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69 交渉

 空が青い。日差しも柔らかで、実に気持ちのいい天気だ。鳥たちも楽しそうにさずりながら、城の尖塔の周りを飛び回っている。こんな日に部屋にこもっているのは、もったいないかもしれない。


 窓から見える光景は、部屋の主をそんな気持ちにさせる程、穏やかで平和だった。

 

 用事が済んだら、姉を散歩に誘おう。確か、午後は姉も特に予定はないはずだ。


 外を眺め、男はその垂れた目尻をさらに下げながら、椅子の肘にもたれ、上機嫌で鼻歌を歌っていた。


 だが、程なくして窓で四角く区切られた青い空に、突然異変が起こった。


 端の方から、インクが紙に染み込むように、紫色に変わっていく。じわりじわりと空が侵食され、すっかり爽やかな青が消えると、あたりは急にしんと静まり返った。鳥たちのさえずりももう聞こえない。先程とは別空間にいるかのような静けさだ。


「やあ、いらっしゃい」


 男は座ったまま、不吉な紫に覆われてしまった窓から視線を外し、持たれていた椅子の肘から身を起こした。


「お待たせいたしました。殿下」


 ついさっきまで部屋には他に誰もいなかったはずなのに、今は椅子の前に、濃紺地のローブをまとった白髪の男が立っていた。突如現れた男の表情を見て、椅子に座る男――クライルは困り顔でにへらっと笑った。


「あは、もしかしてシグルト、まだ僕に怒ってる? 僕がリシェルちゃんを任務につれて行ったせいで、あの子が危険な目に合ったから」


「さすがは殿下。臣民の気持ちをよく察してくださいますね」


 シグルトは不機嫌さを隠すことなく、皮肉っぽく言った。人目がないせいか、王子に遠慮するつもりはないようだ。

 クライルは子供のように頬を膨らませた。


「もー、だって仕方ないじゃん! ノーグにリシェルちゃんを任務に同行させろって言われちゃったからさ。それ断ったら、僕もうあいつらに仲良くしてもらえなくなっちゃうし!」


「ノーグにそう言われた時点で、私に相談してくださればよかったのですが」


 クライルがシグルトに接触してきたのは、導師会議でリシェルのアンテスタへの任務派遣が決定した後だった。もっと早くに知らせてくれていれば、何かしら手を打ってリシェルを王都から出さずに済んだろうに。シグルトは不満げに王子を見下ろした。


「君とこうして接触するのも簡単じゃないからさぁ。護衛役と称した監視役がいつも張り付いてるし。他の奴はともかく、エリックの監視をかわすの難しいんだよねぇ。あいつ本当に鋭いから。今はまだ療養中でいないから、こうして君と話せているわけだけど」


 言い訳を並べても、眉を寄せたままのシグルトに、クライルは媚びるように甘えた声を出す。


「もちろん僕は君とも仲良くしたいと思ってるからね。だからあいつらがリシェルちゃんをさらおうとしてるってことも教えてあげたしさ。許してよ〜」


「ノーグはなぜリシェルを?」


「んー、あの子を誘拐して君を脅すつもりなのかって聞いたら、確かにそういう使い道もあるって。でも目的は別にあるっぽい。教えてくれなかったけど」


「……そうですか」


 シグルトはそっと目を伏せた。


 ノーグ・ラグニア。八年前に突如出奔しゅっぽんした、ガーム導師の一番弟子だった男。幾度か任務を共にしたこともあるが、相当の実力者だ。法院に残っていれば、導師に次ぐ最も実力ある魔道士の一人だっただろう。彼が法院を去った理由はわからない。だが、法院を飛び出した後は反乱軍に入り、中心的な役割を担っているらしい。六年前、カロンに潜伏しているとされた反乱軍のメンバーの一人が、彼だった。結局カロンで彼を捕らえることはできず、その後、長い間消息が掴めていなかったのだが――


