36 価値
「あ~あ、僕の初任務が、こんなしょぼい騎士団と一緒の、くだらない盗賊退治になるなんて……」
すぐ背後からの恨みがましい声に、リシェルは身を縮めた。
リシェルは今、パリスと共に馬上にいた。手綱を握るパリスの前に座っている。
城門を出発したラティール騎士団は、既に王都を出て、アンテスタ地方へと向かっている途中だ。王都からアンテスタまでは八日はかかる。王都の市街地を囲む外壁を抜けた先には、数十頭の馬が用意されており、一般兵より階級が上の人間――――騎士とリシェルたち魔道士は馬に乗って移動することになった。
だが、乗馬などしたことのないリシェルは一人で馬に乗れない。そこでパリスと一緒に乗せてもらうことになったのだ。クライルは自分が乗せるとしつこく言い張ったが、リシェルは丁重に断った。ただでさえ、紅一点で目立っているというのに、先程のシグルトの行動のせいで、ますます注目を浴びてしまったのだ。この上、王子と同じ馬で移動などして目立ちたくない。
クライルは不満げだったが、結局引き下がり、今はリシェルたちの斜め右を、エリックを始め、側近の騎士たちに囲まれて進んでいる。退屈しているのか、終始眠そうにあくびを繰り返し、なんとも気の抜けた様子だ。その横で、馬に揺られながらも凛とした姿勢を保ち続け、主に付き従う、黒髪の騎士の方がよほどに気品があった。何も知らない人間が見たら、彼の方を王子だと思うだろう。
リシェルは初めて見る王都の外の景色や、共に進む騎士や兵たちの様子をきょろきょろと好奇心を持って観察していたが、パリスの方は最初からそんなものには興味はないらしく、ただひたすら黙々と進むことに早くもうんざりし始めたのか、リシェルの後ろでぶつぶつと不満を漏らし始めた。
「はぁ~、僕もシグルト様みたいに、初任務で魔竜退治とかして、華々しく名を上げたかったのに……」
「魔竜退治? 先生が?」
思わず振り返ると、鼻先が触れる程、すぐ近くにあるパリスの頬にぱっと朱が差した。
「ば、馬鹿っ! こっち向くな! 顔が近い!」
「あ、ご、ごめん」
怒鳴られて、慌てて前を向く。なぜ怒られたのかよくわからなかったが、馬上ではあまり動いてはいけないのかもしれない。
こほん、と背後で咳払いがした。
「お前、まさか知らないのか? シグルト様のあの伝説的偉業を?」
パリスは呆れているようだった。
「うん。先生ってあんまり昔の話、しないから……」
長い間一緒に暮らしているが、シグルトはリシェルと出会う以前の話を、自分からはほとんどしない。尋ねても、あまり話したくない様子なので、詳しくは聞きづらかった。人から伝え聞く話では、数々の武勇伝と輝かしい功績に彩られた、華々しい過去であるはずなのだが。
「知らないなら教えてやる。シグルト様はな、魔術学院を卒業された後、オルアン導師に弟子入りされたんだ。その弟子入り後、初めて与えられた任務が当時、ラメキア渓谷で人々を脅かしていた魔竜討伐さ」
パリスの口調はまるで自分のことのように自慢げだった。
「この魔竜っていうのがとんでもない強さでさ、剣も弓矢も、魔法をもはじき返し、鋭い爪と牙で敵を斬り裂き、口から炎の吐息を吐くんだ。それまで何人もの腕に覚えのある戦士や魔道士たちが魔竜に挑んだが、誰一人帰ってはこなかった。法院も上級魔道士ばかりで編成された討伐隊を派遣したが、結果は同じ。もう、それこそ大魔道士ガルディア様くらいしか勝てる奴いないんじゃないかって言われたくらい強かったんだ」
声が次第に興奮を帯びる。
「法院もついには導師を派遣することまで考えたらしい。でも、その最後の手段に出る前に、この任に大抜擢されたのが、当時若干13歳のシグルト様だった。シグルト様はその若さで、たったお一人で魔竜に挑まれ、そして見事、それまで誰も敵わなかった魔竜を討ち取ったんだ!」
恐ろしい魔竜を倒した、少年時代のシグルト。
魔竜を倒すという行為も、それを成した少年の頃のシグルトも、リシェルにはうまく想像できなかった。出会った時にはシグルトは既にずっと年上の大人で、そして導師、魔道士としての仕事に全く情熱を持っていなかった。本当に同じ人間の話なのかと疑いたくなってしまう。
