30 どうして
ドタドタと騒がしい足音とともに、扉がばんっと幾分乱暴に開いた。
「先生!」
開いた扉の先に、リシェルが頬で染め、息を切らしながら立っていた。走ってきたらしい。
「騒がしいですね。どうしたんですか?」
シグルトは言いながら、ずっと手に持ってぼんやりと眺めていた薄紅色の花を、さっと花瓶に戻した。
「先生! 見てください!」
リシェルはシグルトが座る執務机の前まで駆け寄ると、瞼を閉じ、両手を前へと突き出した。
すぐにその手の上に、球状の光が生まれる。
リシェルが目を開けると、光はすぐに消えてしまった。だが、少女は今度は薄紅色の瞳にきらきらとした光を宿して、シグルトを見つめた。
「ね? 今の見ました? 光ってましたよね? 私、魔法が使えるようになったんです!」
「……」
シグルトは特に表情を変化させることなく、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「……少し壊された、か……」
「え?」
「リシェル、こっちにおいで」
師の反応が薄いことに不満を感じながらも、素直に言われた通り、師の傍へと立つ。
シグルトはそっとリシェルの額に手を当てた。
「なんですか?」
「……君が赤い顔をしてるから、熱があるんじゃないかと思ってね」
「これは走ってきたからですよ?」
そうは言ったものの、火照った顔に、シグルトの冷たい手が心地よく、そのままにされていた。
「先生、私、魔道士になれますよね?」
リシェルは期待のこもった眼差しで師を見上げる。
「……そんなに魔道士になりたいのは、記憶を取り戻したいからですか?」
「もちろん、それもありますけど……」
確かに、最初は魔道士になって、この薄紅色の瞳の理由を知り、記憶を取り戻すことが目的だった。
「私、今まで先生のお仕事を手伝ってきましたけど、たいしたことできなかったから……魔法が使えるようになって、もっと先生のお役に立てるようになりたいんです」
「君はただ側にいてくれるだけで、十分すぎるほど私の役に立っていますよ?」
リシェルは首を振った。自分が何の役にも立っていないことくらい、ちゃんとわかっている。それに、理由はそれだけではなかった。
「まだ始めたばかりだし、難しくてわからないことばかりだけど……魔法の勉強って、なんかすごく面白くて……」
本格的に勉強を始めてから、すぐにリシェルは自分が魔法というものにのめり込んでいくのを感じた。 この世界の理を解き明かし、人間の可能性をどこまでも広げていく。リシェルの知らない世界がそこにはあった。
数百年前、偉大なる大魔道士ガルディアが一つの技術として確立した魔法。
以後、魔道士たちが探究を続け、それでもなお解明され尽くされることのない、奥深い世界。
リシェルはすっかりその虜になっていた。
「私、考えてみると、こんなに夢中になれるものって他になかったなって……」
シグルトの紫の瞳が、迷うように揺らいだ。
「もっともっと勉強して、ちゃんと魔法が使えるようになって、魔道士だって認められるようになったら……たとえ、記憶が戻らなかったとしても、自分に自信が持てる気がするんです」
自分を魔道士のリシェルだと胸を張って言えるようになれたなら。
今ほど過去がないことに対する不安を感じなくて済むような気がした。
「私、頑張ります。頑張って、先生みたいなすごい魔道士になりたい」
「………」
シグルトがすっと、リシェルの額から手を離した。
「先生?」
「……魔法、使えるようになってよかったですね。これからも頑張りなさい」
シグルトはどこか諦めの滲んだ微笑みを浮かべる。
「はい!」
元気よく返事を返すリシェルに、シグルトは気を取り直したように、今度はにやっと笑った。
「それにしても急に魔法が使えるようになるなんて……やっぱりさっきの訓練のおかげかな?」
訓練という言葉に、先ほど師にされたことが一瞬にして蘇る。初めて魔法が使えた興奮に、すっかりそのことを忘れていた。リシェルは慌てて一歩シグルトから離れる。
「わ、私、まださっきのこと怒ってるんですからね!」
「何をです?」
「だ、だから、さっきのっ……その、私のことだましてっ……私に……!」
「口づけしようとしたことですか?」
自分では恥ずかしくて口にできないことをあっさり言われて、リシェルは真っ赤になった。
「……!」
「いけませんでしたか?」
「い、いけないに決まってます! からかわないで下さい!」
「からかったわけではないよ」
言葉とは逆に、シグルトの顔は完全に動揺するリシェルを面白がっている。
「好きな女の子に触れたいと思うのは、至って自然な男心です」
「だ、だからってあんな騙すのは駄目です!」
「じゃあ、許可を取ればいいわけだ」
シグルトは一歩歩み寄ると、リシェルの肩に両手を置き、じっと見下ろしてきた。
「……してもいいですか?」
「……っ!」
耳まで真っ赤にして、師の視線から逃れるように俯き、それでもかろうじて首を振る弟子に、シグルトは笑った。それから、少しだけ残念そうな口調で続ける。
「どうしたら君は私を好きになってくれるんだろうね。私には何が足りないのかなぁ?」
そんなことを言われても、リシェルにだってわからなかった。
シグルトのことはもちろん好きだ。だが、シグルトがリシェルに求めている“好き”はそれとは多分違う。その違いが、リシェルにはよくわからないのだ。
シグルトは自らの白銀の髪に手をやり、なでつけるように軽く梳いた。
「自分で言うのもなんですけど、私、女性にはそこそこもてる方だと思うんですが。地位も名誉もお金もあるし、髪は白いけど容姿もまあまあ悪くないと思うし」
「じ、自分で言います? そういうこと……」
「君が正しい判断ができるように、客観的事実を提示してるだけですよ」
シグルトはしれっと言ってのける。
リシェルは呆れながらも、反論することはできなかった。全部、シグルトの言う通りだ。
エテルネル法院の導師という地位。国の英雄と称えられる名誉。宮廷魔道士として得ている貴族並の富。加えて顔も悪くない。
多分、シグルトに結婚を申し込まれたら、世のほとんどの女性が大喜びするはずだ。
実際、シグルトはリシェルには隠しているようだが、数多の貴族の令嬢たちとの見合い話もあったようだ。それらをすべて断ってきたことも、法院の魔道士たちの噂話を盗み聞いて知っていた。今から思えばそれもリシェルのためだったのだろう。
(どうして、私なんだろう……?)
