57 命令
「……ねぇ、先生。先生はどうして、魔道士になったんですか?」
目の前に立つ弟子が、不意に尋ねてきた。こちらに背を向け、ただ前だけを見つめる彼女の表情はここからは見えない。
「……」
何と答えるべきか。シグルトが返答を迷っていると、すぐにアーシェは自らの問いを打ち消すように首を振った。
「すみません。愚問でした。先生も私も、これだけ魔力が強かったら、もう魔道士になるしかないですもんね」
その声に、普段の明るさはない。
彼女の黒いローブが、灰色の髪が、血生臭い風に煽られ、靡く。
「だけど……私は、こんなことがしたくて魔道士になったわけじゃない……」
二人の前には悲惨な光景が広がっていた。
赤黒く染まる大地のあちらこちらに折れて散らばる、剣や槍。そして、同様にそこかしこに横たわる、数多の敵兵の死体。
弟子はその惨状から決して目を逸らさず、顔を上げたままだった。
まるで、自分たちの罪を脳裏に焼き付けようとするかのように。
「こんなこと……」
先王ジュイルが何者かに毒殺され、その弟のジュリアスが即位してから、ヴァーリスは他国への侵攻を繰り返すようになった。最初は、国境付近の土地の領有問題で、もともと小競り合いのあった隣国を撃退するという、一応正当性の認められるものだったが、そのうち単なる言いがかりとしか思えぬ理由を付けて、他国を侵略するようになったのだ。
新王は、エテルネル法院との関係を強化し、魔道士の力を戦争に利用することで手に入れた強大な軍事力を背景に、領土拡大を推し進めている。
もともと犯罪者を裁くためにつくられたという設立経緯と、ヴァーリス国内に狂暴な魔物が多かったこともあり、エテルネル法院では攻撃系の魔法がよく発展していた。
ヴァ―リスよりも魔道士の数がはるかに少ない他国の軍など、いくつもの強力な攻撃魔法を有する法院の魔道士たちの敵ではなかった。
それは戦争というより、もはや一方的な殺戮に近い。
自分の力をそんなことに利用される現状に、優しい弟子が傷つかないはずがなかった。
「なんでこんなことに、魔法使っちゃうんでしょうね……もっと楽しいこととか、みんなが助かることにだけ、使えばいいのに……」
沈んだ声で語る弟子の心の内には、きっと母親のことがあるのだろう。
彼女の母は、昨年病で亡くなった。魔法医の治癒魔法もほとんど効果がなかったらしい。
攻撃魔法では他国の追随を許さない法院だったが、病気などの治癒魔法の研究はあまり進んでるとは言えない。
アーシェはそういった、攻撃魔法以外の分野の研究に力を入れるべきだとの要望を導師会議に幾度も出していたが、戦時下にある現状でその主張が受け入れられることはなかった。推奨され、予算が割かれるのは、さらなる強力な攻撃術の開発だけ。
「アーシェ」
師として、何か彼女の気持ちを労わる言葉をかけるべきなのだろう。
だが、シグルトにはただ、名前を呼ぶことしかできなかった。
かつて、彼女が嫌悪する力の使い方を散々してきた自分に、一体何を言う資格があるというのか。
「これじゃあ、私、本当に悪魔だ……」
子供の頃、そう罵られたことを思い出したのか、アーシェの肩が小刻みに震えだす。気丈に前を向いていた顔も今は力なく下を向き、聞こえてくるのは、必死で圧し殺そうとして、それでも漏れる微かな嗚咽。
シグルトはそっと弟子の震える肩に手をおいた。振り返った弟子は、師の胸に頭を押し付けると、堰を切ったよう泣き出す。
彼女が泣くのを見るのは、これが二回目だ。一回目は母親が死んだ時だった。
宥めるように弟子の背を撫でてやりながら、シグルトは自分の無力さを噛み締めていた。
自分にはどうしてやることもできない。
弟子を連れて、この国から逃れることも。
弟子のために、この国を変えてやることも。
いつ終わりが来るとも知れないこの身で、彼女を巻き込んで危険を犯すわけにはいかなかった。
自分に出来るのは、今まで通り、彼女の成長を手助けし、それを見守ることだけだ。
アーシェが導師になる道筋さえつければ、彼女ならきっと自分の力でこの国を変え、望む未来を切り開いていく。
シグルトはそう信じていた。
「……どういうことか、きちんと説明しなさい。アーシェ」
問う声は自分でも意識せずに、低く、鋭いものになっていた。
だが、目の前に立つ弟子は師匠の怒りなど慣れたもので、飄々《ひょうひょう》としていた。
「だから、何度も言ってるじゃないですか。もう魔道士なんてうんざりなんですよ」
シグルトは自身の執務机に腰掛け、前に直立する弟子と向かい合っていた。部屋には二人だけ。ここ数日、終業時刻間近になると繰り返されている光景だ。
