41 刺客
※残酷描写注意
男の手にした短剣が、クライルに襲いかかる。クライルは寸でのところで、仰け反ってそれを避けた。だが、覆面の男は振り下ろした短剣を、間を置かずに今度は振り上げるようにして再び斬つけてくる。クライルは大きく飛び退いてそれもかわしたものの、
「きゃっ」
後ろにいたリシェルにどんっとぶつかり、二人ともその場に倒れた。
慌てて身を起こそうとするクライルに、容赦なく短剣が振り下ろされる。クライルは素早く腰に下げた鞘から剣を引き抜くと、それを受け止めた。だが、態勢が悪いだけに、今にも押し切られ、刃が顔に触れそうになる。
「ぎゃ~! リシェルちゃん助けてっ! 殺される~!」
クライルの情けない声にも、リシェルは地面に尻もちをついたまま、ただ呆然と目の前の二人の攻防を見ていた。初めて目にする、真剣での勝負。命のやり取り。黒服の男から放たれる、禍々しい殺気に肌が粟立つ。
「リシェルちゃんてば~! なんか魔法~!!」
押し合う刃がじりじりとクライルの顔前に迫る。
助けなければ。逃げなければ。そんな思考すら止まってしまった。
……怖い。身体が竦んで動かない。
「……やっぱりリシェルちゃん、魔法はあんま得意じゃないみたいだね」
「!?」
先程までの情けない声とは一転、いたって冷静なクライルの一言に、リシェルははっとした。“やっぱり”ということは、気付かれていたということか。
「わ、私……」
「ん~、とりあえず、おしゃべりする時間はないみたい。君だけ逃げなよ。ついでにエリックたち呼んできてくれると嬉しいな~」
状況は何も変わっていないが、クライルはいつもののんびりした口調になる。
「は、い……」
擦れた声でどうにか返事をすると、震える足でどうにか立ちあがる。今自分にできるのは、エリックたちを呼ぶこと。それしかない。
だが、黒服の男が視線はクライルからはずさずに、牽制するように鋭く声を発した。
「娘、無駄なことはやめて、そのまま大人しくしていろ。命は取らない。王子を殺ったら、お前には一緒に来てもらう」
「あっれ~? 君もこの子狙ってるの? ほんと、どいつもこいつも……リシェルちゃん大人気だね~。シグルトも大変だぁ」
「……王子、お前の軽口もそこまでだ」
男がクライルの剣にかませた短剣にさらに力を押し込んだ。クライルは額に汗を滲ませ歯を食いしばるが、容赦なく迫る刃は彼の前髪に触れ、茶色の髪が数本ひらひらと落ちる。
その時。
「大将っ!」
突然響き渡った声に、男が一瞬気を取られる。その隙を逃さず、クライルは一気に男の短剣を押し返すと、立ち上がりざまに剣を一薙ぎにした。
男は後方に飛び退いてかわしたが、そこへ現れたザックスが斬りかかっていった。男はそれも難なく避けると、彼の背後に回り込み、何事か呟きながら、その背をぽんっと軽く手で押す。
その一瞬、空気がざわめき、リシェルは魔力の発生を感じた。
押されたザックスはたたらを踏みながら、クライルの前まで来ると、突然びくっと身を震わせ、立ち止る。しばし静止した後――――ひどくぎこちない動きで再び剣を構えた。目の前の、クライルに向かって。
「え? ちょっ……ザックス!?」
ザックスはクライルに向けて剣を振り下ろした。クライルが慌てて横に飛び退き、ザックスの剣がその後ろにあった白い墓石に叩きつけられた。
「あっぶな~」
クライルは突然刃を向けてきた部下に怒鳴る。
「ザックス! 何すんのっ!?」
「わ、わかんねぇっ! 身体が勝手に!」
ザックスの顔には困惑の表情が浮かんでいた。話しながらも、再びぎくしゃくとした動きで、剣を無茶苦茶に振り回し始める。クライルはそれを意外に俊敏な動きで避けていく。
「大将! 危ねぇっ!」
「それ僕の台詞だから!」
いささか間の抜けた会話と共に、二人の攻防が続く。
「やめろ! ザックス!」
ダートンとロビンが駆け寄り、暴れるザックスの両腕に縋りつき、押さえ込もうとする。
エリックの方は剣を抜き放って、悠然と腰に手を当て、事の次第を見守っている覆面の男に向かって構えを取った。
「エリックさん! その人、魔道士です!」