 いつか自分の前に現れるだろうと待っていた、黒髪の少年――エリックの背後に彼がいると知ったときは、さすがに驚いた。


 あのノーグならば十中八九、気づいているだろう。六年前、自分がカロンで、一体何をしたのか。だから、リシェルを攫おうとした。自らの理想の実現のため、利用するために。


 クライルは思案するように黙ってしまったシグルトの顔を、ぐぐっと身を乗り出して下からのぞき込む。


「もう君も知ってるだろうけど、僕を狙った刺客もリシェルちゃんを連れて行こうとしてたよ。いやあ、人気者だね、リシェルちゃんは」


 クライルの顔に普段の気の抜けたものとはまるで違う、冷ややかな笑みが浮かんだ。


「一国の王にまで目をつけられてるなんてさ」


 シグルトは王子と目を合わせた。彼の父たる前国王、そして叔父である現国王と同じ、王家の緑の瞳が探るように見上げてくる。


「叔父上はなんでリシェルちゃんを欲しがったのかな? あの子を人質に君に何かをやらせたいから?」


「さあ、どうでしょう?」


 明らかに答える気のないシグルトに、クライルは苦笑いした。


 かつて、クライルが彼の教え子だった時、授業中に質問をすると、シグルトはわざとはぐらかして、なかなか答えを教えてくれないことが度々あった。あの当時はクライルに自分で考えさせるためだったとわかるが、今は違う。


「君も教えてくれないんだ? 僕信用ないなぁ」


「平気で仲間を裏切れる方ですからね」


「世渡り上手って言ってよね。僕はみんなと仲良くしたいだけだよ。味方は多いほうがいいからさ」


 クライルは身を引くと、椅子の背もたれに寄りかかり、肩をすくめた。


「まあ、いいや。事情はどうあれ、君の大事なリシェルちゃんに手を出そうとした叔父上は、間違いなく君の敵だね。僕と君は共通の敵と戦っている。ということは、僕らは仲間! 仲良くやっていこうよ」


「……」


「あれ、嫌そうな顔」


 応じないシグルトに、クライルはことんと首をかしげた。


「敵の敵が味方だとは限りませんよ」


「そう? でも僕たちって似た者同士だし、仲良くできると思うんだけどな」


「似た者同士、ですか? 私と、殿下が?」


 シグルトが怪訝そうに問うと、クライルはにっこり笑った。


「そう。愛に一途なところとかさ」


 子供のように、褒めてと言わんばかりの、どこか得意げな顔。


「……」


 それは、子供だったクライルが、授業中シグルトの問いに正解した時に見せたものと同じだった。正確には、正解したことを彼の姉に褒められた時と同じ、何の裏もない、無邪気な笑顔。


 ずっと憮然とした表情だったシグルトがふと口元を緩めた。出来の悪い生徒に向ける、呆れと、憐憫れんびんと、わずかな親愛がその顔に浮かぶ。

 

「クライル様、あなたは本当に愚かですね。……何をしても、決して報われはしないのに」


「うん、そうだねぇ。君が羨ましいよ、本当に」


 久しぶりにかつての師から名前で呼ばれた王子は、軽い調子で言って笑う。声と表情と対象的に、その瞳は切なげに揺れていた。だが、それも一瞬で、すぐにいつものにやにやとした軽薄な笑みへと切り替わる。


「君は長年の想いが報われて、毎晩リシェルちゃんとお楽しみなのかなぁ?」


 シグルトはすっと表情を消した。


「ふふ、その様子じゃお預けくらってるみたいだね。真面目なリシェルちゃんのことだから、結婚するまでは駄目ですって?」


「……」


「図星でしょ? せっかく婚約までこぎつけたのに、君も辛いねぇ。同じ屋根の下で暮らしていて、四六時中一緒なのに。いやはやもはや拷問だ」


「……本当に、あなたは品性に欠けますね。もう一度、一から王族としての教育を受け直したほうがよろしいのでは?」


 軽蔑と苛立ちも露わに言うシグルトに、クライルは自信たっぷりに胸を叩いた。


「この王族らしからぬ庶民的な王子様ってとこが、民心を掴む魅力なんじゃないか」


「ただの素でいらっしゃるようにお見受けいたしますが」


 クライルは口を尖らせた。


「も〜、人がせっかく助言してあげようと思ったのに」


「助言?」


「もうさっさと既成事実つくっちゃいなよ。リシェルちゃんが自覚して、逃げられる前にさ」


「リシェルが自覚? なんの話です?」


「あの子、エリックに恋しちゃってるよ」


 クライルが言った瞬間。


 沈黙が訪れた。


 魔法によって外界から遮断された空間では、部屋にいる二人が声も物音も立てなければ、他に何の音もない。まさに真の静寂だった。


 シグルトは無表情で黙っている。微動だにせず、固まっていた。クライルがもしかして時間が止まってしまったのではないかと疑い、戸惑うほどの長い沈黙の後、シグルトはようやく反応した。