魔道士を辞めて、法院を出たい。
数日前、突然アーシェはそんなことを言い出した。
シグルトにとってそれはまさに、寝耳に水だった。理由を問い正せば、ただもう魔道士が嫌になったの一点張り。五年間、将来を期待し熱心に育ててきた弟子を、そんな理由で諦めることなどシグルトにはできなった。
なんとか説得しようとしたが、彼女は聞く耳を持たず、さっさと自分の荷物をまとめ出し、後任者を決めて仕事の引継ぎまで始めてしまった。
勝手に辞めることなど許さない。怒りながらそう告げてから、毎日繰り返される話し合いはずっと平行線のまま。
「君は魔道士が天職だと自分で言っていたじゃないですか。魔法が好きだと」
「そりゃあ、魔法は楽しいですよ。でも、ここにいても結局、自分のやりたい術の研究はさせてもらえないし、戦争には駆り出されるし」
「戦争はもうすぐ終わります。これからは国王も内政に力を入れるでしょうし、そうなれば君が望んでいた通り、人々の暮らしに役立つような術の研究が求められるようになって――」
「あの王様が、この程度の領土拡大で満足するとは思えませんけど」
アーシェは、鼻先で笑った。あの野心家の王に対する、弟子のこの予測はおそらく正しい。あの王ならば今の戦争が終わっても、数年すればまた別の国へ侵攻するだろう。
シグルトは質問を変えた。
「魔道士を辞めて、一体どうするっていうんです?」
このヴァ―リスでは、法院の認定を受け、その所属にならなければ、魔道士を名乗り、魔法を生業とすることが出来ない。ろくに魔道の心得もないような、悪質な魔道士が世の中に蔓延ることを防ぐための措置だが、法院の所属を一度外れてしまえば、どれだけ魔道の才があろうとも、魔法によって報酬を得ることを禁じられてしまうのだ。
法院を出て、若い娘一人、どうやって生きていくというのか。
「うーん、お花屋さんにでもなろうかな?」
将来設計も何もない、とぼけた答えに、シグルトは腹の底から息を吐いた。湧き上がってくる苛立ちを必死に抑え、努めて冷静に説得を試みる。
「……アーシェ、君が国王の他国侵攻に協力している法院の現状に、不満を抱いているのはわかります。ですが、私は君に、いずれオルアン導師の跡をついで欲しい。導師になれば、国政への発言力も影響力も大きくなる。君ならきっとこの国を変えていけるはずです」
「自分が導師になりたくないからって、人に押し付けないでくださいよ」
師の本心などお見通しだ、詭弁を言うなとばかりに、弟子は生意気に笑う。
「君だって、導師を目指していたんじゃないですか?」
「私はただ、導師になって、先生の横に並びたかっただけです」
弟子の言葉に、シグルトは机の上で組んでいた手に、無意識に力を込めた。
やはり、この子は――
「まさか先生が、導師にならずに自分探しの旅に出る~なんて青臭いこと考えてただなんて、全然気づきませんでしたよ」
「……自分探しの、とは言ってませんよ」
「何でもいいですけど、自分も法院を出ようとしてるくせに、弟子は引き留めるって、おかしくないですか?」
痛いところを突かれ、シグルトは一瞬言葉に詰まった。
「……私にも事情があるんでね」
「私にだってあるんです」
「だから、その事情を話しなさいと――」
「じゃあ先生の事情も話してくださいよ」
駄目だ。この弟子を口で言い負かすのは難しい。それにこの件にこれ以上踏み込まれるのはまずい。
シグルトは再び話題を変えることにした。
「……その手、どうしたんですか?」
弟子の左手に目を止めながら問う。その手には、数日前――アーシェが弟子を辞めると言い出した日から、白い包帯がぐるぐると巻かれていた。
「……ちょっと魔道の実験で失敗しちゃっただけです」
アーシェはさっと左手を後ろに隠す。シグルトの追及にもたじろぐことなく応じていた弟子は、初めて動揺らしきものを見せた。
「なんで治さないんですか?」
ただの火傷や切り傷ならば、魔法ですぐに治せるはずだ。だが、この数日間、彼女はずっと包帯をしたまま。
「その……普通の怪我じゃないので、簡単に治らなくて……」
「見せなさい。治してあげます」
「いえ、もうほとんど治りかけで……別に大丈夫ですから」
気まずげに視線を逸らす弟子に、シグルトはもう何度目になるかわからない、深いため息を漏らす。
「……君は、最近隠し事ばかりだな」
自分も他人のことは言えないが――自嘲しながら、意を決して、アーシェの目をじっと見据える。
「……アーシェ。本当の理由を言ってください」
ずっと避けてきた問いを、初めて口に出す。もはや、彼女の本心を知るには避けて通れなかった。
「やはり、私のせいですか? 私が、君の気持ちを――」