だが、こうしてパリスのように心酔する者が現れるくらい、シグルトが素晴らしい活躍してきたのは事実なのだ。
「先生って……やっぱりすごいんだ……」
「馬鹿。わかってないのはお前くらいだよ」
リシェルの呟きに、パリスは呆れかえる。
「そんな話なら、シグルト様には他にもいくらでもあるぞ。僕は子供の頃からずっとシグルト様に憧れて、いつかあんなすごい魔道士になりたいって思ってた。弟子にはしていただけなかったけど、今でもいつか、シグルト様に認めてもらえるようになりたいって思ってる」
語る声には真摯さがあった。現在の師、ブランにも今はきちんと尊敬の念を持って師事しているようだが、それでもやはり、幼い頃からのシグルトへの憧れは消えないのだろう。
「そういえば、先生が言ってた。パリス君がいれば、任務は成功するだろうって……先生も、パリスのこと、ちゃんと認めてるんだと思う」
「シ、シグルト様がそう仰ったのか……?」
パリスの声が震えた。怒られないよう、ちらりと眼だけで振り返って見れば、感極まった表情がそこにあった。よほど嬉しかったのだろう。
「可愛いお嬢さん方、何を話してるのかな~?」
突然の聞き覚えのある声に視線をやれば、兵士2人が歩み寄ってくる。
「ザックスさん! ダートンさん!」
「お、嬉しいな~。リシェルちゃん、名前覚えててくれたんだ?」
目つきの悪い男――ザックスは、リシェルに名を呼ばれ、破顔した。
「俺たち、リシェルちゃんたちの補佐を命じられたんだ。何か困ったことがあったら何でも言ってよ」
ダートンがふくよかな顔によく似合う、にこにことした人のよさそうな笑顔で説明する。
「そうなんですか。宜しくお願いします」
知らない人間ばかりの中、多少なりとも面識のある人間に親切な言葉を掛けられ、リシェルも少し緊張を解いて笑った。
リシェルの笑顔に、ザックスもにやけながら頷く。
「いやいや、こちらこそだよ。今回もむさ苦しい男ばっかの長旅かとうんざりしてたけど、こんな可愛いお嬢さん方とご一緒できるなんて思ってもみなかったなぁ」
「僕はお嬢さんじゃないぞ」
パリスがむっとして言うと、ザックスはその少女のような美貌から発せられた、存外に低めの声に仰け反った。
「あ、あれ? 男? てっきり女の子かと思ってた」
「失敬な! 僕はユーメント公爵家のれっきとした嫡男だ!」
パリスが憮然として言い放つ。不意にザックスの目つきが鋭くなった。
「へえ、それはそれは……貴族のお坊ちゃんか」
親しげだった口調が挑戦的なものへと変わる。ダートンが不安げに相方を見た。
「しかもユーメントっていやあ、王家と縁戚筋の大貴族様だ。そのお坊ちゃんがなんだってこんな、田舎の盗賊退治なんて任務にご同行下さったんで?」
「僕は法院の魔道士だ。導師会議の決定に従ったまでだ」
「どうだか」
「何?」
ザックスの顔に、薄く笑みが浮かんだ。
「ユーメント公爵といえば、国王派だ……お父様に王子の命を取るようにとでも言われたんじゃないですかい?」
「何だとっ!? 僕を愚弄する気か?」
パリスが怒鳴る。突然の険悪な雰囲気に、リシェルはおろおろするばかりだ。非は明らかにザックスにあるが、気さくな彼が、なぜ急にこんな敵意むき出しの態度を取り始めたのかがわからない。
「……おい、お前ら、何を騒いでる? うるさいぞ」
静かだが、思わず耳を傾けてしまいたくなる、低い美声が響く。騒ぎを聞きつけたのか、エリックがこちらへやって来た。
秀麗な顔に不機嫌さを滲ませる馬上の上官に、ザックスはへらへらと笑いながら言い訳する。
「いやあ、ちょ~っとこの坊ちゃんをからかったら、ムキになっちゃったってだけですよ」
「何っ!?」
「冗談も通じないなんて、貴族ってのは本当に頭の固い……」
「こいつ……! これ以上僕を侮辱するなら……!」
「パリスっ!」
