32 王子様
リシェルは目の前で揺れる黒髪と、赤いマントを見つめて歩いていた。
歩き始めてからエリックは一度もこちらを振り返ることなく、言葉を発することもない。会話のきっかけが掴めず、リシェルも黙ってついて歩く。
(いろいろ聞きたいことがあるのに……!)
せっかくまた二人で話せる機会が出来たというのに、このままでは何も話せないまま、家に着いてしまう。だが、いきなりカロンのことや、シグルトのことを聞けるような雰囲気ではない。
(まずは何か軽い話題を……)
リシェルは思い切って口を開いた。
「あの、エリックさん! ラティール騎士団、初任務成功おめでとうございます。エリックさんも行かれたんですか?」
「……ああ」
反応はあったが、エリックは振り返ることも、歩む速度を緩めることもしない。
「ラムド地方の山賊団を討伐なんて、すごいですね。お怪我とかされませんでした?」
「……別に」
「さ、さっきは王子様と偶然お会いして、すごくびっくりしちゃいました。王子様、よくああやって街にいらっしゃるんですか?」
「……ああ」
「その度にエリックさんが探されてるんですね。大変ですね!」
「……ああ」
「……え、え~と……そういえば夜会の時はダンスに誘って頂いてありがとうございました。エリックさん、すごくお上手でしたね」
「……別に」
「……」
短い。あまりにも短い。エリックの返事が。
……会話がまったく続かない。
リシェルは必死で頭を回転させる。自分自身、おしゃべりは得意ではないのに、自分から話題を提供するのは一苦労だった。
「あ、そうだ! 私、魔法が使えるようになったんです!」
「……」
「光を作れるようになったんです。ほら、役所の魔道士が夕方街灯に光を灯すあれです。これで夜道も安心です」
そこで初めて、興味を持ってくれたのか、エリックが顔だけ振り返ってくれた。無表情ではあったが。
「他にはどんな術を?」
「え……ま、まだそれだけです……」
「……そうか」
リシェルの答えに、再び前を向いてしまう。
……会話終了。
再び沈黙が訪れる。
夜会で一緒に踊ったことを思い出す。踊っている間はすごく楽しくて、時を忘れた。楽しいと思っていたのは自分だけだったのだろうか。会話こそほとんどしなかったが、ほんの少し、近づけたと思っていたのに……
やはり、シグルトの弟子だから嫌われているのか。
「あの、エリックさん。……私のこと、お嫌いですか?」
「……なんでそう思う?」
エリックが足を止め、振り返った。相変わらず表情に乏しいが、少し驚いているようにも見えた。
リシェルも立ち止り、エリックの顔色を伺いながら問う。
「だって……夜会の時おっしゃっていたこと……あいつを信用するなって……あれって私の師のこと……ですよね?」
「……」
「エリックさん、先生のこと、多分……お嫌いですよね?」
エリックは否定も肯定もせず、黙っている。
「私は、その弟子だから……」
師と慕う人が誰かに嫌われているのは寂しい。
理由を知りたかった。
「どうして、先生を嫌うんですか?」
エリックはしばらくリシェルを見つめた後、ふいに顔を背けた。リシェルもその視線の先を追う。
遠くに、夕日で赤くそまった空を背景に、天にも届かんばかりにそびえ立つ白亜の塔と、それを囲んで立つ六つの小塔が見えた。塔の上には六芒星を象った紋章の織られた旗が風を受けて翻っている。それは王都の中心、小高い丘の上にそびえる王城にも引けを取らぬ異様な威圧感を放っていた。
エテルネル法院だ。
「……お前、法院がもともとどういう組織だったか知ってるか?」
「え?」
突然の問いかけに戸惑う。なぜ急に法院の話になったのか訝しみながらも、頭の中で本で読んだ知識を引っ張り出す。
シグルトやリシェルが所属するエテルネル法院は、数ある魔道士組織の中で最も古い歴史を持ち、大陸最大規模を誇っている。その起源は、偉大なる大魔道士ガルディアにまで遡るという。
「エテルネル法院はもともと、魔道士を裁くために作られた組織だ」
答えを待たずに、エリックが先を続けた。リシェルは黙って頷いた。
エテルネル法院の起源については、リシェルもこの間勉強したばかりだ。
まだ魔道士という名称がなかった時代、強い魔力を持って生まれた人間は異端者だった。魔法という魔力を操る技術が確立されていなかった当時、魔力を制御できずに暴走させ、周囲の人間に危害をもたらす者も少なくなかったから、彼らは忌み嫌われた。