リシェルは震える声で叫んだ。間違いない。刺客は魔法が使える。ザックスがおかしくなったのも、何かの魔法を使われたせいだろう。エリックの剣術がいくら超一流といえど、魔道士に対抗するのは無理だ。逃げて――――恐ろしさを殺して、必死で声を絞り出す。
「……わかっている」
だが、リシェルの警告にエリックは動じる様子もなく、刺客と対峙したままだ。
「ほお? 俺が魔道士とわかって向かってくるか。いい度胸だな」
「……お前程度も倒せないようじゃ、あの男には絶対に勝てないからな」
「……何?」
お前程度と馬鹿にされ、刺客の目に鋭さが増した。殺気が膨れ上がる。ゆっくりとエリックに向けて片手を持ち上げようとした、その時。
「のわあっ!?」
ザックスの剣から逃げ回っていたクライルが、墓石の一つに足を取られ、仰向けにひっくり返った。
同時に、ザックスの両腕にしがみつき、なんとか動きを封じようとしていたダートンとロビンが、その暴走を押え切れず、振り離された。自由になったザックスは、倒れたクライルへと大きく剣を振りかぶる。真上にある、自分を狙う剣先に、クライルの緑の目が大きく見開かれた。
「嫌だっ! 大将っ!」
ザックスの悲痛な叫び。その目に涙が浮かぶ。誰よりも守りたい、絶対に守ると誓った存在を、まさかこの手で殺すなんて――――だが、意志とは無関係に、身体は言うことを聞かない。
真っすぐに、剣がクライルへと振り下ろされる。
「大将っ!!」
悲鳴とともに剣先がクライルの目前に迫り――――――止まった。
ザックスは剣を振り下ろした態勢のまま、固まってしまったように動かない。
「はあ……ま、間に合った……」
墓地の入り口に、パリスの姿があった。日ごろ運動などほとんどしない身体を無理やり走らせたせいで、息を切らし、肩は激しく上下していた。その両手はザックスへと向けられている。パリスが手を引くと、それに合わせてザックスの身体がどさり、と横へ倒れ、びくびくと痙攣を始めた。
パリスは倒れたザックスへ駆け寄ると、その額に手を当てる。
「坊ちゃん……」
「今、術を解く。……ったく、この程度の術で操られるのって、精神構造が単純な、思い込みの激しい馬鹿ばっかなんだよな」
エリックに攻撃を開始しようとしていた覆面の男は、現れたパリスを横目で確認すると舌打ちした。
「……あの魔道士は厄介だな」
忌々しげに呟くと、地を蹴った。目の前のエリック――――ではなく、リシェルに向かって。
「え?」
「お前だけでも連れて帰らないとな」
一瞬にして、目の前に迫った男は、リシェルに向かって手を伸ばしてくる。ただもう恐ろしくて、リシェルは声を上げることすらできなかった。
だが、男はリシェルを捕える前に、自分からその場を離れた。
男がいた空間を、銀の光が一閃する。
「……お前の相手は俺だろう」
無視されたことが腹立たしかったのか、不機嫌さも露わに言うと、エリックはリシェルをその背に庇うように立ち、男と再び対峙する。
エリックの大きくて広い背中に刺客の姿が隠され、リシェルは少し落ち着きを取り戻した。それでも縋るものが欲しくて、思わず目の前にあるエリックの服をぎゅっと掴んだ。
エリックはちらりと、一瞬だけそんなリシェルを見やってから、再び刺客へと視線を戻して鋭く問う。
「こいつをどうする気だ?」
「さあな。王子を殺し、その娘を無事に連れ帰ること。命令以上のことは知らん」
「……あんた、刺客としては二流以下だな」
エリックは馬鹿にしたように鼻先で笑った。
「なんだと?」
二度目の侮辱に、男の目がつり上がる。
「ぺらぺらしゃべりすぎなんだよ。こいつを無事に――――ってことは、こいつを巻き込む可能性のある派手な攻撃魔法は使えないってばらしてるようなものだろうが。それでさっきも魔法を使わずに王子を殺そうとしたんだろう?」
「……」
図星だったのか、男は何も答えずに、黙って短剣を構えた。エリックも剣を握る手に力を込める。
相手が魔道士でも、接近戦に持ち込めるのならば――――自分にも十分勝機はある。
「下がってろ」
エリックの有無を言わさぬ声に、リシェルは数歩後ずさりした。
それを待っていたかのように、男がエリックに迫った。エリックがそれを受けて、キイィンと刃のぶつかる澄んだ音が響く。続く攻防で、刺客とエリックの持つ剣が何度も交わり、火花を散らす。