僅かな魔力の発生を感じて、リシェルは慌てて振り返り、パリスの腕を掴んだ。目の前で不安げに覗き込んでくる薄紅色の瞳に、パリスははっとしたように目を逸らした。発生しかけた魔力の気配が消える。
エリックはそんな魔道士二人の様子を見、それから部下へと冷ややかな視線を落とした。
「ザックス、お前が魔道士の補佐役に立候補したから任せたんだ。問題を起こすなら、お前はこの任からはずす」
「す、すみません! それはご勘弁を!」
黒い双眸に睨まれ、ザックスは身を竦めた。部下を見るのと同じ冷たさを持った瞳が、今度はパリスへ向けられる。
「それから、あんたもだ。頭に来たからって、この程度のことでいちいち魔法を使われたんじゃ困る。派遣されてきた以上、お前たちも騎士団の一員扱いなんだ。不測の事態もしくは戦闘開始まで攻撃魔法の使用は禁止。任務中は軍規に従ってもらう」
リシェルは驚いてエリックの顔をまじまじと見た。どうして、さっきパリスが魔法を使いかけたことがわかったのだろう。パリスは呪文を唱えることはおろか、手すら動かしてはいない。魔力の発生は、魔道士にしかわからないはずなのに。
リシェルの問うような視線に、エリックは一瞥だけくれると、すぐに手綱を捌き、馬首を返して、クライルの元へと去って行く。
「あいつ……やっぱり、あの時の………」
その後ろ姿を見つめながら、パリスはぽつりと口の中で呟いた。
アンテスタへの行程は順調に進んでいた。
日中は休憩を取りつつ、ひたすらアンテスタを目指し、夜は近隣の町や村で宿を取る。時には野営することもあった。初めて訪れる土地、星空の下でテントを張り眠る夜。そうした経験のすべてが、リシェルにとって新鮮だった。戸惑うことも多かったが、世話役のザックスとダートンがよくしてくれたので、さほど不自由さを感じずに済んだ。
初日の一件があって以来、ザックスはパリスとはほとんど口を利かなかったが、リシェルにはとても親切にしてくれた。ダートンも旅慣れていないリシェルを何かと気遣ってくれ、生まれて初めて――かどうかは記憶のないリシェルには実際にはわからないが――の旅は、予想外に楽しいものとなった。
ザックスとダートンの二人は長い付き合いのようで、長い間一緒に各地で傭兵をやってきたらしい。シグルトに拾われて以来、王都から出たことのないリシェルにとって、彼らから聞く見知らぬ土地の話は、とても興味深いものだった。二人は道中、各地での自分たちの経験を――多少脚色も入っているのだろうが――面白おかしく話してくれるので、リシェルは何度も笑いすぎて馬から落ちそうになった。その度にリシェルが落馬しないよう、掴んで支えてくれるパリスは、終始むすっとした表情だったが。
二人とはすっかり仲良くなったが、他の騎士や兵たちとはなかなか交流がなかった。リシェルたち魔道士には、食事の支度や野営の準備など、道中に割り当てられている仕事がないため、接する機会自体があまりないのだ。パリスはそれを当然と考えているようだったが、リシェルは皆が忙しくしている時にぼんやりしていることに申し訳なさを感じ、たまにそうした作業を手伝おうと声をかけると、年配の兵は緊張した面持ちを見せ、年若い兵はなぜか頬を赤らめ、口をつぐむ。皆の反応に、もしかして嫌われているのかと不安に思い、ザックスに相談した程だ。
「ああ、それは……リシェルちゃんが可愛いから照れてるんだよ、あいつら。それに……」
そこでザックスはにっと笑う。
「リシェルちゃんがシグルト様の想い人だから、恐れ多いんじゃないかな?」
「ええ!? ザックスさん、なんか変なこと皆さんに言ったんですか!?」
シグルトに求婚されている話を知っているのは、クライルとダートン、そしてザックスだけだ。ダートンは三人の中で一番良識があるように思えたし、そんなことをべらべら他人に話すとしたら、王子か目の前の彼だろうと疑う。
「いや、まあ……でも、俺が何も言わなくても、出発の時のあの熱~い抱擁を見れば、誰だってわかるよ」
やはり、皆に見られていたのだと改めて知って、リシェルは赤くなった。そんなリシェルに、ザックスは目を細めた。