特に、魔力の影響で髪や瞳の色が変化した人間は、悪魔の子として蔑まれ、差別されていたという。そうした差別は今もなお、魔道士のいない地域では根強く残っている。
社会に受け入れられなかった彼らは、その力を使って犯罪に走る者も多かった。普通の人間が彼らに勝てるわけもなく、困り果てた時の権力者たちは、同じ力を持つ人間に地位を与え、彼らを取り締まり、裁く役目を与えた。毒には毒を、というわけだ。
そうして魔力を持つ人間が集められ、設立されたのがエテルネル法院だ。
創設者は、現在では半ば神格化された存在となっている、大魔道士ガルディア。
魔力をもって秩序を乱す者を裁く――その役目をこなすため、ガルディアの下、魔力の使い方が研究され、魔法が一つの技術として確立された。その技術を操る者に魔道士という呼称が与えられると、その存在は社会に受け入れられるようになり、法院の規模と社会的影響力は次第に拡大していった。
時代とともに法院が担う役割も変化していったが、秩序を守るために作られた組織としての性格は今なお色濃く受け継がれている。それは厳しい階級制度や、“掟”と呼ばれるいくつもの規則や罰則に現れている。
「奴らは、自らが罪人と定めた者を許さない。絶対に――――」
語る声に嫌悪感が滲み出る。
夕日のせいだろうか。
法院を見つめる黒い瞳に、憎悪の炎が揺らいでいるように見えた。
どうしてそんな話をしたのだろう。法院が嫌いだから、その長であるシグルトのことも嫌いだということなのか。
だが、エリックはそれ以上語る気はないらしく、黙って法院を見つめている。
リシェルはその横顔をじっと見つめた。
黒曜石のように黒々とした瞳。鼻筋の通った高い鼻。形のいい唇。艶やかな黒髪が時折風に揺れ、彼の横顔をそっと撫でる。
(綺麗な人……)
内心、感嘆する。
今まで出会った男にも、顔立ちが美しい者は何人かいた。パリスも、導師のヴァイスも、とても整った美しい顔をしていると思う。
だが、こうして見惚れてしまったのは初めてだった。
(物語に出てくる王子様ってこういう感じなのかな?)
少なくとも、本物の王子であるクライルよりは余程、颯爽とした立ち居い振る舞いも、美しいながら精悍さも感じさせる顔立ちも、自分を助けてくれた強さも、すべてが王子様らしかった。
そんなことを考えていると、エリックが急にこちらを振り返ったのでどきりとした。
「お前は……」
「え?」
「あいつのこと……どう思ってる?」
黒い瞳がじっと自分を見つめてくる。心を見透かされそうな、射貫くような視線にリシェルの鼓動が少し早くなる。
「先生は……私の恩人で、すごく感謝してます。すごい魔道士だし、尊敬もしてます」
「それだけか?」
どういう意味だろう。それ以上の感情があるのかどうかという意味だろうか。どうしてクライルといい、みんな自分とシグルトの関係を勘ぐりたがるのか。
エリックにまで師との関係を疑われているのかと思い、思わず赤くなる。
「そ、それだけです! あ、もしかして、王子様に何か変なこと言われたんですか?」
「……いや」
エリックが顔を背け、歩みを開始しようとした、その時――――
すぐ横の道を、大量の麻袋を乗せた荷馬車が駆け抜けた。荷馬車に乗せられていた袋の一つの口が開いており、中に入っていた粉が道に零れ落ちた。粉は落ちた瞬間、煙となって空気中に舞い広がる。
すぐ近くにいたリシェルは、甘ったるい匂いのするその煙を思いっきり吸い込んでしまった。
「けほっ……けほっ……」
激しく咳き込む。
と、突然両肩を掴まれた。
「大丈夫か!?」
声に見上げれば、エリックの顔が目の前にあった。さっきまでずっと無表情だったのに、その顔にははっきりと心配そうな表情が浮かんでいた。
「え、平気ですよ?」
少し咽ただけなのに、エリックの切迫した様子に戸惑う。
「これ、多分、キートの粉ですね。お化粧品とかに使われるんですけど、吸い込んでも害はないから大丈夫です」
「そうか……」
エリックは安堵した表情になると――――そっとリシェルの頭を撫でた。
大きな手が、慈しむように優しく髪の上を滑る。
その動作があまりにも自然で、リシェルは一瞬、いつもそうされているかのような錯覚を覚えた。
だが、すぐに我に返り、知り合って間もない異性に髪に触れられるという状況に、目を見開いた。
「……悪い」
リシェルの様子に、エリックはばつが悪そうな顔になると、手を離し、すぐに背を向けて歩き始めた。