最初は互角に見えたが、すぐに男の方がエリックに押され気味になった。迫りくる刃をひたすら防ぐだけになる。それでもなお、男の目には余裕の色があった。
エリックが一歩大きく踏み込んで、剣を突き出す。男はそれをかろうじて身をよじって避けると、手を伸ばして、エリックの腕に軽く触れた。
空気のざわめき。魔力の発生。
「エリックさん!?」
リシェルは思わず叫んでいた。
「馬鹿め。見てなかったのか。こういう魔法もあるんだよ」
刺客の目が細まった。笑っているのだ。
「王子を殺せ」
すれ違いざまに、エリックの耳元で囁く。
エリックの身体の動きがぴたりと止まり――――
「……効かないな」
振り返ったと同時に薙いだ剣が、刺客の腕を斬り裂いた。鮮血が飛び散る。
「なっ……!?」
覆面の上、男の目が驚愕に大きく見開かれた。瞳が動揺に揺れている。
「どういう魔法があるって?」
「この……!」
エリックの挑発に、男は殺気を漲らせ、片手の掌を騎士に向けた。だが、何も起こらない。
「だから、無駄だと言ってるだろう?」
「……!」
男は目に焦燥に色を浮かべ、腕の傷口を押さえると、目の前のエリック、少し離れたところで見守るリシェル、ザックスにかけられた術を解いているパリスに素早く視線を巡らせ――――踵を返すと全力で墓地を囲む塀まで走り、それを乗り越え姿を消した。
かちゃん、とエリックの剣が鞘に収まる音を合図に、リシェルはその場にへなへなと座り込んだ。危機は去ったが、心臓はまだばくばくと恐怖に激しく脈打っている。
「……大丈夫か? 怪我は?」
「大……丈夫……です……」
どうにか声を出して答え、目の前で立つエリックを見上げた。いつも通りの無表情。先程まで命をかけて剣を交えていたというのに、どうしてこんなにも冷静でいられるのか。他に考えなければならないことが山ほどあるのに、動揺した頭では何も処理できず、そんなことを思った。
「大将っ! すまねぇっ!」
ザックスの泣きそうな声が響いて、エリックとリシェルは振り返る。
パリスによって敵にかけられた術を解かれたザックスは、クライルの前で額を地面に擦りつけていた。
「あ~もういいってば~」
地面に手足を投げ出し、不謹慎にも側にあった墓石に寄り掛かって、顔に浮いた汗を拭うクライルは、面倒くさそうにそんな部下を見やる。
「俺は……俺は、大将を……よりにもよってこの手で殺そうと……」
「だからぁ、それは術で操られてただけでしょ?」
「敵の術にかかったのは、俺の気合いが足りなかったからだ! そうなんだろ? 魔道士の坊ちゃん?」
ザックスは噛みつくように、側でへたり込んで休んでいるパリスに問う。
「いや、まあ、気合いが足りないというか、ああいう相手の行動を操る、精神操作系の術にかかりやすいのは、思い込みの激しい単純な奴が多いってだけで……でもそれも術者に実力があればほとんど関係な――――」
「やっぱり俺が悪いんだ! もう、死んでお詫びするしか!」
パリスの答えを最後まで聞かず、ザックスは喚いた。
「だから、そういうとこなんだけどな……」
パリスが呟く。
「いやあ、僕、君に死んでもらっても何も得しないんだけど?」
「駄目です! それじゃあけじめが……!」
クライルは大きくため息をつくと、ぽんぽんっと部下の肩を叩きながら言った。
「わかった、わかった。じゃあさ、こうしようよ。王都に帰ったら、リシェルちゃんと同じくらい可愛い子を10人探して僕に紹介すること。それがお詫びってことで。その方が僕は嬉しいし」
「大将……」
「まあ、そっちの方が死ぬより難しいかもしれないけどね~?」
クライルはにっと笑う。ザックスの目に涙が滲んだ。ダートンが歩み寄って、嗚咽を漏らして泣きだした友の背を擦ってやる。
リシェルはその光景を見て、ザックスやダートンがクライルをあんなにも慕う理由が、少しわかった気がした。エリックも、心なしか少しだけ表情を柔らかくして彼らを見守っている。
緊迫した空気が穏やかに変わり、動揺も次第に収まっていく中――――ふと、視線を感じた。