考えてみれば不思議だった。パリスが言っていたように、シグルトなら「どんな女でもよりどりみどり」だろうに、なぜ自分なのか。
(先生なら、私なんかよりずっと綺麗で、身分もちゃんとした女がいるはずなのに――)
こんな自分が何者かすらわからない、何にも持っていない小娘が釣り合うわけがないのだ。
「どうして、私なんですか?」
シグルトの紫の瞳を見上げて、まっすぐに疑問をぶつけてみる。
「どうして、か……多分、今同じことを考えている男が隣の塔にいるでしょうね」
シグルトはくすっと笑った。リシェルには意味がわからない。
「リシェル。恋に落ちるのに理由はないんですよ」
「そう、なんですか?」
「君もローラ・シャルトルの小説を読みなさい。そうだ。ちょうど君と同い年の主人公の、初恋を扱った小説があるから、それを読むといい。そうすれば君も恋についてわかりますよ」
「はあ……」
曖昧に返事をしたものの、結局はぐらかされたような気がする。
「できれば、君の初恋の相手が私であってほしいものですね……」
言ってシグルトは、リシェルの頬をそっと撫でた。
恥ずかしくなって目を逸らすと、シグルトの机の上に広げられた新聞の見出しが目に入った。
“クライル王子率いるラティール騎士団、ラムド地方の凶悪山賊団を成敗”
リシェルの視線に気づいて、シグルトが新聞を手に取る。
「初任務だそうですよ。結構激しくやり合ったみたいですけど、あの馬鹿王子も、運だけは強いらしいですね」
ラムド地方の山賊団と言えば、その残虐さで近年王都にまで噂が届いていた。
黒髪の青年のことが思い浮かんだ。腕が立つという話は聞いていたが、怪我などしていないだろうか。
心配するリシェルを余所に、シグルトはさして興味もないのか、手に取った新聞を折りたたむと、くず籠へ乱雑に投げ入れた。
リシェルは、広がる一面の花畑の中にいた。
咲いているのは、可愛らしい薄紅色の花。
時折風に吹かれ、まるで頷きかけるように揺れている。
その中を、二つの人影が歩いていた。
大きな影と、小さな影。
二人の姿は曖昧にぼやけ、はっきりと見えない。
声だけが、まるですぐ近くにいるかのように、鮮明に聞こえた。
「すごい……魔法みたい……」
か細い、幼い少女の声。
「まあ、魔法なんだけどね」
応えたのは、まだ若い女の声だ。
こちらは消え入りそうな幼い声とは対照的に、意志の強さを感じさせる声だった。
「気に入った?」
小さな人影が、頷いたように見えた。
「よかった。この花ね、“リシェル”っていうのよ。とっても素敵な花言葉があるの――――」
女の声が、風に乗って優しく響く。
なぜだろう。
その声が、とても心地よくて、懐かしい――――
リシェルは目を開いた。
カーテンの隙間から日の光が洩れている。もう朝だ。
とても短い夢。最近、繰り返し見る夢。
その光景もぼんやりとしているのに、あの二人の声だけははっきり覚えている。
(あの小さい女の子の声――私?)
では、一緒にいたもう一人は誰なのだろう。
(もしかして、あれがアーシェ――?)
ただの夢なのか。それとも、失われた過去の記憶か。
今まで、過去の記憶なんてまったく思い出せなかったし、夢にすら見なかった。
でもここ数日、初めて魔法を使った日から、繰り返し同じ夢を見るようになった。
一面に広がる、薄紅色の花――リシェルの花畑。
その背景には、白く雪山が連なっている。
もし過去の記憶だとするならば、あれはカロンの雪山だろうか。
だが、年中雪に閉ざされるカロンに、あんな花畑が本当に実在するのか。
(確かめたい――カロンに行けば何かわかるかもしれない――――)
そう思っても、王都からカロンは遠い。とてもちょっと行って帰って来れるような距離ではない。それに、今はあの辺りは治安が良くないと聞く。心配性のシグルトが行くことを許してくれるとも思えなかった。
今は、できることを頑張るしかない。
確実に、前へは進めているのだから。
リシェルは寝台から跳ね起きた。
日曜更新できなかったので、とりあえずできてるとこまでアップしました^^;