「…………は? そんなわけないでしょう?」


 あまりにも荒唐無稽で突飛なことを言われ、理解不能に陥ったかのように、シグルトは珍しくぽかんとした、いささか間の抜けた表情を浮かべていた。


「え? 何? 君まさかリシェルちゃんも自覚がないだけで、本当は自分のことを愛してるんだ~とか思ってたわけ? すごい自信。ちょっと引く。いや、確かに君も結構もてるけどさぁ。それってあくまで地位と名誉込みででしょ? そんなの興味無い純真無垢なリシェルちゃんなら、いつも助けてくれる、無口で陰のある超絶美男子の方に、ころっといっちゃうかも……とか考えなかった?」


「まさか……」


 初めて見る、かつての師の呆然とした姿に、クライルは少し嗜虐しぎゃく的な気持ちになって、嬉々として追い打ちをかける。


「エリックとディナが仲良く話しているの見て、複雑そうな顔しちゃってさ。やきもち焼いて、もやもやしているリシェルちゃんも可愛かったな〜」


「ありえません。彼女は私の求婚を受け入れたんですよ?」


 不意打ちの衝撃からようやく立ち直ってきたのか、シグルトが眉を寄せて反論する。


「それは僕のおかげかもよ? 君が大事に囲い込んでたせいで、恋の一つも出来なかったリシェルちゃんは、自分のエリックへの気持ちが恋だってまるで気づいていない。だから僕が、他に好きな奴がいないなら、大恩人のシグルトと当然結婚すべきでしょ〜って言ったら、素直に君の求婚受ける気になってたし。感謝してよね〜」


「なぜあなたがそんなことを……」


「もちろん、恩師に幸せになってもらいたいからだよ」


「……」


「……というのはもちろん建前。本音は君に恩を売っておきたいから。それに、リシェルちゃんは君の唯一の弱点だ。叔父上やノーグたちに取られたら、君につけいる隙がなくなってしまう。僕的には、リシェルちゃんは君の側にいてくれるのが、一番やりやすいんだよねぇ」


「……正直におっしゃいますね」


 いつも本心をへらへらした笑顔の裏に隠している彼にしては、珍しいことだった。


「僕のことをまったく信用していない君の信頼を得るには、本音をぶちまけた方がいいでしょ? 基本的には僕達は利害が一致しているわけだしさ」


「味方になれとおっしゃいますが……あなたは私に具体的に何を望んでいらっしゃるのです?」


 かつての教え子を見下ろす紫の瞳が、冷たく、鋭く細まった。


「国王陛下の死、ですか?」


「いや、それは僕がやる。僕自身の手で」


 間髪入れずに、クライルは否定した。


「あなたに出来ますか?」


「やるよ、必ず」


 不敵に笑い、真っ直ぐにシグルトを見上げる王子の緑の瞳は、彼が今殺すと宣言した人物によく似た、冷酷さと不屈の意思を宿してぎらついていた。

 

「そりゃあ、まあ、君にやってもらったほうが確実だし、簡単なんだろうけどね。ただあの人が死んだだけじゃあ、僕の目的は果たせないから」


 シグルトは黙って、皆からボンクラと評される王子の話に耳を傾ける。


「必要なのは“王の死”じゃなく、“民心を得た王子の手による暴君の死”だ。それがなきゃ、この国を根本から変えられない。だから、民の人気集めをしたり、ノーグたちと組んだり、わざわざ面倒な手順をふんでるわけ。……この国が変わらなきゃ、ミリィを自由にしてやれないからね」


 先王と共にした食事に、毒を盛られ、一命は取り留めたものの、不自由な身体となった、最愛の姉。彼女の未来は決して明るくはない。王位継承の争いでまたいつ毒を盛られてもおかしくはないし、命が無事だったとしても、いずれ叔父に王位継承権を剥奪はくだつされ、政略結婚の道具にされるだろう。仮に王位を継いだとしても、既に各国に戦争を仕掛け、敵を作りすぎたこの国の舵取りは、優しく、人を疑わない彼女には辛く厳しいものになる。


