いた。


 シグルトはいつもこうだ。自らの身に降りかかる危険も理不尽も、避けようとしない。


 彼の名声を一気に国中に広めた魔竜ヴァルセイラ討伐にしたってそうだ。あれはいかに天才の呼び声が高かったとはいえ、魔術学院を卒業したばかりの、まだ子供だった少年に命じられるような任務ではなかった。彼にその任が与えられたのは、導師同士の対立が原因だ。彼の師匠オルアンと対立していたリトーが、導師会議中に突然シグルトに魔竜討伐を任せようと言い出したのだ。政敵の後継者を死地に追いやるために。当然オルアンは反対した。紛糾した会議の場を収めたのはシグルトだった。自分が討伐に行く、とあっさり言い放ったのだ。


 誰もがシグルトは生きて帰って来ないと思った。ブランもだ。だが、この天才は見事に誰もなし得なかった魔竜討伐を終えて戻ってきた。


 その後もシグルトには次々と無理難題とも思える任務が課せられた。そのすべてを彼は拒否することなく受け、成功させた。


 だが、ブランは知っていた。彼がどんなに危険な任務も命令も拒否しない理由。それが、自らの力への自信でも、法院への忠誠でもないことを。


 彼はただ――――どうでもいいのだ。自分のことが。


「大したことじゃないって……いつもお前はそう言うよな」


 シグルトは応えない。ブランは諦めたように、ため息混じりに問う。


「……体は何ともないのか? ひどいと数日寝込む奴もいるらしいが……魔法は?」


「大丈夫ですよ。身体も普通ですし、魔法もいつも通り使えます」


「ならいいが……」


 ブランはくいっと親指で、背後――自らが来た方向を差した。


「もう終業時間だが、帰る前にちゃんとオルアン様のところへ顔出して来いよ。あの人、あれで結構お前のこと心配してるんだからな?」


「……ええ。わかっています。ですから、このことは師匠には――」


「わかってるよ。お前がオルアン様に心配かけたくないって思ってるのもな。でもな」


 一息おいて、真剣な面持ちで友を見つめる。


「……お前はもっと、自分を大事にしろよ」


「……」


 黙ってしまったシグルトにブランは肩をすくめると、身を翻し、自らが来た道を戻っていく。その背中を見送りながら、シグルトはそっと右手を持ち上げ、自らの左肩を掴んだ。


「……別に、誰にどう扱われようが、もうどうだっていい……」


 呟きとともに、指先が牙のように肩に食い込み、ローブにいくつもの深いしわを作る。


「こんな、呪われた身体……」


 悲しみと後悔と諦めと。十代の少年には似つかわしくない絶望感を漂わせながら、シグルトは肩から力なく手を放し、友の後をゆっくりと追った。



お読みいただきありがとうございます。

今回は話の区切りの関係上ちょっと短くなりました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