「リシェルちゃん……本当にシグルト様に想われてるんだね……君の頼みなら、きっとシグルト様だって……」
王都を出て四日目。
ラティール騎士団は、昼の休憩を取っていた。
街道沿いに広がる草原で、昼食を取ったり、馬に草を食ませたり、仲間を談笑したり――皆思い思いの時を過ごしている。
リシェルも昼食を終えた後、近くに流れる小川のほとりで、ごろんと仰向けになって晴れた空を見上げていた。
「お前、よくそんな地べたに横になれるな。土が付くだろ?」
パリスのいかにも良家のお坊ちゃんらしい発言に、リシェルは笑った。
「土は払えばいいもの。パリスも横になってみたら? 気持ちいいよ?」
言って、目を閉じる。優しいぽかぽかとした日差しと、柔らかい風が心地よい。川のせせらぎに、このまま眠ってしまいそうだ。
パリスは無防備に横になるリシェルを呆れて見、それから周囲に気を配る。近くに他の人間の姿はない。
ほっとして再びリシェルに目を落とす。
きめ細かい白い肌に影を落とす長いまつげ。ほんのり色づいた唇。草の上で散り広がる、艶やかな長い黒髪。
リシェルは気づいているのかいないのか、彼女は明らかに若い騎士や兵たちに意識されていた。パリスが周囲に目をやれば、必ず誰かが彼女に視線を送っていた。紅一点、しかもそれが稀に見る美少女となれば、無理からぬことだ。
(…………まあ、確かに……可愛い……もんな……)
リシェルのことを憎んでいた頃は思いもしなかったことだが、シグルトが彼女の身を案じるのもよくわかる。魔道士であれば女といえど、危険な任務をこなさなければならない。そのために男ばかりの環境に放り込まれることも仕方ないとはいえ、それは自分の身を守れるからこそだ。
これだけ周囲の男達に注目されながら、誰も近づいて来ないのは、やはりあのシグルトの弟子、相当の実力ある魔道士だと思われているからだろう。下手なことをすれば魔法で反撃される、と。
「お前さ、絶対に攻撃魔法が使えないってこと、周りにばれるなよ?」
「うん、わかってるって」
目を閉じたまま、呑気に応えるリシェル。いまいち危機感に欠けた返事にパリスは少し苛立つ。
彼女はおそらく、ずっとシグルトに守られてきたために、女としての身の危険など感じたことがないのだろう。自分は男だが、美貌が災いして子供の頃から何度も、父であるユーメント公爵の目を盗んだ変態貴族に悪戯されそうになったことがある。その度に魔法で懲らしめてやったが。
リシェルには今、治癒魔法を教えてやっているが、早く攻撃系の魔法を教えてやるべきかもしれない。
パリスがあれこれと、シグルトに託されたリシェルの身の安全を確保する策を考えていると、突然、男たちのわっと大きな歓声と、騒ぐ声が聞こえてきた。
「なんだろう……?」
リシェルは驚いて飛び起きると、パリスと目を合わせ、声のする方へと向かう。
少し離れた場所で、兵たちが輪になって何かを見ていた。立ち見のものもいれば、座っている者もいる。くつろいでいるらしく、鎧や防具を脱いでいる者も多い。
輪の中心にいるのは、向かう合う二人の男。
一人は屈強そうな大柄な男。そして対するもう一人は――――
「エリックさん……?」
二人はそれぞれ、手に練習用と思われる、刃を潰した剣を握っている。
どうやら、練習試合をしているようだ。
大男が地を蹴った。剣を振りかぶり、エリックへと向かう。
相当の身長差から振り下ろされるそれを、しかしエリックは自らの剣であっさりと受け流し、勢い余って前のめりになった大男の背後へ回り込むと、その尻へ蹴りを入れる。
大男はあっさりと地に伏した。
周囲からわっと歓声が上がる。
「次!」
エリックが声を張り上げると、輪の中から今度は彼と同じくらいの体格の男が進み出る。
「隊長! 宜しくお願いします!」
男は一礼すると、剣を構え、間を置かずにエリックに斬りかかる。
数回切り結んだ後――――エリックは自らの剣を相手の剣に絡めるように滑らせると、一気に振り上げた。同時に、相手の男の手から剣が弾き飛ばされ、空中で数回回転した後、地へと突き刺さる。
再び歓声が起こった。
