66 弁明
喉が、口内が、渇く。反対に、手にはじっとりと汗をかいていた。
俯いているため、視界に入るのは床に敷かれた赤い絨毯のみ。だが、その絨毯の先――一段高い玉座に座し、こちらを見下ろしているであろうその人の存在感が、リシェルの全身を緊張で締め上げる。
リシェルとシグルトは今、国王ジュリアスとの謁見の間にいた。向かい合う国王と二人の師弟の両脇には、国の高官たちもずらりと居並んでいる。
今は国王の側近の一人が、シグルトが王都を離れた日のことを、長ったらしく詳細に説明している。何時何分王都の結界が突如弱体化――シグルト導師の王都不在を確認――他の導師たちが代わりに結界を補強――今回は事なきを得たが、前代未聞のことであり、王都を危機に陥れる、王家への重大な裏切り行為である――緊張のあまり、内容は完璧には頭に入ってこないが、シグルトが王都を無断で離れたことを強く非難するものであることはわかる。
リシェルは下を向きながら、目の端で隣に立つ濃紺を捉える。足元しか見えないが、シグルトも今は頭を垂れ、静かに側近が報告を終えるのを待っているはずだ。
リシェルは昨晩は緊張でほとんど眠れなかった。一方、師匠は相変わらずで、今朝も寝坊していた。支度中も朝早いことにぶつくさ文句をいい、これから国王に謝罪と弁明をしに行くというのに、本当に一体どれだけ図太い神経をしているのか。あまりの緊張感のなさに、国王の前であくびでもし出したらどうしようかと心配になるほどだった。一応今は殊勝な態度を取っているようだが。
側近が話し終えると、国王がおもむろに口を開いた。
「二人とも、顔をあげよ」
恐る恐る視線を持ち上げれば、玉座に座す軍服姿の壮年の男と目が合う。いつかの謁見の時と変わらぬ、王者たるに相応しい威圧感に足が震える。
「シグルト、事実に相違ないか?」
「はい。間違いございません」
横で師が答えた。
「なぜ無断で王都を離れるような真似をした? そなたの弁明を聞こう」
「はい。ご存知の通り、私の弟子はクライル王子のアンテスタでの任務に同行しておりました。未熟な弟子の初任務ゆえ、私は弟子が皆様にご迷惑をおかけしないよう、監視の意味で自分の使い魔を弟子に付けておりました。その使い魔を通じて、あの日、ラティール騎士団が正体不明の魔物の襲撃を受け、危機に陥っていると知り、駆けつけた次第にございます」
「なぜ余や他の導師に報告しなかった?」
「事態は一刻を争うものでした。陛下のお許しや導師会議の判断を待っていては手遅れになる可能性もございました。私自ら直ちにアンテスタへ向かい、ラティール騎士団とクライル王子にご助力申し上げるのが最良と判断いたしました」
シグルトの返答は淀みない。リシェルは聞きながら感心した。何も考えていないように思えた師だが、きちんと言い訳は考えてきていたらしい。
なるほど。正直に自分の弟子が心配だったから、などとと言えば批判は免れない。ましてその弟子が魔法がろくに使えず、法院内では愛人ではないかと噂されていると知られれば、国王の、そして世間のシグルトへの目は厳しいものになるだろう。だが、王子を救うためのやむを得ない行動だった、とすれば理解は得られやすい。実際、シグルトはアンテスタで現れた魔物を倒している。目的はリシェルを身の安全を確保することだったとしても、結果としてラティール騎士団とクライル王子を守ったのだ。
王家の人間の命と、王家より託された王都守護の責務。
両者を天秤にかけるならば。結界の方は他の導師と共に維持しているため、シグルトがいなくなったからといって完全に消失するわけではない。急を要する王子の救出の方を優先するのは、判断としては理にかなっている。
この理由なら国王も納得してくれるだろう。リシェルは少し気を緩めた。
だが、すぐにシグルトの対応が間違いだったことを知る。
「……なるほど。そなたはクライルに危機が迫っていると知り、余に報告も相談もなく、慌てて助けに行った……ということなのだな?」
明らかに、王のまとう空気が変わった。側近の報告を受けた直後では、特に怒りを感じている風でもなく、シグルトへの質問も実に淡々としたものだった。だが、今は僅かに眉間にしわを寄せ、細められた緑の瞳には、不信と不快感がありありと浮かんでいた。
「シグルト様がクライル王子を……」
「なぜ結界維持の重責を放棄してまで、あの王子を?」
