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48 女友達

 眠れない。

 リシェルは、窓からの月明かりに照らされた、青白い天井をただ眺めていた。

 昨日、今日といろいろなことがありすぎた。ロビンに襲われたこと、カロンの惨劇、アーシェの事件、シグルトの過去……それらがずっとぐるぐると頭の中を巡る。胸のあたりがずっしりと重い。こんな状態では、いつまで経っても眠気は訪れそうにない。

 何をどうしようという目的があったわけではないが、リシェルは寝台の上で身体を起こした。


「リシェル、眠れないの?」


 すぐ横から声がした。隣の寝台で横になっているディナが、こちらを見ていた。


「あ、はい。ごめんなさい、起こしちゃいましたか?」


 リシェルが謝ると、ディナは枕の上で少し首を振った。


「いいの。それより、今日は私の方こそごめんね」


「なんでディナさんが謝るんですか?」


「……会ったばかりなのに、いきなりシグルトのこと、いろいろ言って……あなたにとっては、あいつは親代わりで、ずっと信じてきたんだものね。……もっと言い方とか、考えるべきだったわ。ごめんなさい」


 その声音は、昼間の確信に満ち溢れた、苛烈なものとは正反対で、自信を失ったかのような、ひどく弱気なものだった。


「私、どうにもあいつのことになると頭に血が上っちゃって……ダメね。魔道士は常に冷静であるべきなのに」


 今度は、リシェルが首を振った。


「いいんです。ディナさんが先生を許せないって思う気持ちは、仕方ないことだと思うから……」


 大切な人の命を奪った人間を憎いと思う気持ち。

 リシェルには想像することしかできないが、それはきっと本人にもどうすることもできないものなのだ。

 戦争だったから、命令だったから、仕方ない。

 そんな理由で納得しろと言われても、憎しみを鎮めることなどできない。


(もし私にちゃんと家族の記憶があって……その家族がカロンで、先生に殺されたんだとしたら……)


 自分はきっと、シグルトを憎んだだろう。

 例え雪山で拾われ、命を救われたとしても、彼を拒んだはずだ。


(エリックさん……)


 黒髪の騎士を思う。彼がシグルトを嫌う……憎むのは、おそらく彼が大事な人を失ったからだ。シグルトの手によって。

 彼の大事な人とは誰だったのだろう。友人か、家族か、恋人か……そのすべてか。

いずれにしても、彼はきっとその人たちのことが好きだったのだ。


「ディナさんはアーシェさんのこと、すごく好きだったんですね」


「そうよ……アーシェは私の一番の親友だった」


 ディナはまるで、リシェルがその親友であるかのように、優しく微笑んだ。


「アーシェさんのこと、教えてくれませんか? どんな人だったのか……」


「どうして? あなたにとっては、シグルトの前の弟子の話なんて聞いても、辛くなるだけじゃない?」


 ディナの言いたいことはわかった。アーシェのことを知れば知っただけ、シグルトが彼女を殺したという事実は、リシェルの中で重さを増す。信じて、慕ってきた人間がしたことの残酷さが、より深く心を傷つける。ディナはそれを案じているのだ。それでも、リシェルはアーシェのことを知りたかった。知らなければならないと思った。


「私、6年前より前の記憶がなくて……でも昔、カロンで私はアーシェさんと一緒にいたらしいんです……だから、アーシェさんのこと、もっと知りたいんです」


「そうだったの……あなた、アーシェと……」


 ディナは少し考えてから、ゆっくりと語り始めた。


「……アーシェはね、本当にすごい子だった。もともと並外れた才能があったけど、努力家で……魔術学院だって、シグルトが持っていた最年少卒業記録を塗り替えて、12歳で首席で卒業したのよ。その後、シグルトに弟子入りして、あいつと一緒に暮らし始めた。難しい術もどんどん習得して、次々に新しい術を編み出して……私もこの子には勝てないなぁって、いつも思ってた。性格は、私と同じで、気の強い子でね。思ったことなんでも言っちゃうから、よく周りともめてたわ。でも、不思議と私とは気があって……二人とも、ローラの恋愛小説が大好きでね。新刊が出る度、二人で本屋さんに買いに行ったものよ。年頃の女の子らしく、夜通し恋の話とかしたなぁ」