(えーと……今のは……)
リシェルの頭は混乱し、心臓がどきどきと高鳴っていた。
「……お前、どこか身体が弱いとか、ないか?」
前を歩くエリックが問う。すっかり元の無感動な声だ。
「え? ないですけど……」
今まで大きな病気も、怪我もしたことがない。風邪だってそんなには引かないし、むしろ丈夫な方だと思う。
「……なら、いい」
エリックはそれきり黙ってしまう。リシェルも気持ちが動揺し、カロンのことやシグルトのことを詳しく聞くという考えすら頭から抜け落ち、何を話していいかわからないまま、家の近くまで着いてしまった。
「エリックさん。送っていただいて、ありがとうございました」
なんとなく、目を合わせるのが恥ずかしくて、リシェルは言いながらぺこりと頭を下げた。
「……お前のことは、別に嫌いじゃないから」
ぼそりと小さく呟かれた声に、頭を再び上げた時には、エリックはもうリシェルに背を向けて元来た道を歩き出していた――――
静かな空間に、かちゃかちゃと食器が立てる音だけが響いている。
リシェルはシグルトと夕食を摂っていた。
目の前に座るシグルトは黙々と食事を進めている。いつもながら和やかに会話しながら食事を摂るのに、今日は師は口を開かない。不機嫌さがひしひしと伝わってくる。
「あの、先生。帰りが遅くなったこと、まだ怒ってます?」
「……」
「本当にごめんなさい……つい勉強に夢中になってしまって……」
シグルトにはクライルと偶然遇ったことは伏せておいた。日ごろ寄り道はするなと強く言われているのに、強引に連れて行かれたとはいえ、酒場へ行ったなんて知られたら長いお説教が始まりそうだ。
シグルトはスープに入ったジャガイモにスプーンを突き刺しながら、恨めし気に言った。
「勉強熱心なのはいいですが、読書と君とのお茶の時間だけが、私の休日の楽しみなんでね。忘れられると結構寂しいものですよ」
シグルトは法院が休みの日は、ほぼ決まった過ごし方をしていた。大半は本を読んで過ごし、昼食後に気が向けば散歩へ行き、時間になればリシェルとお茶を飲んでおしゃべりをする。街へ出たり、誰かと会ったりするようなことはほとんどない。たまにブランが訪ねてくるくらいだ。
セイラは無口だし、おしゃべり相手が他にいないシグルトは、リシェルが思っている以上に、弟子とのお茶の時間を楽しみにしているのかもしれない。
「今日はずっと法院の図書館で勉強を?」
「え、あ、はい。そうです」
パリスに練習を見てもらっていることは、シグルトには内緒だ。それがパリスが練習を教えてくれる条件だったし、リシェルも言わない方がいいと思った。シグルトはパリスのことを完全には許していないようだから、言ったら止められる気がしたのだ。
「そうですか……」
再び、沈黙。食器の立てる音だけが響く。
セイラが作ってくれた料理が、常にも増して味気なく感じる。
しばしの間をおいて、シグルトがスープを口へ運びながら、言った。
「……それはそうと、君、最近パリス君とよく一緒にいるらしいですね」
リシェルは思わず、スープを掬おうとしていた手を止めて硬直する。
「な、なんでそれを……?」
「私は仮にも導師なんでね。法院内のことならなんでも報告が来るんです」
練習はいつも目立たない所を選んで行っていたが、誰かに見られて、その誰かがわざわざシグルトに言ったというのか。そんなことを一々報告する人間がいるとは思えなかったが、ばれてしまったものは仕方ない。正直に白状する。
「その、いろいろ教えてもらってて……」
「どうりで最近、私に魔法を教えろって言わなくなったわけだ。もしかして、今日もですか?」
「……はい」
「ふ~ん……休日にわざわざ、ね。随分仲良くなったものだ」
シグルトは憮然とした表情で、スープをすすった。
ますます機嫌を悪化させてしまったことを察して、恐る恐る問う。
「先生、まだパリスのこと怒ってるんですか? 彼、意外といい人ですよ…?」
「わかってますよ。そんなこと。最初からね。君のことが本当に邪魔なら、誘拐なんて面倒な真似しなくても、彼の力ならあの魔法陣の罠で君の命を奪うことだってできたはずです。それをしなかったあたり、甘いというか何というか……やっぱりあのブランが選んだ弟子ですね」
「なら、どうして……」
そんなに不機嫌なのか……と問う前に、呆れたように言われた。
「……君は本当に鈍いな」