「シグルト様は王子に味方しているということなのか?」
周囲の高官たちの囁き声が静かなざわめきとなって広がり、リシェルは状況を察した。
そうだ。宮廷は今、誰を次の王位継承者にするかで揉めている。
国王は自分の息子に王位を継がせたい。それはつまり、国王にとってクライルは邪魔な存在だということだ。そのクライルに味方する者となれば、即ち国王にとって敵。
シグルトは回答を間違えたのだ。
「そなたは王都を、そして国王である余を外敵より守る結界を維持する責務よりも、王位継承者でもない、ただの一王族の命を優先した。そう申すのだな?」
王の口調に不快さがにじみ、その表情がますます険しくなる。
まずい状況だ。不安にかられてリシェルは隣に立つシグルトを見上げた。師の横顔には、焦りも動揺もなかった。師がこんなにも落ち着いている理由。きっと彼は、本当にどうでもいいのだ。国王の怒りを買い、今の地位を失おうが、罰を受けようが。正直に理由を話せばリシェルまで批判の対象にされかねないから、王子を救うため、などともっともらしい言い訳はしたが、そう言えば国王の怒りを買うこともわかっていたのだろう。
このままでは、きっとシグルトはただでは済まない。
地位を失い、王都を追われ……いや、それ以上に厄介な事態になる可能性だってある。王位継承の争いには、誰にも味方せず、中立の立場を取ってきたシグルトだが、今回のことでクライルに味方していると周囲に思われたら、政治的な争いに巻き込まれ、最悪命を狙われたりするかもしれない。ミレーレでクライルを襲った暗殺者の姿が脳裏を過る。もちろん、シグルトは強いから簡単に殺されたりはしないだろうが、今まで通りの静かな暮らし、というわけにはいかなくなるだろう。
かつて、とても辛い思いをしたのだ。師にはもう、争い事に関わってほしくない。彼が望む通り、これからはただ静かで穏やかな暮らしを送ってほしかった。
だが、どうすればいい?
自分に何ができる?
いつも師に守られているだけの、何の力もない、ただの弟子に。
(ただの、弟子……)
ひらめくものがあった。
弟子では、なかったら?
「どうなのだ? 答えよ!」
王の詰問に、シグルトが口を開きかけた、その瞬間――
「違います!」
自分でも驚く程、大きな声が出た。まさかここで、大人しそうな弟子が口を開くとは誰も思っていなかったのだろう。シグルトは目を見張り、高官たちのざわめきは一気に静まり返った。
国王がこちらを見る。その鋭い眼光に射すくめられながら、リシェルは覚悟を決めた。自身のローブをぎゅっと握りしめ、震える体を抑え込む。もう後には引けない。
「し、失礼いたしました。ですが、どうか発言をお許しください」
「……よかろう」
「恐れながら、陛下。わが師、シグルトがアンテスタに向かったのは、クライル王子が理由ではありません」
「どういうことだ?」
「シグルトは、私を救おうとしたのです」
「そなたのため? 弟子一人のために結界維持の重責を放棄し、王都を離れたと?」
リシェルは、王の目を真っ直ぐに見返した。声が震えそうになるのをこらえ、できる限り平静を装って、答える。
これが、この場を切り抜ける、正解であることを祈りながら。
「はい。私は……彼の婚約者ですので」
すぐ隣で、シグルトが息を呑む気配がする。リシェルは必死に言葉を続けた。
「今回のことは、すべて私の未熟さが原因です。自分の実力もわきまえず、師の反対も押し切って、クライル王子の任務に同行してしまいました。シグルトはただ、婚約者である私を助けようとしたのです。悪いのは私です。陛下、わが師にどうか寛大なご処置を」
「……」
王は表情なく、ただ押し黙って、リシェルを見つめている。白いローブの下を冷や汗が伝った。不正解だっただろうか? 強面ではあるが、ジュリアスは妃を非常に大切にしている愛妻家だと、以前クライルとミルレイユとのお茶会の際に聞いた。情に訴えればあるいは……と思って賭けに出たが、間違いだったろうか。
青ざめていく少女から、王はシグルトへと顔を向けた。
「シグルト、正直に申せ。そなたが王都を離れたのは、この娘を救うためだったのか?」
リシェルはちらりと、横目で隣の師を見やった。紫の瞳もまた、こちらを見ていた。シグルトは無表情なまま、その瞳だけをわずかに細める。リシェルには――師が微笑んだように見えた。