号泣するザックスを囲むクライルたちから、少し離れた場所に立つ男。名前は知らないが、顔は何度か目にしたことのある、一般兵の一人。彼がじっとこちらを見つめていた。
だが、リシェルと目が合うと、すぐに目を逸らした。
男は、人気のない薄暗い裏路地へと逃げ込んだ。追手が来ないことを確認し、ほっと一息ついて、壁にもたれかかる。止血のためずっと押さえていた腕の傷から手を離し、傷口を確認する。騎士に切りつけられた傷は深く、おびただしい量の血がそこから溢れてくる。早く治さなければ。
痛みを堪えながら、どうにか意識を集中させ、傷口に手をかざす。手に魔力が集中し、そこから生まれた癒しの光が、見る間に傷口を塞いでいく――――はずだった。
「なぜだ……?」
男は呆然と呟く。かざした手には何の変化も起こらない。いつも息を吐くのと同じくらい容易に生み出せる魔力が、どれだけ集中しても、まったく発生しないのだ。先程、あの騎士に魔法を放とうとした時と同じく。
「……駄目だ。魔法が使えない……」
一体どうしたというのか。つい先刻、騎士に斬りつけられるまでは、何の問題もなく操れていた力が使えない。
考えられる可能性はただ一つ。
「あの男……まさか、“悪魔狩り”……?」
信じられなかった。その存在は歴史上の事実らしいが、まさか自分がこの目にするとは。だが、現にあの騎士には魔法が効かなかった。そして自分は今、魔力を生み出せない状態になっている。
何にしても、非常にまずいことになった。王子襲撃を受けて、ラティール騎士団、そしてこの街の警備隊がすぐに血眼になって自分を探し始めるはずだ。騎士団や警備隊などいつもなら恐れるに足りない。束になってかかってこようと、魔法で一薙ぎにできる。だが、今はその魔法が使えないのだ。体術にも自信があるとはいえ、数で挑まれれば勝ちようはない。
なんとかして仲間と連絡を取らなければ――――男が未だ血が止まらぬ傷口を手で押さえながら、今後の対応を必死で考えていると、不意に横手から人の気配がした。
「誰だっ!?」
路地の奥にわだかまる闇から現れたのは、一人の若い女だった。真っ黒な服を纏い、人形のように整った顔に、何の表情も浮かべず、深い藍色の瞳で自分をじっと見つめてくる。そのどこか浮世離れした雰囲気に一瞬、自分を迎えに来た死神かと思い、心臓が止まりそうになったが、どう見ても普通の人間だ。たまたま通りかかった街の人間だろう。
だが、ほっとしたのも束の間、女の一言に凍りつく。
「……首謀者は誰です?」
追手か――――男は認識すると同時に、傷口から手を離し、腰から短剣を抜き放つ。先手必勝とばかり、間髪入れずに女に切りかかった。
迫り来る男にも、女は瞬きすらせずに、まるで前から歩いてきた人間にただ道を譲るだけかのように、さりげない、優美な動きで刃を避けた。肩口で切り揃えられた髪がさらりと揺れる。次の瞬間、白魚のような手をしならせて男の手首を打ち、短剣を叩き落とす――――直後に、女の黒い靴に包まれたつま先が、男のみぞおちに沈み込んだ。
「ぐはっ!」
衝撃に吹っ飛ばされた男は壁に激突し、そのままその場に倒れ込んだ。男の目の前で、顔が映りそうなほど磨き抜かれた黒い靴が歩いて来て、止まった。
「……首謀者は?」
上から女の声が降ってくる。
「……言うわけないだろう?」
「……」
男の返答に、女は身を屈ませると、片手で男の首を掴んだ。そのまま男の身体を引き起こし、背後の壁に叩きつけるように押さえつける。男は驚愕に目を見開いた。いまだ自分で立ち上がることができない男の全体重を、女は片手一本で支えているのだ。
「……首謀者は?」
女の手がぎりりと男の首を締めた。それでも、男が声を出せるよう、手加減はしているようだった。男は自らの首を締め上げる女の手首を掴むと、爪を立てた。女の白い肌に僅かに血が滲む。多少の痛みはあるはずだが、強がっているのか女は表情を動かさない。男は内心ほくそ笑んだ。自分の爪には、即効性の毒が仕込んである。どんな大男でも、数秒で死に至らしめる程強力な毒。
あと少しで、この女は死ぬ。
「……言えない」
「……首謀者は?」
「わかるだろ? 言ったら俺が殺される」
「……首謀者は?」
「だから、言えないって……」