 先王の長子という立場、そして叔父の存在がある限り、彼女に自由はないのだ。


「……やはりミルレイユ様のため、ですか」


 シグルトの呟きにクライルはただ笑うと、すっと手を持ち上げ、指を二本立てた。


「僕が君に望むのは、二つ。僕の邪魔をしないこと、そして、すべてが終わった後、僕への支持を表明すること。魔道士には、戦争のために魔道士を優遇する叔父上を支持する奴が多いからね。君にはそいつらの抑えになってもらいたい」


「……なるほど。で、私には一体どのような得があるのでしょう?」


「リシェルちゃんを狙う動きがあれば逐一教える。今回みたいにね」


「悪くはありませんが……リシェルを守るためなら、わざわざあなたと組むより、私が自分の手で、元凶である陛下もノーグも消してしまった方が手っ取り早い」


 表情ひとつ変えずに、さらりと出てきた物騒な選択肢に、クライルは両手で口元を抑え、わざとらしく身震いしてみせた。


「こっわ〜。邪魔者は消せばいいって? 今の台詞、リシェルちゃんに聞かせてやりたいよ。君の愛に感動するか、君の本性に恐怖するか、どっちだろうね?」


「……」


「でもさ、君はそれはしないでしょ? ノーグはともかく、国王殺しは。やるならとっくにやってるはずだし。リシェルちゃんを反逆者の妻にはしたくないはずだ」


 いったん間を置いて、様子を伺うが、シグルトは否定も肯定もしない。図星だ、と察してクライルは上機嫌に、自身の判断の根拠をあげていく。


「ばれないように暗殺するにしても、リスクが高い。魔道士の実力差は僕にはよくわからないけど、君は多分、ノーグの言う通り、他の導師たちよりもずっと強いんだろう。だけど、他の導師たちだって無能じゃない。国家最高位の魔道士の威信にかけて、国王殺しの犯人が誰かくらいは突き止めるだろう。なら、他の導師も殺す? ブランも? 殺しに気づいた人間がいれば、片っ端から消す? そこまでいったらもう殺人鬼だね。平穏な暮らしなんて出来ない。いつかはばれる。そうなってもリシェルちゃんは君といてくれるかなぁ? せっかくあの子に善良な、優しい男だと思い込ませてきた今までの努力が水の泡だ」


 シグルトはしばらく黙って、かつての不出来な生徒を見下ろしていたが、やがて疲れたように肩を落とした。


「……まったく、あなたを無能だと信じ切っている国王陛下に、今のあなたをお見せしたいですよ」


「ん? もしかして褒めてくれてる? 先生?」


 クライルはいつものおどけた調子でへらりと笑い、芝居がかった動きで、大きく両手を広げた。


「僕に味方するのが、一番平和的に、楽に、君にとって理想的な未来を築けると思うよ。僕につけば、叔父上に無茶な戦争に駆り出されることも、リシェルちゃんを狙われることもない、思う存分彼女とイチャイチャできる、平和な世界を約束するよ」


「………………いいでしょう。条件を飲んで差し上げます」


 面倒な権力争いになど首を突っ込まず、ずっと中立の立場を貫くつもりだった。それがまさか、この王子に落とされることになるとは。


 本当にこの王子は忌々しい。シグルトは苦笑した。


「やった〜。交渉成立!」


 クライルは子供のように両拳を天に向けて突き上げると、無邪気に喜んでみせた。だがすぐに手を下ろし、困ったように笑いながら首を振る。


「……ってまあ、この話も、リシェルちゃんが君じゃなくエリックを選んだら、前提条件が崩れてご破算なんだけど。頼むからしっかりリシェルちゃんを捕まえておいてよね」


 不愉快な話題に話が戻り、シグルトの眉間に皺がよった。


「……リシェルが、彼を……」


「僕、色恋沙汰に関する勘には自信があるからね。君は否定したいだろうけど、間違いないと思うよ。しかも、エリックの方もリシェルちゃんのことやたら気にかけてるし。両想いだったりして?」