「はい。お恥ずかしながら、左様にございます」
シグルトはリシェルから目線を外すと、王を真正面から見据え、はっきりと認めた。
「ラティール騎士団のため、クライル王子のため、などと申しましたが、私が王都を離れた時、頭にあったのは彼女を救うことだけでした。私は、私情で王家より託された重責を放棄したのです。どのような罰でも受ける所存にございます」
言いながら頭を垂れたシグルトに、リシェルも慌てて習う。ジュリアスはしばし思案するように黙り、審判を待つ二人を交互に眺めていた。
「……なるほど。そうか、恋人か……確かに以前そのように申していたな。愛する婚約者の危機に、さしもの大魔道士も責務を忘れるほど色を失って王都を飛び出していった、というわけか」
王の口元が緩み、笑みを形作る。
「いいだろう。今回の件は特別に不問としよう。実際に何か被害があったわけではないしな」
「陛下、しかし……」
顔を上げ、口を開きかけるシグルトを、王は手で制した。
「結婚の前祝いだとでも思うが良い。我が国の英雄の慶事だからな。祝福すべきであろう。異論のある者はいるか?」
王が居並ぶ高官たちをぐるりと見回す。
「異論などあろうはずがございません」
「年若いお二人の将来を想っての寛大なご判断。感服いたしました」
「さすが陛下。なんと慈悲深い」
高官たちはこぞって王の決定を褒め称える。元より、この場に王に物申す者などいない。そんな恐れ知らず達はとっくの昔に宮廷から消えている。
「決まりだな。皆もう下がってよいぞ」
「寛大なご処置に、深く感謝申し上げます」
シグルトが再び深く頭を下げ、リシェルも胸を撫で下ろした。
「あ、ありがとうございます! 陛下!」
「そなたの花嫁姿はさぞ美しかろうな。シグルトが羨ましいことだ」
微笑みながら、存外に優しげに言うジュリアスに、リシェルの彼への恐怖心が少しだけ和らいだ。非情にも自身の故郷を焼き払えと命じた、リシェルにとっては憎むべき相手ではあるのだが、無慈悲な面だけではないのかもしれない。
高官たちが続々と退室していく中、王は許しを与えた魔道士に声をかけた。
「シグルトよ。そなたは残れ。二人きりで少し話がしたい」
呼びかけに、シグルトは目線で先に行くようリシェルを促した。何の話だろう。気にはなったが、皆の前でお咎めなしと宣言された以上、もうシグルトが責められるようなことはないはずだ。リシェルはおとなしく従い、一礼すると二人を残して部屋を出た。
人々の足音とざわめきは遠のき、広い謁見の間には、王と魔道士の二人だけが残された。
玉座にもたれながら、王はおかしそうに笑う。
「そなたの弟子……大人しい娘かと思ったが、なかなかどうして勇気があるな。余を恐れてがたがた震えているくせに、あの場で余に向かって真っ向から発言するとは」
「ご無礼お許しください」
「よい」
ジュリアスはゆっくりと立ち上がった。玉座の斜め後ろ、ステンドグラスのはめ込まれた大きな窓から差す光が、後光となって王の輪郭を浮かび上がらせる。
「それにしても……女一人のために、結界維持の任を放棄するとは……そなたも変わったな」
「お詫びのしようもございません」
目を伏せるシグルトに、王は段を降り、ゆっくりと歩み寄る。
「責めているのではない。むしろ余は嬉しいのだ。そなたはどこか人の情に薄い人間のように思っていたからな」
王の声音はいつになく、上機嫌で優しげだった。やがて、俯くシグルトの視界――滑らかな赤い絨毯の中に、王の革の長靴が入り込む。頭上から、先程より近く、低い声が降ってきた。
「シグルトよ、あの娘を愛しているか?」
「陛下?」
怪訝な面持ちで顔を上げたシグルトの眼前には、王の真剣さながらに鋭い眼があった。単に今まで色恋沙汰のなかった魔道士をからかって……というわけではないのは明らかだった。
「答えよ」
「……はい。それは、もちろん」
「どれ程に?」
「どれ程、とは……?」
困惑する魔道士を、王はじっと見据えた。僅かな反応も見逃すまいとするような視線がシグルトに絡みつく。
「あの娘のためならば、何でも出来る。そう思える程にか?」
「……陛下、恐れながらお話がみえません。何を仰っしゃりたいのでしょう?」
慇懃に、自身の意図を問われ、王はふと薄く笑みを浮かべた。
「今のそなたならば、余の気持ちをわかってくれるのではないかと思ってな。余にも、何をしてでも守りたいものがあるのだ」