「……首謀者は?」
女はまるでその言葉しか言えない機械人形のように、ひたすら同じ問いを繰り返す。その回数が増える度に、男の首を締め上げる力が徐々に強くなっていく。
……おかしい。とっくに毒が回っているはずなのに。
女は表情どころか、顔色一つ変えない。
「……首謀者は?」
この女は一体何者なのだろう。明らかに毒が効いていない。
目の前にある女の端正な顔立ち、そしてその何の感情も宿さぬ藍色の瞳を、男は湧き上がってくる恐怖と共に見つめた。
美しい女だ。だが、たとえこの女が全裸で目の前に立っていようと、自分は触れることはおろか、近づくこともしないだろう。どこか人間離れした不気味さがこの女にはある。それに男は恐怖した。
「……」
「……」
眼前の藍色の瞳に、不安げな自らの顔が映る。
女の白い手が、男の右腕の傷口に伸びた。女の爪が鋭く伸びたように見えたのは見間違いか。
だが――――――
「ぎゃああああああ!」
かつて味わったことのない激痛に男は絶叫した。女の白く細い指先が、傷口にめり込んでいた。まるで愛猫を撫でるかのような手付きで、傷を抉っていく。無理やり広げられた傷口から血が溢れ、腕を伝ってぼたぼたと零れ落ちた。手が赤く汚れても、男にどれだけの苦痛を与えても、やはり女の顔に表情はない。
「……首謀者は?」
ほんの一瞬――――女の目、その藍色の瞳孔が、爬虫類のそれのように細くなった。
今わかった。この女は人間ではない――――――
さらなる恐怖が突き上げてくる。小動物が捕食者と相対した時と同じ、本能的で絶望的な恐怖。
「わかった! 言う! 言うから!! 首謀者は――――」
びくん、と男の身体が大きく震えた。続いてびくん、びくんと二度続く。
「がはぁっ!?」
直後に男は白眼を剥き、口からごぼりと血の塊を吐き出すと――――絶命した。
女は男の首から手を離す。支えを失い、力なく男の身体がその場に崩れ落ちた。
「……申し訳ございません。ご主人様。聞き出せませんでした」
女は男の死体を見下ろしながら、独り呟く。
「……承知いたしました」
しばらく間を置いてから再び呟くと、路地の奥へと歩き出した。もう興味はないのか、男の死体を振り返ることもしない。カツカツと静かな足音を響かせて歩きながら、女は男の血に濡れた指先を口元まで運ぶと、ぺろりと舐め上げる。僅かに開いた口から、牙のように鋭い八重歯が覗いた――――――
またか――――案内役の兵は、またもや突然に立ち止ってしまった、この国で最も高名なる魔道士に、内心うんざりした。
「あの、シグルト様?」
今度は呼びかけても、答えはない。微動だにせず、何もない虚空の一点を見つめている。
どれだけ偉大な魔道士か知らないが、いい加減にして欲しい。これでもこっちも結構忙しい身なのだ。さっさと見送りを済ませて、仕事に戻りたいのに。
兵の思いを他所に、しばらくしてようやく口を開く。
「……そうですか。別に構いませんよ。誰が命じたかなんて、予想はつきますから。あの子が無事ならそれでいい。引き続き、頼みましたよ」
なにやら一人でぶつぶつ言っている。
……正直、気味が悪い。
田舎から王都へ出てきて、もう魔道士という存在も大分見慣れたものとなったが、それでもやはり、彼らに対する悪印象は拭えなかった。得体の知れない力。普通の人間ではありえない髪や瞳の色をした、薄気味の悪い容姿。加えて自分の知る限り、魔道士というのはみんな、陰湿で根暗な連中ばかりだ。できればあまり関わりたくない。
しかし、兵の長年の魔道士に対する考えは次の瞬間、あっさり覆された。
「あら、シグルトじゃない?」
前方から歩いてきた女に、兵の目は釘付けになった。濃紺のローブを纏っているところを見ると、彼女も魔道士、それも導師の一人なのだろうが、見たことがない程の、飛びっきりの美女だ。年の頃なら20代半ばから後半だろうか。白磁の肌に艶やかな赤い唇と、赤紫の長い髪がよく映える。やや切れ長の、髪と同じ赤紫の瞳で見つめられれば、その色気に息することも忘れてしまう。
ただただ彼女に見とれる兵に対し、シグルトは微かに眉を寄せた。
「ロゼンダ導師」
