21 ルゼル
「危ない!」
リシェルは全速力で駆け、少年の腕を掴むと、力任せに池から引き離す。
少年は驚いたように、目を丸くしてリシェルを見上げた。
十歳くらいの男の子だが、その瞳と髪は淡い黄緑色で、彼が幼いながら魔力の使い手であることを示していた。ローブを着ておらず、シャツと短いズボンという格好だが、年齢からして魔術学院の学生なのかもしれない。
「坊や。危ないじゃない。落ちちゃうわよ?」
「……誰だ、お前?」
可愛らしい外見に反した、子供とは思えぬ尊大な口調に、リシェルは思わずむっとした。
「こら、年上に向かってお前なんて言っちゃダメじゃない」
注意すると、少年は不快そうに眉を寄せた。
「……無礼な奴だな。ボクを知らないなんて」
「馬鹿っ! 頭下げろ!」
突然、後頭部に衝撃を感じると同時に、視界が地面に変わる。
横でパリスが頭を下げている。彼の手がリシェルの頭を押さえつけているのだ。
「申し訳ございません! ルゼル導師!」
(え、導師……?)
パリスの言葉に、顔を少し上げ、目の前の少年をまじまじと見やる。
(こんな子供が……?)
導師の中には、私より年上で、私よりずっと若い外見の人もいますよ――
夜会でのシグルトの言葉を思い出す。
まさか、この子供がシグルトよりも年上だというのか。
「……ブランの弟子か。誰だよ、この無礼な娘は?」
「シ、シグルト導師の弟子です」
パリスが呆然とするリシェルを小突いた。
「ほら、挨拶しろ!」
叱りつけるように促され、リシェルは慌ててもう一度頭を下げる。
「シグルト・アルフェレスの弟子の、リ、リシェルと申します。すみません、導師様だなんて知らなくて、その……失礼致しました!」
「ふ~ん、お前が噂のシグルトの弟子か? 魔法が使えないっていう……」
ルゼルは腕を組んで、リシェルをつま先から頭までじろじろと見た。汚いものでも見るかのような視線に、気分が悪くなってくる。
リシェルは目を合わせないように、ひたすらうつむいて縮こまった。
「……シグルトも随分趣味が変わったな」
「私がどうかしました?」
当の本人の声に、全員が振り返る。シグルトが立っていた。リシェルとパリス、ルゼルという思いもしない3人が一緒にいることに少し驚いているようだった。
現れたシグルトを睨め上げ、ルゼルが責めるように問う。
「シグルト。お前、弟子にどういう教育してる?」
「リシェルが何か?」
「このボクの顔を知らないなんて、無礼もいいとこだ」
「ごめんなさい……」
知らなかったとはいえ、パリスだって止めようとしてくれていたのに、一人で突っ走ってしまった。自分のせいで師が責められることに、申し訳なさでいっぱいになる。
シグルトはリシェル、それからルゼルを見て、最後に池の方をちらりと見やった。
再びルゼルに視線を戻すと、大げさに申し訳なさそうな顔を作る。
「それはそれは……弟子が失礼しました。ですが、これまでこの子には私の仕事の手伝いばかりさせていたので、貴方とはお会いする機会がなかったんですよ。どうかお許しください。本当なら今日の会議でご紹介するつもりだったんですが……まさかルゼル導師がこんなところにいらっしゃるとは。一体何をされていたんです? また“実験”ですか?」
「……お前には関係ない」
ルゼルは追及されたくないのか、シグルトから視線を逸らす。
シグルトは薄く笑った。
「研究熱心なのは結構ですが、ここは天の塔です。実験をされるならご自分の塔でされた方がよろしいかと思いますよ」
「……ボクに指図する気か?」
ルゼルはシグルトを睨みつけた。子供の外見からは考えられないほどの険のこもった眼差し。
「指図だなんてとんでもない。ただ神聖な天の塔を遊び場にされるのは、他の導師たちもいい顔をしないでしょうし、お止めになった方がいいと申し上げただけですよ」
シグルトは言葉遣いこそ丁寧だが、どこか我儘な子供を言いくるめるような口調で、笑みを絶やさず言った。
ルゼルがますます険しい顔になって口を開こうとした、その時、
「ル、ルゼル様。こんなところにいらしたんですか……」
今にも消えそうな弱々しい声がした。
ルゼルの後ろに、30過ぎくらいの、痩せぎずの男が立っていた。頬が痩せこけ、ひどく貧相な印象の男。ヴァ―リス人としては一般的な、茶髪に茶色の瞳という特徴のない容姿だが、その身にまとう白のローブが彼の地位を表していた。腕には、丈の短い濃紺のローブがかかっている。
「ほら、お弟子さんが迎えに来ましたよ」
ルゼルは舌打ちすると、男の腕からローブをひったくるように奪い取り、羽織った。
「シグルト、今度の弟子にはしっかり礼儀を叩きこんでおけよ。……行くぞ、ルーバス」
吐き捨てるように言い残し、足音荒く去っていく。
ルーバスと呼ばれた男は、おどおどした様子でシグルトたちに軽く頭を下げると、慌ててルゼルの後を追った。
2人の姿が見えなくなると、シグルトはすっとリシェルの横へ移動して、池を背にして弟子に向き直る。
「リシェル、嫌な想いをさせてしまってすまなかったね」
「いえ……私が失礼なことをしてしまったんですから……」
「ぼ、僕が引き止めるのが遅かったせいです! 申し訳ありません!」