 ディナは昔を思い出したのか、くすりと笑った。リシェルは、夢で見た灰色の髪の少女と、目の前のディナが肩を寄せ合って笑い合うのを想像した。なんだかとても、羨ましかった。


「気は強いけど、本当に優しい子だったのよ。魔道士として、戦争で人の命を奪うために魔法を使うことに苦しんでた。敵でも味方でも、少しでも死者を出さないために、殺さず敵を無力化する魔法を作ったりしてね。本当は病気や怪我の治療とか荒れ地の緑化とか、そういう魔法の研究がしたい、もっと人を喜ばせるために魔法を使いたいっていつも言ってた」


 夢の中でアーシェと歩いていた、一面に咲く薄紅色のリシェルの花畑が思い浮かんだ。カロンの気候ではありえないものだ。あれもアーシェの魔法だったのかもしれない。自分を喜ばせるためにアーシェが使った、魔法。


「そんな優しい子だから、ルゼルに捕まっている子供を放っておけなかったんだと思う。導師に逆らうなんて、普通できないわよ。アーシェには、誰が相手でも立ち向かえる、強さがあった。なのに、好きな人には臆病で――」


 そこまで言って、ディナは言葉を止めた。


「ディナさん?」


「……」


 ディナはしばらく黙った後、突然話題を変えた。


「ディナ、でいいわよ。敬語も使わなくていいわ」


「でも……」


「年上だけど、導師の弟子という立場は同じよ。それに、私はあなたと友達になりたいの」


(友達……)


 その響きにどきりとした。誰かに友達になろうと言われたのは、初めてだ。パリスはもう友達と呼んで差し支えないと思うが、彼以外に友達といえる存在は今までいなかった。リシェルも友達が、特に同性の友達が欲しいと思ってはいたが、引っ込み思案な性格と、法院内で嫌われているせいで、友達を得る機会などなかったのだ。