きょとんとするリシェルに、シグルトは耐えきれなくなったように、くすっと笑った。帰宅後、初めて見る笑顔だ。
「ま、いいでしょう。君が鈍いのはわかってたことだし。で、今日はどんな勉強をしたんです? わからないことがあったら聞いてください。パリス君より私の方がずっと物知りですよ?」
師の機嫌が少し良くなったらしいのを見て、ほっとしたリシェルは、素直に質問した。
「じゃあ、あの、先生。“夜這い”ってなんですか?」
今度はシグルトが凍りつく番だった。
「……一体どこでそんな言葉、覚えてきたんです?」
「えーと、本で……」
クライルに言われた言葉だが、師の反応を見る限り、あまりいい意味の言葉ではないのかもしれない。
「何の本を読んだんだか」
シグルトは呆れたように言った後、すっと目を細めてリシェルを見た。紫の瞳が妖しく煌く。
「まあ、時期が来たら、実際にしてみせてあげますよ」
「今はできないんですか?」
無邪気な弟子の問いに、シグルトは口元にうっすら笑みを浮かべた。
「君がいいなら今夜にでも実行するけどね」
「私?」
「……いや、今日はさすがにやめときましょうか。一歩間違えると犯罪になっちゃいますから。……ま、そのうちね」
「はあ……」
リシェルは意味深な言葉に首を傾げる。なんだかはぐらかされてしまった。今度自分で調べてみよう。
「ところで、魔法の勉強ばっかり頑張ってるみたいだけど、私が貸した小説はちゃんと読んでるんでしょうね?」
「あ、はい。まだ最初のほうですけど」
シグルトがあまりにも読むようにしつこく勧めるものだから、リシェルは師から借りて今話題のローラ・シャルトルの恋愛小説を読んでいた。
「どうです? 面白いでしょう? ときめきました?」
「と、ときめき? いえ、まだそこまでは……」
明らかに意見ではなく同意を求めて尋ねてくる師に、リシェルは若干引きながら答えた。シグルトはがっくりと肩を落とす。
「君は本当に幼いというか、お子様というか……」
その馬鹿にしたような言い様に少しむっとして、リシェルは意地悪したくなった。
「そういえば、月光花の庭もローラの小説に出てくるんですよね?」
「ああ、ばれちゃいましたか」
からかうつもりが、シグルトは特に動じる様子もない。
「小説ではね、月光花の庭で幼馴染の恋人から愛を告白された主人公は、“私も愛してるわ”と答えて二人は熱い口づけを交わして、永遠の愛を誓い合うんです」
うっとりした口調で言った後、ため息をつく。
「……しかし、現実はうまくいかないもんですねぇ。いや、でもあの時ブランさえ邪魔しに来なければ、君も雰囲気に流されて同じ展開になってたかも……」
「なってません!」
夕食と入浴を終え、寝間着に着換えたリシェルは、シグルトから借りた小説を手に、寝台にごろんと横になった。しおりをはさんだページを開き、掲げ持つ。
この物語の主人公は人里離れた森の中で、年老いた祖母と暮らす、リシェルと同じ十六歳の少女だ。ある日、森で怪我をして倒れている青年と出会う。甲斐甲斐しく介抱する少女と、その青年はお互いに淡い恋心を抱くようになる。しかし、青年は実はこの国の王子で、既に隣国の王女と婚約中の身の上だった……という話である。
非現実的な話の展開に、歯の浮くような台詞の数々。ときめくというよりも、読んでいるこっちが恥ずかしい。
シグルトはなぜこんな本ばかり読んでいるのだろう。理解し難かった。年頃なのに、そんな風に想ってしまうリシェルがおかしいのか。
(王子様……か)
その言葉に、思い浮かぶのは本物の王子クライルではなかった。
そっと、エリックに触れられた髪を撫でる。
なぜだろう。また心臓の鼓動が速くなる。
(先生以外の人にあんな風に触られたことなかったから、びっくりした……)
日ごろ、シグルトはよく綺麗な髪だと言って、リシェルの髪を撫でてくる。だが、他の人には子供の頃はともかく、大きくなってからは頭を撫でられたことはない。
いつも無表情なエリックが浮かべたほっとした表情と、慈しむような大きな手を思い出す。
(次会えるのはいつだろう……?)
思ってしまってから、慌てて付け足す。
(き、今日は結局何も聞けなかったから、今度会った時こそ……!)
リシェルはぱたんと本を閉じると、赤くなった顔を隠すように布団の中に潜り込んだ。
遅くなりましたがようやく更新><
次話はさくっとかけそうな気がするので日曜更新がんばります~