また面倒なのが来ましたね――――ぼそっと呟かれた言葉も、現れた魔道士の美貌に酔う兵の耳には届かない。
「貴方、もう行っていいわ」
ロゼンダに微笑まれ、限界まで鼻の下を伸ばした兵は、それでもどうにか敬礼だけは忘れずに取ると、夢見心地でその場を後にした。
「今日はどうされたんです?」
「仕事よ。それより貴方さっき、嫌そうな顔しなかった?」
「いえ、別に」
素っ気ない返事に、ロゼンダは微笑みながらゆっくりと近づいて来る。
「そう? もしかしてお弟子さんの派遣の件で、ルゼルに賛成したこと、怒ってるのかしら?」
「あれは会議です。ご自分の意見を仰るのは当然でしょう」
「なんだか貴方、苛々してるみたい。……欲求不満かしら?」
ロゼンダはシグルトのすぐ横まで来ると、その腕に自身の腕を絡ませた。寄りそうように身体を密着させる。ロゼンダのローブの上からでもわかる豊かな胸が腕に当たり、シグルトは眉をひそめた。
「ねえ、淋しい?」
「は?」
「可愛いお弟子さんがいなくて、夜、独りで淋しいんじゃなくて?」
ロゼンダの白い手がシグルトの顔に伸び、長い指がその頬をそっと撫でる。
「……ねぇ、久しぶりに私の部屋にいらっしゃいよ? あなた、導師になってからすっかりつれないけど、子供相手じゃどうせ満足しきれてないんでしょう?」
蕩けるような艶然とした笑みと、甘く官能を刺激するような囁き。男にどう映り、どう聞こえるか、知り尽くした上でなされるその誘いに、シグルトはただ無表情で応じた。
「何でもしてあげる。ね?」
思い通りの反応を見せないシグルトに、幾分焦れたようにロゼンダがさらに誘いを掛ける。
「――――――あいにくですが」
シグルトは口の端を皮肉っぽく吊り上げた。相手にとって最も侮辱となる言葉を選んで、返事にする。
「私も年を取ったんですかね。最近は厚化粧の必要のない、若い子以外にはどうにも興味が湧かなくて」
ロゼンダの赤紫の瞳が大きく見開かれた。次の瞬間、眦が吊り上がり、唇が醜く歪み、肌にいくつもの深いしわが刻まれる。美しさが剥がれ落ち、現れた顔は一瞬だけ、老婆のように年老いて見えた。シグルトの頬に添えられた手が震え、赤く塗られた長い爪先を立てる。どんっとシグルトを突き飛ばすようにして、彼から離れた。
シグルトの頬に、一筋の赤い線が走り、そこからじわりと朱が滲む。
「……ロゼンダ導師。いまだに若い魔道士の男をとっかえひっかえ法院の執務室に連れ込んでいらっしゃるようですが……そろそろご自分のお年相応の振る舞いをされてはいかがでしょう? 孫ほども年の違う男にばかり手を出されるというのは感心できませんね。……まあ、私が言えた立場ではありませんが」
シグルトは片手の親指で頬に付けられた傷を拭った。触れた先から、傷跡が綺麗に消えていく。
「では、失礼しますよ」
淡々と言うだけ言って、シグルトはさっさとその場を後にした。
濃紺のローブを翻し、去って行くその後ろ姿を、ロゼンダは憎悪を込めて睨みつけ、悔しげにぎりりと歯がみした。
と、突然豪快な笑い声が響いた。
「……陛下」
ロゼンダが振り返った先、廊下の角から姿を現したのはジュリアスだった。
「お前の色気もまったく通用せんとは。あれを靡かせるのは苦労しそうだな。到底素直に例の術を渡すとは思えん。地位も富も、あの男は何も欲しがらんからな。さて、どうしたものか」
「欲しいものがなくとも、失いたくないものならばございましょう」
ジュリアスの後ろから続いて現れたのは、柔らかな微笑を湛え、濃紺のローブをまとった金髪の美青年。
「陛下。先程残念なお知らせが。今回も失敗したようです」
「あれの運のよさにはつくづく感心するな。娘の方は?」
「そちらもしくじったようです」
「後継者問題も片がつかない。例の術も手に入らない。国王となった今も、思い通りにならぬことのなんと多いことか」
ジュリアスは大きくため息をついた。嘆く王に向かって、ヴァイスは恭しく頭を下げる。
「我々が必ずや陛下のご心労を取り除き、お望みを叶えてみせましょう」
「うむ、期待しておるぞ、ヴァイス、ロゼンダ」
満足げに頷き返す王に、ヴァイスはにっこりと微笑み返した。細められた目の奥で、緋色の瞳が妖しく揺らめいていた。