ジュリアスの守りたいもの。それは誰も知らない。誰にも知られてはいけない。だが、何をしても守る。そう誓った。
それを守るためには、目の前の男の力がいる。先日は強行な手段に出て失敗したが、他に泣き落とし、懐柔、脅迫……手段は問うまい。
王は気持ち背を正し、声を張った。
「本題に入ろう。シグルトよ、かつて余がそなたに実行を求め、そなたが拒んだ、例の術。あれを、余のために使ってはくれまいか? 」
話が見えないと言いつつ、何を言われるか予想はついていたのか、シグルトは元々浮かべていた困惑の表情を少しも変えることなく答えた。
「……陛下。以前申し上げました通り、あの術は相手が魔物ならばともかく、とても人間に対して使えるものではありません。どうあっても、何らかの犠牲を出すことになるでしょう」
「構わぬ、何を犠牲にしてもな」
何人の命を犠牲にしても――暗に王がそう言っているように聞こえ、シグルトは僅かに表情を硬くした。
「何より、あの術を人間に使うことは、禁忌に触れます」
「大魔道士ガルディアの定めし禁忌、か」
ジュリアスの声には嘲りの色があった。古くからのしきたり、従うべき定め、合理性のない慣習。それらは彼が最も嫌うものだ。既にこの世にいない先人たちの定めた、長子が王位継承すべしという時代遅れの因習。それによって、ジュリアスは優秀な自分を差し置いて、愚鈍な兄が王になるのを歯噛みして見ているしかなかったから。
「だが、禁忌を定めたガルディアはもういない。大昔に死んだ人間が決めたことを、いつまでも頑なに守る必要があるのか?」
「……」
「今はそなたがこの世で最も力ある魔道士ではないか。法とは力ある者が定め、変えていくものだ」
黙り込む、最強と称えられる魔道士に、ジュリアスは少し苛立ちを覚えた。この男は、何も望まない。絶大な力を持ちながら、自身が王に成り代わろうという欲もなく、ただ淡々と命じた任をこなしてくれる点は都合がよかった。だが、まるで死期を悟った老人のようなその無欲さが、ジュリアスには理解出来ない。
今だってそうだ。大昔の人間が定めた決まりごとなど無視して、王の願いを叶え、対価に金でも地位でも得ればいいというのに。
力があるならば、何でも望めばいい。欲しいものは手に入れ、気に入らないものは消し、変え、自分にとって理想の世界を創り上げればいいのだ。
そう考えるジュリアスにとって、シグルトはまるで理解出来ない人間だった。
だが、初めて彼の中に共感しうる感情を見つけたのだ。
自分と同じ、愛する者への執着。
「仮に……そなたの愛しいあの娘が、目の前で死にかけているとしよう。救う手段はある。それが禁忌に触れるからといって……そなたは諦めるのか? 目の前であの娘が死んでいくのを、黙って見ていると?」
「……」
「そんなことはしないはずだ。現にそなたは、あの娘を救うために、王都を離れてはならぬという決まりを破ったではないか?」
王は秘密を教えるかのように、囁いた。
「人間はなんだってする。愛しい者のためなら、悪魔にだって魂を売るものだ」
「……」
紫の瞳が、揺れた。
それを、男の心の現れと受け取った王は、声にできる限りの真摯さを込めて説得を試みる。
「余は例の術を決して悪用はしないと約束しよう。使うのもただ一度、たった一人にだけだ。禁忌を破れぬというならば、そなた自身に術を行使してくれとはいわぬ。ただ術式を渡してくれればよい。他の魔道士にやらせよう。だから、今一度考えてみてくれ。余に力を貸してくれまいか」
「……陛下、私は」
口を開くシグルトを、ジュリアスは手で制して、相好を崩した。
「なに、返事は今でなくてよい。急ぐわけではないのだ。そなたも考える時間が必要であろうし……しばらくは、あの娘との婚礼の準備もあって忙しかろう。そうだな、婚礼後は王都を離れ、ゆっくり新婚旅行にでも行ってきてはどうだ? もちろん、次は王都を出る正式な手続きを経た上で、な。今は情勢も落ち着いているし、問題なかろう。存分に蜜月を楽しめばよい」
重い空気を変えようとするかのように、王は気安く提案する。
「お心遣い、感謝いたします。陛下」
「……余はそなたとあの娘を祝福したいと思っているのだ。心から、な」
王の穏やかな声と表情にかすかに滲む不穏さから目を背けるように、シグルトは黙って再び頭を下げた。