突然上がった声に、シグルトはさも今気づいたというようにパリスを見た。
「おや、パリス君。いたんですか。私の弟子にまた何か用ですか?」
シグルトの言葉に、パリスは彼の怒りがまだ解けていないことを知って、青ざめた。リシェルが慌ててかばう。
「私に謝りに来てくれたんです」
「ほお、それで、君は許したんですか?」
どこか非難めいた口調で問われ、リシェルは恐る恐る答えた。
「もう済んだことですから……」
「君はお人好しというか、甘いというか……」
シグルトは呆れたようにため息をつき、それから小声で付け足した。
「……まあ、君のそういうところにも、私は惹かれるんですけどね」
リシェルの頬が赤く染まるのを見て、その反応に満足したかのように微笑む。
「シ、シグルト様。先日は、その……僕は本当に申し訳ないと……」
震える声で謝罪を述べようとするパリスに、シグルトは一瞬浮かんだ笑みを消して、面倒くさそうに言った。
「ああ、もういいですよ。リシェルがいいなら、私も君のことなんてどうでもいいんでね」
ひどく傷ついた表情で固まってしまったパリスなど、本当に意に介していないかのように、
「さ、そろそろ時間です。行きましょうか」
リシェルの背を押して先に歩かせ、自分も続く。
だが、パリスの横を通る過ぎる時、そっと小声で耳打ちした。
「……パリス君。悪いけど、彼の遊び散らかした“玩具”、片づけておいて貰えますか? 間違ってもリシェルの目には入れたくない」
「え……?」
「じゃあ、またあとで」
シグルトはそれだけ言って、さっさとリシェルを促し、歩いて行ってしまった。
(“玩具”……?)
パリスは先程ルゼルが立っていた場所へと視線を向けた。
池の水面が、赤黒く濁っている。
しばらくすると、池の中から黒い物体がゆっくりと浮かび上がってきた。
それを見て、パリスは湧き上がる吐き気に口を手で押さえた――――
「あんな小さな子が、導師様だなんてびっくりしました」
リシェルは導師会議の間へと続く廊下を、シグルトと並んで歩きながら言った。
「あれでも私よりかなり年上なんですよ。私みたいに、魔力の影響で老化が遅くなる人はたまにいますけど、彼は特殊で、もうほとんど不老になったと言っていいくらいですね」
「そうなんですか……いろんな人がいるんですね……」
魔力によって髪や瞳の色が変化する者。不老になる者。
魔力の影響は様々だ。この薄紅色の瞳の理由を知りたいがために魔道士になりたいと思ったが、実際魔力を扱うようになったら、自分にはどんな変化が現れるのだろうか。魔力による影響は個人差があるらしいが、いつかシグルトが心配していたように、この黒髪の色が変わってしまったりするのだろうか。
(……そもそも、私に魔力なんてあるのかな?)
師や他の魔道士が魔法を使っているのは幾度も目にしたが、そういった力の存在を、自分の中に感じたことはなかった。
隣を歩くシグルトが、ふと真面目な顔になって言った。
「……リシェル、彼には、ルゼルにはなるべく近づかないで下さい」
「え?」
「いや、彼だけじゃない。私の正式な弟子になったことで、色々な人間――特に他の導師達が君に興味を持つでしょう。でも、ブラン以外の導師には極力関わらないようにして下さい」
「どうしてです?」
「……ろくな人間がいないんですよ」
リシェルは目を見開いて師の顔を見上げた。
「あ、今、お前が言うかって思いました?」
「お、思ってませんよ」
図星だった。
シグルトは疑わしそうにリシェルを見てから、苦笑した。
「まあいいでしょう。私なんて至ってまともな方だって、これから君にもわかるでしょうから」
シグルトにろくな人間じゃない、そう評される、国家最高位の魔道士たち。
一体どんな人たちなのだろう。
確かに先程のルゼルは外見は子供だというのに、好感の抱ける人間ではなかった。まだ会ったことのない、他の3人の導師もどこか問題のある人物ばかり、ということか。
(……少し怖くなってきた……)
やがて二人は銀で星や古代文字の意匠の施された、大きな紺碧の扉の前へと着く。
この先は導師と、導師の成人した一番弟子のみが立ち入りを許されている。いつもならここで導師会議へ行くシグルトを見送るのだが、今日は師とともにこの中へ入っていくのだ。緊張でうまく唾が飲み込めず、ごくりと喉がなってしまう。
リシェルの不安を感じ取ったのか、シグルトが宥めるように弟子の頭にぽんっと軽く手を乗せた。
「そんなに不安に思わなくても大丈夫ですよ。君は自己紹介だけして、後はずっと黙っていればいい」
「は、はい」
「でも、君がどうしても不安なら――」
シグルトはリシェルに少し顔を近づけ、いたずらっぽく口角を上げる。
「つまらない会議なんかこのまますっぽかして、二人でどこかへ行きましょうか? 公園で愛について語り合うのなんてどうです?」
「……先生、さぼりたいだけでしょう? 駄目ですよ、絶対」
リシェルはわざと呆れた調子で言ったが、師が自分の緊張をほぐすためにふざけているのだということは分かっていた。内心、その気遣いに嬉しくなる。
「真面目な弟子を持つと苦労しますねぇ。じゃ、行きましょうか」
シグルトは笑って、目の前の扉をゆっくりと手で押し開いた。