「友達になってくれる?」


「はい!」


 嬉しさに、思わず声が弾んでしまう。


「敬語はいいって。よろしくね。リシェル」


「は……うん。よろしく、ディナ」


 照れながら言うリシェルを、ディナはさらに喜ばせる提案をしてきた。


「明日は午前中は、私たち魔道士は暇だし、二人で少しだけ街を見て歩かない? あのパリスがお目付け役じゃ、今まであんまり外出できなかったでしょ?」


「うん。ミレーレの街では、刺客騒動があったから、結局そんなに見て回れなかったし……」


 友達と街を歩く。そんなこと、今までしたことがない。


「王都の外に出るのが初めてなんだったら、せっかくだしいろいろ見なきゃ。まあ、こ~んな田舎じゃ、大して見るものはないだろうけど」


 彼女らしく最後に毒を吐いてから、少し身じろぎし、目を閉じる。


「じゃあ、そろそろ寝ましょ。明日楽しみね。おやすみ、リシェル」


「おやすみなさい」


 リシェルも言って、再び寝台に横になった。初めて同性の友達が出来た喜びが、少しだけ暗く沈んだ気持ちを軽くしてくれ、まもなく眠りに落ちていった――







 翌朝。


「おい、朝からどこ行くんだよ?」


 領主の館の食堂で朝食を終え、ディナと二人で玄関に向かうリシェルを見とがめて、パリスが声を掛けてきた。


「あ、パリスおはよう。これからディナと街に行ってみようかと……」


「ディナ?」


 リシェルの呼び方に、パリスの眉がぴくりと反応する。


「私たち友達になったのよ。ね、リシェル?」


 ディナがリシェルの肩に両腕を回して抱きつく。それから、ぴしっと人差し指を立て、パリスを睨んだ。


「あ、あなたは今まで通り、私に敬語使いなさいよ。導師の弟子という対等の立場になったとはいえ、私の方が年上で、ずっと先輩なんだから。敬いなさい」


 リシェルに対するのとはまるで違う態度に、パリスもまた、リシェルに対するよりさらに冷たい声と表情で応える。


「もちろんです。僕もあなたと馴れ合う気はありませんから」


 言って今度はリシェルに非難の目を向けてくる。


「それより、街に行くつもりか? 危機感なさすぎだろ。お前、ミレーレでのこともう忘れたのか? 狙われてるんだぞ? それに魔法の特訓しないと……」


「心配ないわよ。私がいるんだから。それに明日はリシェルが魔法使う機会なんてないわよ。私が一瞬で片をつけるから」


 ディナが自信たっぷりに言い放つ。リシェルを挟んで、先輩と後輩、二人の魔道士は睨み合う。リシェルはおずおずと口を開いた。


「あの、少し行って来るだけだから……お昼には戻ってきて、特訓もちゃんとするから、お願い。パリス」


 大きな薄紅色の瞳に懇願され、パリスは薄っすら頬を染めると、ため息をついて、折れた。


「じゃあ、僕も行きます。こいつに何かあったら、シグルト様に申し訳が立たない」


「必要ないわ。私の方があなたよりずっと強いんだから。あなたは王子の護衛でもしてなさい。さ、リシェル。行きましょ」


 パリスの申し出をはねのけると、ディナはリシェルの背を押して、さっさと玄関に向かった。


「あ、ちょっと……!」


 パリスの呼び止める声は、重い扉ががしゃんと閉まる音にかき消された。






 アンテスタの街は、この辺りでは大きな街なのだろうが、ミレーレと比べると規模が小さく、どこか田舎ののどかさが漂っていた。

 この街にも魔道士は何人かいるらしいが、やはり魔道士は珍しい存在なのだろう。通りすがる人々がちらちら見てくるので、リシェルは外套のフードで頭をすっぽり覆っていた。だが、ディナは特に気にしないらしく、赤黄色の髪を(なび)かせて堂々と歩き、周囲の注目を集めていた。

 二人はまず、朝の市場を見てまわった。道の両脇にたくさんの店が軒を並べ、色とりどりの果物や新鮮な野菜が所狭しと置かれている。ディナは林檎を二つ買うと、リシェルにひとつくれた。ディナが林檎を食べながら歩き出したのを見て、リシェルは躊躇(ためら)ったが、遠慮がちに林檎を(かじ)ると、彼女に付いて行った。歩き食べなんて、シグルトが見たらお行儀が悪いと注意してくるだろうな、と思いつつ。

 目的もなく、ぶらぶらと街を見て回る。大きな建物が少なく、丘の上の領主の館が最も目立つ。一通り生活に困らないだけの店は揃っているようだが、品揃えはあまりよくない。


「本当に田舎ねぇ。特にこれといって面白いものもないわね」


 ディナはつまらなそうに言って、それからは周りを見るよりも、リシェルとの会話を楽しむことにしたらしい。ディナは本当におしゃべりだった。次から次へと話題を変え、リシェルにも質問を浴びせてくるので、会話が途切れることがない。おしゃべりが得意ではないリシェルにとって、話題を振ってくれるディナとの会話は楽で、楽しかった。この短時間で、お互いの趣味や特技、好きな色や食べ物や、生い立ちまで知った。

 ディナの父は魔道士で、彼女が幼い頃、魔物討伐で命を落とし、母も程なくして病で亡くなったという。それからはずっと、父方の祖父であるガームに育てられてきたらしい。


「じゃあ、ずっとガーム導師と二人暮らしだったの?」


「まあね。でも意外と賑やかだったのよ。おじいちゃんは結構弟子を取るほうでね。弟子たちがよく家に出入りしてたし、そのうち何人かはうちで一緒に生活してた時期もあったし」


 弟子をどれだけ取るかは、魔道士によって違う。一人も弟子を取らない者もいれば、何人もの弟子を育てる者もいる。だが、後者は少数だ。魔道士には、人の面倒を見るより、己の力をより高めるため、自己研鑽に励みたいという者の方が多いからだ。ガームのような魔道士は珍しい。


「でも、おじいちゃんて、弟子に恵まれなくてねぇ。芽が出なくて、上級魔道士にもなれずに法院を去った弟子も多いわ。シグルトの親――アルフェレス夫妻は禁術に手を出すし、私の前の弟子もすごく優秀だったのに突然失踪するし……清く正しく優秀に育った弟子は私くらいね」


 リシェルもまた、ディナの人柄と話しやすさに気を許し、シグルトに引き取られ弟子になった経緯や、彼に求婚された話までしてしまった。どこかで同性に相談してみたいという思いもあったのかもしれない。