「……」


「どうする? 殺しちゃう? エリックを?」


 にやにやと笑いながら、今日の昼食を何にするかを問うような気軽さで、クライルは部下の命運を問う。明らかに面白がっているその態度に、シグルトの顔に嫌悪感が浮かぶ。


「……そんなことしませんよ」


「いやいや、そんな全身から殺気ダダ漏れで言われても説得力ないんだけど?」


「残念ながら、殺したくても殺せないのでね。……彼だけは」


「え? どういうこと? あ、もしかしてあいつが“悪魔狩り”とかっていう、魔法が効かない特殊体質だから? まさか君でも勝てないってこと?」


 首をかしげるクライルから目を背け、シグルトは力なく視線を落とし、自身の手を見つめた。


「殺すことは簡単ですが……ただ、私が無力だということです。情けないほどにね」


「へ? 君が無力? 冗談でしょ? 言っている意味分かんないだけど。もっとわかりやすく説明してよ!」


 目をぱちくりさせながら喚くクライルには応えず、シグルトはただ自身の拳をぎゅっと、きつく握りしめた。彼が言ったとおり、己の無力さを噛みしめるかのように。

 











 ろうそくの光がゆらりと揺れる。

 光源がランプ一つだけの、薄暗い部屋の中、男はゆっくりと室内に設えられた、天蓋のついた大きな寝台へと近づいていった。


「シグルトが結婚するそうだよ」


 男は寝台の横に立つと、そこに横たわる人物を見下ろし、世間話でもするように、穏やかな声で語りかける。


「ずっと独身を貫いてきた英雄が、ついに選んだ花嫁は、身寄りがなく、彼が引き取って面倒を見てきた弟子。彼が王都を勝手に離れたのも、愛する彼女を守るため。世間では美談として概ね好意的に語られ、祝福されている」


 男は寝台の端にゆっくりと腰掛けた。重みでぎしっと寝台が軋む。そのまま身をよじり、手をついて身を乗り出すと、ランプの光を受けた金色の長い髪が、きらめきながら濃紺のローブの上を滑り落ちた。

 

 男は手を伸ばし、寝台に横たわる人物――先程から目を閉じ微動だにしない、一人の少女の髪を一房、指で掬い上げた。その灰色の髪を指に巻き付け弄びながら、問いかける。

 

「ねぇ、君は今どんな気持ちなんだろう? 幸せ? それとも――」


 男がぱっと指を離すと、灰色の髪はするりと寝台の上へ落ちた。


「彼に裏切られて悲しい?」


 少女からの答えはない。


「いや、君は今、幸せなんだろうね。だって何も知らないのだから。ずっと幸せな夢の中だ」


 男はそれが羨ましいとでも言いたげに、薄く笑った。


「目覚めて、すべてを知ったら、君はどんな顔をするのかな?」


 男の指先が、少女の頬にそっと触れる。


「悲しみ、怒り、憎悪――あらゆる負の感情に取り憑かれ、嘆き、彼を恨むのだろうね。そして、僕のことも」


 嬉々とした声で語りながら、その指先は愛おしげに、優しく少女の顔の輪郭をなぞっていく。指先はやがて、唇へたどりついた。じっとりと舐めるように撫でた後、そっと唇を押し開く。わずかに開いた唇の隙間を、男は目を細めて眺め、それから再び指先を下へと進ませた。顎を下り、首を伝い、鎖骨を通って、黒いローブの上から左肩と左腕をなぞり、そして左手首へとたどり着く。

 

「でも、現実が君にとってどれだけ酷なものであったとしても、君には目覚めてもらわなくては」


 男はそっと少女の左手を持ち上げた。その手の甲を自身の顔に押し当て、頬ずりした後、そっとそこに口づけを落とす。


「僕との約束を果たすために、ね」


 男の唇が押し当てられた場所――少女の左手の甲には、蜘蛛の巣状に広がる、紋様のような黒い痣が刻まれていた。


「君の目覚めのためなら、僕は何でもしよう。ああ、早く絶望する君の顔が見たいよ。アーシェ――」


 薄暗い部屋で、笑みの形に歪んだ、男の紅い瞳が爛々《らんらん》と光る。男はくつくつと喉で暗い笑い声を立てながら、誓いを立てるかのように、再び少女の手に口づけた――



お読みいただきありがとうございます!

隔週で更新できるように頑張りたいと思います。

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