64 謹慎
シグルトの処罰、三週間の謹慎が決まってからの数日、リシェルはシグルトと共に、家に篭もりきりだった。
すぐに国王に呼び出されるのだと思っていたが、多忙の王にそう簡単に時間など作れるものではないらしく、未だ謁見の日程すら決まっていない。一時王都の結界を弱体化させたとはいえ、大事は起こらなかったため、シグルトの弁明は処理事項としては優先順位が低いのかもしれない。王ならば、他に急を要する案件が山積みしているだろう。
このままうやむやにならないかな……とリシェルが期待してしまうほどに、王からは何の音沙汰もない。
謹慎が始まってから、家の外へは一歩も出ていない。だが、もともと家で過ごすことが好きなシグルトは、家から出られないこともまったく苦ではないらしく、のんびりと読書と昼寝、リシェルとのおしゃべりを楽しんで過ごしていた。
「いやはや、働かなくていいって最高ですね。毎日好きなことをして、君とのんびり過ごして……もう本当に引退してもいいかもしれないな」
愛弟子の入れてくれたお茶をすすり、シグルトは目尻を下げながら言う。ゆったりと居間のソファに身を沈め、悩みなど何一つないかのように、くつろいだ様子だ。
「先生、まだお若いのになんでそんなに覇気がないんですか。お爺さんみたい」
謹慎という名の休暇を心底楽しんでいるらしい師に、リシェルは呆れた。もちろん、師が謹慎処分となったのは自分のためであるし、反省しろなどと言える立場ではない。だが、働き盛りの若い男とは思えない発言に、つい本音が漏れてしまう。
弟子の言葉に、シグルトはにっと口の端を釣り上げる。
「私、実は結構お爺さんなんですよ。魔法で若返ってるんです」
「前違うって言ってたじゃないですか」
「いや、本当はね、ガーム導師より年上なんです。だから、もう隠居していい年なんですよ」
「もう、冗談ばっかり」
リシェルは苦笑する。だが、内心嬉しさもあった。職務にやる気がなく、ふざけたことばかり言う、いつもどおりの師。過去が明らかになった後も、何も変わらない。シグルトの過去を知って、二人の関係は壊れてしまうのだろうかとずっと不安だった。それだけに、こうして以前と変わらず自然に会話できているだけで嬉しい。
おかげで、アンテスタの任務でずっと気を張り詰め、疲れていた心も体も、普段通りの我が家で癒やすことができた。
「本当なんですけどねぇ」
悪戯っぽく微笑む師に、リシェルはゆっくり首を横に振った。
「隠居だなんて……この国にはまだまだ先生のお力が必要だと思います」
「私は別に必要とされたくないけどね。面倒くさい」
「私は羨ましいです。先生にはすごいお力があって、皆に必要とされていて、認められていて……私もそうなりたいです」
今回の任務で、いかに自分の師がこの国にとって、大きな力を持つ存在であるかを思い知った。その力ゆえに、人々は彼に対して尊敬、羨望、畏怖、恐怖、憎悪……様々な思いを持っている。すべてが好意的な感情ではないにしろ、彼が皆に認められ、求められている存在であることは確かだ。王都を少し離れただけで大問題になってしまうのだから。
それがリシェルには羨ましかった。誰かに必要とされるような知識も力もない、おまけに記憶もない、凡人の小娘には。誰かに求められることがあったとしても、リシェル個人ではなく、あくまで‘シグルトの弟子’としてだけ。
お前がいてくれさえすればーー
不意に、例外的なエリックの言葉が蘇る。
彼はなぜあの時、リシェルを連れて行こうとしたのだろう。
自分と彼との間に一体何があるのだろう。
何もわからないが、ただ彼が‘シグルトの弟子’ではなく、リシェル自身を求めてくれていることだけは、なんとなく伝わってきた。
もし、自分が彼の役に立てることがあるなら。事情を話してくれれば、何だって協力するのに。
(エリックさん……あの怪我、大丈夫だったかな……)
「私は……君が皆に必要とされるようになったら、嫌です……」
ぽつりと師からこぼれた呟きに、リシェルの思考はかき消された。声の方を見れば、迷子の子供のような、不安に揺れる紫の瞳がそこにあった。
「皆に……誰かに求められたら、君はそれに応えようとするでしょう。君は優しいから……そして、私を置いて、他の誰かのために、どこかへ行ってしまうかもしれない……」
今、師の脳裏に浮かんでいるのは、かつての弟子ーーアーシェなのだと、リシェルは直感的に察した。