「次は!?」
その後も、エリックは名乗り出てきた試合相手を次々に打ち負かしていく。いずれの試合も、開始から数分と経たずに決着がついた。無駄の一切ない動きは、まるで華麗な舞踏を見ているかのようだ。あるいは、力強さと優雅ささえ感じさせる、剣舞。
素人目にもはっきりわかる程、彼の剣の腕は、飛び抜けている。
「す、すごい……!」
「だろ? あの人、滅茶苦茶強いんだよ」
いつの間にか、ザックスとダートンが横に立って、一緒に同じ方向を見ていた。
「アーデン騎士団にいた頃は、ただの傭兵だったんだけど、領主の屋敷に押し入った強盗十人を、一度にたった一人で相手して、斬り伏せたんだ。それで領主に気に入れられて騎士に昇格したってわけ」
ダートンが誇らしげに説明する。
「一人で十人相手に……? すごい……!」
素直に驚くリシェルに、パリスは面白くなさそうに言った。
「別にそんなすごくないだろ? 僕たち魔道士なら盗人くらい、何十人相手だろうが、一瞬で倒せるんだから」
ザックスがじろりとパリスを睨む。だが、何も言わなかった。
実力ある魔道士ならば、その力は一騎当千。国の正規軍の一部隊にも匹敵する。どれだけ屈強な兵を抱える軍であろうと、剣も弓も届かぬ距離から魔法で攻撃されれば、ひとたまりもない。だからこそ、エテルネル法院という最大規模の魔道士組織を擁するこのヴァ―リス王国は、その力を利用して大陸一の大国となれた。
「すげ~、エリックさん! 十人抜き!!」
「つえ~!」
「さすが親衛隊長!」
輪になって見守る兵たちから、一際大きな歓声が上がる。
「次!」
エリックが声を張り、促すが、応じる者はいなかった。
「なんだ……終わりか?」
幾分つまらなさそうに言って、剣をしまおうとしたその時。
「よ~し、ここは僕の出番かな~?」
のどかな声と共に立ち上がったのは、中肉中背のふわふわした茶髪の男――――クライルが腕まくりをしながら前へと進み出ると、兵たちの間からどっと笑いが起こった。
「王子様がエリックさんに勝てるわけないっしょ~」
「大将~、やめといた方がいいですよ~」
「そうそう、盗賊討伐の前に怪我しますぜ!」
「可愛い魔道士のお嬢さん方の前だからって張り切らない方がいいですって!!」
「あ~もう! うるさいな~」
遠慮なく囃し立てる部下たちを、唇を尖らせ睨んでから、クライルはくるりとリシェルたちのいる方へと振り返り、大きく両手を振った。
「リシェルちゃ~ん、見ててね~!」
名を呼ばれ、リシェルは苦笑しながら了承の意を伝えるため、小さく手を振った。それから、手を振り返すなど王族相手には無礼だと気付き、慌てて手を引っ込める。クライルのあまりに気どらない態度に、つい彼が王子であることを忘れてしまうようだ。
その横で、パリスは眉を寄せ、舌打ちしていた。
「だから僕はお嬢さんじゃないってのに……あいつら、一回魔法でぶっ飛ばしてやろうか……」
エリックに向き直ったクライルは、剣を構える。一応、基本はできているようで、様にはなっている。
「さ、エリック。始めようか。僕が王子だからって、手加減はしなくていいよ~」
「……わかりました」
主の指示に、部下はため息を吐きつつ、剣先を主へと向ける。
「やあっ!」
気合い――といってもどこか脱力感が漂っていたが――と共に、クライルが真っ向からエリックに突進する。
エリックは避けようともせずに、正面からクライルの剣を受け止める。二人の剣がかみ合い、力比べになる――――かと思われたが、クライルはあっさり押し負け、地に尻もちをついた。
「いってぇ……もう、エリック~、ちょっとは手加減してよ~」
クライルは尻を擦りながら、恨めしげにエリックを見上げた。
「さっきは手加減するなと……」
「そこは空気読んでよぉ。リシェルちゃんの前でいいとこ見せたかったのに~。よ~し、もう一回! 今度は手加減してよ?」
兵たちの間から再び爆笑が起こった。だがそれは、決して本気で彼らの主を笑うようなものではなく、親愛のこもった温かいものだった。王子を囲む人々に漂う空気の優しさに、リシェルは思わず微笑んだ。