 予想はしていたが、案の定、ディナは不快感を示した。


「月光花の庭で愛の告白ぅ? あいつ、愛と無縁の冷血人間のくせに粋な真似するじゃない……でも、やっぱり卑怯ね」


「卑怯?」


「だってそうでしょ? 自分以外身寄りのない女の子に結婚を迫るなんて……ほぼ強制してるのと一緒よ。断ったら路頭に迷うんだから。あいつがあなたに魔法を教えてこなかったのも、あなたを魔道士として自立させないで、自分に頼るしかないように仕向けるためだったんじゃない?」


 そんな風に考えたことはなかった。確かに、もし求婚を断ったら、それでも弟子として居座り、養ってもらうなど図々しい真似はできないし、自分はあの家を出ることになるだろう。他に行く当てもなく、しばらくは宿暮らしだ。貯金などすぐ底を尽きるだろうし、働かなければならない。だが、初歩の魔法が少し使えるくらいのリシェルでは、魔道士としての職など得られないだろう。かといって、何の技術も知識も持たない、世間知らずの小娘に、他にまともに生活できるだけの仕事がすぐに見つかるとも思えなかった。

 まして、黒髪に薄紅色の瞳という特殊な容姿。

 魔道士としてならば違和感がないが、メイドや給仕などの世間一般の職業ではあまりに目立ちすぎて、雇ってもらえる可能性は低そうだ。ディナの言う通り、きっと路頭に迷う。

 リシェルは自分が情けなくなった。もう成人を迎えたというのに、自分には本当に何もなくて、生きていくことさえシグルト頼みなのだ。そうなるように師が仕向けた、というのはいくらなんでもディナの考えすぎだと思うが。


「王都に戻ったら、そんなのさっさと断って、うちにいらっしゃい。でないと、あいつも今は紳士ぶってるみたいだけど、いつ襲われるかわかんないわよ。一つ屋根の下じゃ、夜這いでも何でもしたい放題じゃない」


 ディナの申し出は、昨日言われた時は驚いたものの、今は有り難かった。

 一度はシグルトの求婚を受けよう、受けるべきだと思った。だが今は……どうすべきなのかわからない。本当にディナの世話になることもあるかもしれない。


「ありがとう。でも、あの、夜這いって何?」


 素直に礼を言いつつ、首を傾げる。クライルに言われ、シグルトに意味を聞いたがはぐらかされてしまった言葉。結局、自分では意味を調べられていない。

 ディナは一瞬目を丸くしたが、すぐに小声でリシェルに耳打ちした。


「だから、それは――」


 聞いた瞬間――リシェルの顔が真っ赤に染まる。


「え? え?」


「……リシェル、若い男と一緒に住んでるのに、あなた無防備すぎるわよ。ちゃんと夜寝る時は部屋の鍵閉めてる? まあ、あいつ相手に鍵なんて意味ないけど」


 リシェルは動揺して、両手で顔を覆った。顔が燃えるように熱い。

 自分はなんてことを師に聞いてしまったのだろう。あの時、彼はなんと答えた?

 時期が来たら、実際にしてみせてあげますよ――君がいいなら今夜にでも――

 思い出したら、首や耳まで熱くなってきた。

 もう恥ずかしすぎて、とてもシグルトと顔を合わせられる気がしない。王都に帰ったら、本当にディナの家に行こうかとさえ思う。


(でも、もし先生と結婚するなら――)


 当然、そういうことも受け入れなければならない。

 シグルトに求婚され、結婚というものについて何も考えなかったわけではない。だが、それは婚礼衣装を着て、結婚式に臨む自分とシグルトの姿を想像する程度のもので、その先のことなど考えていなかった。

 以前、本屋で少し立ち読みしたローラの小説を不意に思い出す。恋人同士である男性教師と女生徒のきわどい場面。口づけ、押し倒し、服を脱がせて……結婚したら、ああいうことをシグルトと――

 そこまで考えて、リシェルは硬直する。それは口づけすらしたことのない、精神的にもまだ幼い少女にとっては、思考の許容範囲を越えていた。

 真っ赤になってうなだれていたかと思えば、今度は青ざめ固まってしまったリシェルを見て、ディナが噴き出した。


「リシェル、あなたって本当に可愛いわね」


 子供によしよしするように、リシェルの黒髪を優しく撫でる。


「……実はまだちょっと疑ってたんだけど、あいつ、あなたには本当に何もしてないみたいね。てっきり噂通り、子供が趣味の変態なんだと思ってたけど」


「先生はそんなんじゃ……」


「まあ、そういう趣味じゃないから、今まで手を出さなかったんだとしても、あなたはもう年頃なんだし、これから先は危ないわね。うん、やっぱりうちに来た方がいいわ」


 ディナが心配するようなことは、今までもなかったし、これからもないと思う。シグルトはリシェルに過去を隠してきた。それでもこの6年間、自分のことを大切にしてきてくれたことは紛れもない事実だ。ふざけることはあっても、リシェルを傷つけるようなことはなかった。一度怒らせてしまい、押し倒しされたことはあったが、それだってリシェルが泣いているのに気づいて、すぐにやめてくれた。その彼が、リシェルが望まない行為を強要するとは思えなかった。ロビンのように――