ルゼルに捕らわれた少年を救ったアーシェ。導師に対抗できるだけの力を持っていたからこそ、アーシェは少年を助け、追われる身となり、師と対決することになってしまった。
シグルトは、リシェルがどんなにせがんでも、魔法を教えようとはしなかった。その理由も今ならわかる。彼はリシェルが力を得るのが嫌だったのだ。魔道士になれば、希少なその力を使い、社会に貢献することが求められる。いつまでも師の庇護下にはいられない。シグルトはリシェルが自分の元を離れていくのが怖かったのだろう。その先に、かつての弟子と同じような、残酷な最後が待っているかもしれないから。
「先生……」
リシェルをあらゆる危険から遠ざけようとする。シグルトの自分への過保護さは、アーシェを守れなかったという過去の後悔ゆえなのだ。その後悔が、彼の中に今度こそ弟子を守り抜くという決意を生んでいるのだろう。
だが、それだけではないと主張するように、紫の瞳がほの暗く翳った。
「私はね、自分でも意外だったけれど、結構独占欲が強いみたいでね。君が私以外の人間に関心を向けるのは、正直言って面白くないんです。相手が男なら特にね」
微笑み、冗談ぽく言いながらも、その目の奥に恋慕から来る執着が滲む。リシェルは言葉に詰まった。
「先生、私……」
まだ、シグルトに求婚の返事はしていない。アンテスタから帰ってきたあの日以来、シグルトもその件に触れることはなかった。彼の処遇もはっきりしていないこの状況で、自分からその話題を切り出すのも気が引けて、リシェルからも何も言っていない。
だが、シグルトはずっとリシェルの返事を待っているはずだ。
今、告げるべきだろうか。散々考え、悩み抜いた、その答えを。
だが、いざ言おうとすると、恥ずかしさと緊張で喉が動かない。声が出ない。
「……ところで、さっきからいい匂いがしますね」
固まってしまった弟子をしばらく見つめた後、シグルトが言った。リシェルははっとして時計を見る。
「ちょっと待っててくださいね!」
時間を確認し、慌てて居間を出て台所へと向かう。正直、あの場から離れられて、ほっとしている自分がいた。もしかしたらシグルトはリシェルが返事に困っていると察して、助け舟を出してくれたのかもしれない。また師に甘え、逃げてしまった。
自己嫌悪を感じつつ、オーブンから出したものを二人分切り分け、皿に乗せる。それらを盆に載せて居間まで戻った。
「ああ、また作ってくれたんですね」
弟子が運んできたものを見て、シグルトは嬉しそうに笑った。好意的な反応に、リシェルは安堵する。
「はい。前よりもっとうまく作れたと思います」
言いながら、フォークを添えた皿をシグルトの目の前に置く。皿の上にのっているのは、以前シグルトのために作った、ミーレの実入りのアップルパイだった。
シグルトは早速、フォークで一口取ると、口へ運んだ。その顔がすぐにほころぶ。
「うん、本当だ。前よりもっと美味しくなってますね」
「よかった」
また喜んでもらえて、リシェルもつられて笑みが出た。だが、すぐに声に緊張を孕ませ、続けた。
「あの……先生が以前おっしゃっていた、すごく美味しいアップルパイを作ってくれた人っていうのは……アーシェさんですか?」
最後の方は明らかに声が固くなってしまう。アーシェの名をシグルトの前で出すのは、彼に過去を打ち明けられたあの日以来、初めてだ。その名を師の前で出すのは、まだ勇気が必要だった。また、師に辛い過去を思い出させてしまうのではないか、と。
だが、それでもリシェルはシグルトとアーシェの話がしたかった。それが出来てこそ、自分とシグルトは本当の意味で過去を乗り越えられたと言えるのではないか。だから、アーシェの話をするきっかけのために、またアップルパイを作ったのだ。
それに、理由はもう一つあった。自分をシグルトに託し、命を救ってくれたアーシェ。もうこの世にはいないけれど、彼女のことを思い出したい。そして、思い出したならーーカロンの村で、自分と過ごしたアーシェのことをシグルトに伝えたかった。シグルトも知らない、法院を離れてからの彼女のことを。
それが彼にとって救いになるのかはわからない。だが、シグルトがずっと過去に苦しみ続けることは、アーシェだって望んではいないはずだ。そのために自分に出来ることは何だってしたい。それがリシェルがすべき、命の恩人二人への恩返しだと思った。
「そうですよ」