「クライル様って人気者なんですね」
そういえば、出発の日、騎士団が王都の市街地を抜ける時は、街道沿いに多くの人々が集まり、クライルに声援を送っていた。王子様がんばって、どうかご無事で、早く帰ってきてください。そんな人々の声に、クライルはにこにこと馬上から手を振って応えていた。
リシェルの言葉に、ザックスは自分が誉められたかのように、嬉しそうに言った。
「ああ。あの人はさ、お高く止まった貴族の連中とは違う。小さい頃は王子だってことを知らなくて、普通に平民の子として、貧しい暮らしをしてたらしいし、俺たち庶民の気持ちをわかってくれる人だ。まあ、確かにちょっと頼りないけど、なんか支えたくなるんだよな……」
クライルは再びエリックに斬りかかっていた。エリックも今度は手加減しているようで、自分からは攻め込まず、ただクライルの剣を軽く受け流すだけだ。
そんな自分たちの主を見守るザックスとダートンの眼差しは、とても柔らかい。
「俺たちはさ、あの人が次の王になってくれないかなって思ってる」
ザックスの声は真剣で、心からそれを願っているようだった。
だが、パリスが即座にその可能性を否定する。
「それは無理だろう。クライル王子が王位につけば、王家と縁戚筋の貴族から、自分たちの方がよっぽど王に相応しい血筋だと反発が出る。内乱が起こるぞ」
「大将の母親が平民出で、貴族じゃないからか? あんたら貴族はすぐ血筋、血筋だ。それが何だっていうんだよ? 貴族の血筋に生まれたってだけで、俺たちから税を納めさせて、のうのうと遊んで暮らしやがって」
ザックスはパリスに噛みつく。彼には、パリスが憎い貴族の代表のように見えているようだった。
「国民は、大将が王になることを望んでる」
「誰が王位継承者になるのかを決めるのは国民じゃない。国王と貴族議会だ」
「ああ、そうだ。大将に味方する貴族は少ないからな……このままじゃ、大将が王になるのは無理だ……」
不意にザックスがリシェルに向き直る。初めて見る、真剣な表情だった。
「なあ、リシェルちゃん。お願いだ。シグルト様に、大将の味方してくれるように頼んでくれよ」
「え?」
「シグルト様が大将につけば、今国王側についてる貴族の連中だって、相当数大将に寝返るはずだ。いざ内戦ともなれば、結局ものを言うのは力だからな。強い方につくのは当然だ」
「でも、先生は誰の味方もしないって……」
「……リシェルちゃんの頼みなら、シグルト様だって聞いてくれるんじゃないか?」
「なるほど。お前が僕たちの補佐役になったのは、お人好しのこいつを利用して、シグルト様のお力を得ようって魂胆か」
鼻先で笑ったパリスをザックスは睨みつける。だが、違うとは言わなかった。それがリシェルの心を傷つける。
(ザックスさんが私に親切にしてくれたのは、先生の力が欲しかったから――?)
「なあ、リシェルちゃん。大将のこと、もっとよく知れば、あの人が王に相応しいってわかるはずだ。だから、シグルト様に――――」
「おい! やめろよ、ザックス」
なおもリシェルに詰め寄ろうとする友を、ダートンは腕を掴んで止める。
「ごめん、リシェルちゃん……こいつちょっと頭に血が上っちゃったみたいで……」
申し訳なさそうに謝った後、ザックスを促し、去って行った。
二人の背中が遠くなるにつれ、リシェルの胸に、今まで感じたことのない空しさが湧き上がってくる。
「おい、こんなことでいちいち傷つくな」
パリスが苛立ったように言った。
「大方の人間にとってお前の価値なんて、“シグルト様の愛弟子”っていう利用価値だけなんだよ。いい顔して近づいて来る人間を簡単に信用するな。……傷つくのは自分だぞ」
パリスの言葉を聞きながら、リシェルは理解した。
シグルトの弟子。
記憶を失い、自分が何者かわからないリシェルにとって、シグルトが与えてくれたその意味は大きな救いだった。
でも、今回のことではっきりと気づいてしまった。
今の自分の存在が、“シグルトありき”でしかないのだということに――――