 自分を襲った男のことを思い出し、リシェルは身を(すく)ませた。ディナを見上げる。彼女が来てくれてよかった。ロビンの事件を言うつもりはなかったが、今のリシェルには、同性の友の存在はとても心強かった。

 二人は、それからも他愛もないおしゃべりを続けながら、通りがかった古書店になんとはなしにふらりと入った。表紙の色あせた書籍が山積みにされており、古書特有のかび臭い匂いが鼻をつく。

 店主も奥に引っ込んでおり、他に客もいない店内で、ディナは突然声を上げた。


「こ、これは……! ローラ・シャルトルの処女作“薔薇と口づけ”の限定版……!」


 興奮しながら、本棚から一冊の本を手に取る。


「この限定版だけ、通常版と装丁と扉絵が違うのよね。今や王都でも入手困難なのに、まさかこんな田舎にあるなんて……!」


 リシェルは、ディナの手にある本を覗き込む。限定版だけだという扉絵には、薔薇に口づける乙女の絵が描かれていた。幻想的で美しい絵だ。


「これ買って行ったら、先生喜ぶかな……」


 ふと思ったことが口から零れる。この本を手に取り、嬉々として扉絵を眺める師の姿を想像して、リシェルは無自覚に微笑んでいた。

 気づけば、ディナが真顔でじっと自分を見つめている。


「……リシェル、あなた、もしかしてあいつのこと好きなの?」


「え!? あの、それは、もちろん……先生は、私の恩人で、育ててくれた人だから、その……」


 急な質問に、先程の会話もあって、リシェルはうろたえる。ディナは手に持っていた本を、バタンっと勢いよく閉じた。


「……好きになっちゃだめよ、あんな奴。絶対に」


 言って、本を棚に戻してしまった。それから、自分より背の低いリシェルを見下ろして、笑う。


「あなたなら、あんな奴じゃなくても、他にもっといい男がいるわよ」


「ディナ?」


「さあ、そろそろ館に戻りましょうか。遅くなるとパリスがまたうるさそうだし」


 なんだか様子が変だったように感じたが、リシェルは何も言わずディナに従って本屋を出た。


「もっといい男いるって言ったけど、法院には全然いないわよね」


 領主の館に向かう道すがら、ディナは先ほどの話の続きなのか、愚痴のように話しだした。


「魔道士の男って、陰湿で根暗な奴ばっかりよね。くだらない足の引っ張り合いをして、他人を蹴落とすことばかり考えてる。違うのはブラン様くらいだわ」


 陰湿で根暗。リシェルはシグルトに対してそういう風に思ったことはなかったが、それを言うとディナに猛反論されそうなので、黙っておいた。


「かといって魔道士じゃない男は、魔道士の女を敬遠するし。私くらい美人でも本当にモテないのよ、魔道士ってだけで」


 ちらりと自分に対する自信を覗かせながら、ため息まじりに嘆く。

 魔道士は誰でもなれるわけではないため、数が少ない。そのため、下級魔道士であっても、その力は重宝され、高給取りだ。男にも負けない力と、収入を持つ女性魔道士は男性から敬遠され、一般的に晩婚の傾向がある。


「出会いもないしねぇ。任務で会うのは凶悪犯と魔物ばっかりだし。このままじゃ年ばっかり取って、ロゼンダみたいになっちゃうわ。あ、でも今回は素敵な出会いがあったけど……って噂をすれば!」


 突然ディナの声が弾み、瞳がきらきらと輝いた。その視線の先を追えば、前方に建つ領主の館――ではなく、門前にいる黒髪の騎士の姿があった。何やら他の騎士たちと話合っている。