どんな反応が返ってくるか不安だったが、シグルトは僅かに目を細めただけで、柔らかな笑みを崩さす答えた。
予想が当たって、リシェルは自分用に取り分けた、皿の上のアップルパイを見下ろした。
「私もアーシェさんにアップルパイ、作ってもらったりしたのかな?」
もしかしたら、一緒に作ったこともあったのかもしれない。初めてとは思えないくらい上手にアップルパイを完成させられたのも、既に作った経験があったからではないか。
フォークをパイに入れると、さくりと軽い音がたつ。一口分すくって口に入れると、まだ熱いリンゴが舌の上でとろけた。その甘さに、記憶の奥底からアーシェの優しさが蘇ってくる気がした。
「……そうかもしれませんね。きっとそうだと思います。アーシェはこれが一番の得意料理だと言って、飽きるくらいよく作ってくれましたから」
シグルトもまた、懐かしそうに、愛おしむような眼差しをアップルパイに向けながら、口に運んでいく。リシェルはその様子を見つめながら、ふとミーレの実を買った店の老婆の話を思い出した。
惚れ薬の原料であるミーレの実を、意中の人に食べさせる、恋のおまじない。
アーシェは、そのおまじないを知っていただろうか。アーシェは恋愛小説が好きだったようだし、そういう話は知っていた可能性が高い。
もし知っていて、ミーレの実入りのアップルパイをシグルトによく作っていたのだとしたらーー
途端に胸がざわつく。
(アーシェは、もしかして、先生のことがーー?)
思いついた可能性が、嫌な予感のように不快感を生む。その考えを振り払うように、急いでアップルパイを再度口に運んだ。
考えたくなかった。だって、もしそうだとしたらーーあまりにも残酷すぎるではないか。恋した人と殺し合い、その人に命を奪われるだなんて。
あまりに慌てて食べたせいで、うまく飲み込めず、喉につっかえてしまい、リシェルは咽た。
「リシェル、いくら美味しいからってがっつきすぎですよ」
呆れて笑う師が差し出したカップを受け取り、お茶を動揺と共に喉に流し込む。
落ち着いたところで、居間の廊下側のドアが開き、セイラが顔を出した。
「失礼いたします。ご主人様、王宮から国王の使いの方がいらっしゃいました」
国王の使いーー
無表情なセイラが淡々と告げる言葉が、リシェルには罪人への死の宣告のように聞こえた。
シグルトはリシェルに待っているように言うと、セイラと共に居間の外へ消えた。しばらく玄関の方で話し声がしていたが、シグルトはすぐに戻ってきた。
「先生」
不安げな眼差しで、状況を伺う弟子に、シグルトは肩をすくめ、困ったように眉を下げた。
「陛下からですよ。明日来い、だそうです。それから……君も同席するように、と」
「私も……ですか?」
導師会議では自分は同席を許されなかったし、国王への弁明も、当然シグルトのみが呼ばれるものと思い込んでいた。それだけにリシェルの衝撃は大きかった。あの恐ろしい国王に明日再び会う。足元から血の気が引いていく。
「はあ、まったく面倒ですね。すっぽかして、二人で逃げちゃいましょうか?」
「緊張しすぎて笑えないです……大丈夫でしょうか……?」
「まあ、君は状況を聞くために呼ばれただけで、ちょっと質問されるだけでしょう。怒られるのは私ですから、大丈夫ですよ」
ちょっと質問されるだけ。シグルトは軽い感じでそう言ったが、国王のあの鋭い眼光に睨まれて、返答など出来るだろうか。気の強い方ではないと自覚しているリシェルは、虎に睨まれた小動物のように震えあがる自分を想像した。
対して師の方は、億劫そうにはしているが、不安も緊張もまったく感じていないようだ。明日の謁見は、国王に咎められに行くようなものなのに。こういう図太い面を見ると、リシェルは師のことを大物だなと感心してしまう。実際、大物なのだが。
「先生は陛下に怒られて平気なんですか」
「まさか。あんな怖い人に怒られたら、その場で泣いちゃうかしれませんね。そしたら君が慰めてください」
言葉と裏腹に、その口元には余裕の笑みが浮かんでいる。むしろ、怯える弟子を面白がってさえいるようだ。
王との謁見が終わった後、もし本当にーー絶対ないと思うがーーシグルトが落ち込んでいたとして、果たして自分に師を慰める余裕などあるだろうか。
美味しいアップルパイが収まっているはずの胃が、きりきりと傷んだ。
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