「違います」
だが、ようやく絞り出した言葉を、弟子はあっさり遮って否定した。
「確かに先生には、ガラスのように繊細な乙女心を木っ端微塵にされましたけど、それとこれとは関係ありません。先生のせいじゃないんです。だから、気にしないでください」
「なら、どうして……」
アーシェはそこで、シグルトが初めて見る表情を見せた。目を細め、眉を下げ、口角を吊り上げ、泣いているのか、笑っているのか、なんとも判別できない、微妙な表情を。
「……悲劇のヒロインも、悪くないかな、と思いまして」
「は?」
「というわけで、先生、今までお世話になりました」
意味不明な答えと彼女の表情に呆気に取られていると、唐突にアーシェは頭を下げた。そして、話はこれで終わりだとばかりに、すたすたと部屋の扉へ向かって行く。
「待ちなさい!」
椅子から立ち上がり、怒鳴っても、弟子は止まらない。
「仕事の引継ぎなら全部終わってますから、大丈夫ですよ」
「話は終わってない!」
扉の前で、ようやく足を止めた弟子は、ふと思いついたように言った。
「あ、そうだ。私の部屋のローラの小説、全部残しておきますね。先生も読んでみてください。先生はもっと女心を勉強した方がいいです」
「アーシェ!」
「絶対役に立つと思いますよ。いつか――」
ドアノブに手をかけ、アーシェは振り返って言った。
弟子にしてください、と言った時と同じ、にこやかな笑顔で。
「いつか、先生に好きな人が出来たときに」
その瞬間、シグルトはもう、何も言えなくなった。
彼女のドアノブを握る手が、小さく震えているのに気づいてしまったから。
「私、先生の幸せを祈ってますから」
最後の言葉と、彼女の姿が扉の向こうへ消えるのは同時だった。
ぱたんっと、存外に静かに扉が閉まる音と共に、シグルトは支えを失ったように、どさっと椅子に腰を落とした。
自分は今、どうすべきなのだろう。
弟子を追いかけ、力づくで連れ戻すべきなのか。
弟子の将来を思えば、そうすべきなのはわかっている。
だが、自分の元へ戻れば、彼女の心はこれからも傷ついていく。
そして、最後には―――絶望するだろう。
情けない。
かつてはこの絶大な魔力さえあれば、何でも思い通りになると思っていたのに。
自分は結局、たった一人の少女を幸せにしてやることすらできないのだ。
どうすべきなのかも決めかね、迷い、悩み、ただただ、力なくうなだれる。
一体どれだけそうしていただろう。
アーシェが去ってから、さほど時は経っていなかったはずだ。
突然、悪鬼のごとき形相のルゼルが部屋に飛び込んできた。
少年の姿の導師は、鼓膜を切り裂かんばかりの金切り声で叫んだ。
アーシェを殺せ―――と。
「……私はね、今でも後悔してるんです。アーシェが魔道士をやめたい、法院を出たいと言い出した時、すぐに彼女の望む通りにしてやれば、あんなことにはならなかったかもしれない……って。でも、私は何日も彼女を引き留めた。優しい彼女が戦争で利用されることに、どんなに苦しんでいるか、知っていたのに」
リシェルは、シグルトの腕の中で黙って彼の話を聞いていた。アーシェのことを知りたいというリシェルの願いに応えて、師は初めての弟子について静かに教えてくれた。アーシェとの出会い、最高の魔道士にしようと期待し弟子を鍛えた日々、そして、彼女が法院を去った日のこと……アーシェのことを語る彼の口調は、大事な思い出を扱うように真摯なものだった。とても嘘をついているとは思えない。
「先生はアーシェさんのこと、大切に思ってたんですね」
やはりシグルトは、ディナが言うように、弟子を単なる自分の出世の道具と考えるような人間ではなかった。そのことに安堵する。
「……ええ、いつも生意気で勝手な行動ばかりする子でしたが、私にとっては大切な……弟子でした」
シグルトの胸に顔を押し付けているリシェルから、彼の表情は見えないが、その声には初めての弟子に対する深い愛情が滲んでいた。
「なら、どうして……」
手にかけたのか?
口にはできなかったが、それが最も大きな疑問だった。
こんなにも弟子を大切に思っていた師が、一体なぜ彼女の命を奪ったのか。
黙ってルゼルの命令に従っただけとは思えない。
「君と出会った日のことを話さなきゃいけませんね」
シグルトは、リシェルを抱く腕にわずかに力を込めた。まるで、彼女の温もりに縋ろうとするかのように。
「私はね、君と出会ったあの日……アーシェをこの手にかけた、あの日……最初から、死ぬつもりだったんですよ――」
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