「あ~ん、エリック様! 彼、本当に格好いいわよね。リシェルもそう思わない?」


「う、うん。そうだね」


 突如興奮しだしたディナに気圧されつつ、リシェルは頷いた。


「あなたと同じで綺麗な黒髪で、美形で……あんなイケメンなかなかいないわよ。それに彼、すごく剣の腕が立つらしいし……アーデン騎士団で傭兵から騎士に昇格したらしいけど、そんなの滅多にないことよ。ボンクラ王子の代わりに騎士団を取りまとめてるみたいだし……できる男なのね! 格好いい~」


 一体いつの間にエリックに関する情報を仕入れたのか、ディナはうっとり語る。


「しかも彼、今恋人はいないっていうし……これはもう運命の出会いにするしかないわ」


「運命の出会いに……する?」


「リシェル、いい男っていうのはね、いいな~と思ってぼーっと眺めてたら、あっという間に他の女に取られちゃうのよ。だから、これはって思う人がいたら、自分から行かないと!」


 ディナは力説し、にんまり笑う。そして、エリックの元から他の騎士たちが離れ、彼が一人になったのを確認すると、


「エリック様~!」


 お目当ての騎士のもとへと駆け出した。

 そのあまりの早さに、一瞬反応が遅れたリシェルが追いかけようと思った時には、既に彼女はエリックのもとにいた。

 エリックがこちらを見た。目が合う。しかし、彼の目線はすぐに、リシェルから自身に話しかけてくる女魔道士へと移る。

 ディナは笑顔でしきりに何か話している。対するエリックはいつもの、冷たい印象さえ受ける無表情だ。端から見ると、ディナのことを迷惑がっているようにも見えた。しかし、運命の出会いを作ろうと意気込むディナにそんなことは関係ないのか、怯むことなくエリックに話しかけ続けている。エリックも途中何か言葉を返しているようだが、ここからでは何を言っているのか、二人の会話ははっきり聞こえない。

 リシェルは自分もそこに加わる機会を逃して、何となくその場に留まり、そんな二人の様子を見守っていた。

 ふいに――――

 エリックが笑った。


(え?――)


 どくん、とリシェルの心臓が跳ねた。

 それは、今までリシェルが見てきた、うっすらとしたものでも、馬鹿にしたような、皮肉なものでもなく――

 明らかな、穏やかな、微笑み。


「あっれ~、あいつが笑うなんて珍しいな~。というか、初めて見たかも」


 気づけば、クライルが横に立っていた。目を丸くして、部下の方を見ている。

 ディナはエリックの笑顔を見れたことが嬉しかったのだろう。ますます浮かれた様子で喋り続ける。そんな彼女を見つめるエリックは、微笑みこそすぐ消したものの、その表情は心なしか、先程よりも柔らかい。


「な~んか、あの二人いい雰囲気じゃない?」


 クライルが言う。

 リシェルは無意識に、胸の辺りの服をぎゅっと掴んでいた。


(何でだろう、なんか胸が――)


「あ~、そういえば、あいつの初恋の相手、年上の気の強い女って言ってたもんね。ディナってあいつの好みぴったしじゃん! これは恋の予感かな~?」


 クライルはへらへらと可笑しそうに笑った。それから、


「あれれ? リシェルちゃんどうしたの?」


 ずっと黙っているリシェルを不思議そうに覗き込む。


「まさか……ディナに嫉妬してたり?」


 冗談ぽく言いながらも、緑の瞳の奥には探るような色があった。

 だが、すぐにそれを消し、自身の言葉を否定する。


「……ってそんなわけないか~。リシェルちゃんはシグルトと結婚するんだもんね~」


 リシェルは答えなかった。

 クライルの声が聞こえてはいても、返事を返すために頭が働かない。王子を無視するなど無礼だという考えも浮かばなかった。

 胸元の服を掴む手を、ますます強く握り込む。

 苦しい。

 胸が、苦しい。

 息苦しささえ覚える。

 痛いような、圧迫されるような、血がざわめくような――どうしようもない不快感。


(何、これ――?)


 リシェルは、その答えとなる言葉を、クライルが先程発していたことには気づけなかった。

 自身の問いに答えず、ただただ苦しげに一点を見つめるリシェルに、クライルは薄く笑った。


「ありゃりゃ、これは……ねぇ、シグルト、君がいない間に、まずいことになっちゃったよ?」




今年最後の投稿です。

皆さま、よいお年を☆

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